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令和5年11月朝坐禅会「指月の会」案内(11月27日朝6時半より
2023年11月24日即ち是如来の大圓覚
『証道歌』
11月晋山結制無事勤めることが出来ました。
最大の難関となる法問で、想定していた問答が不発でしたが、上手くまとまったのでこちらで書き残しておきます。
「悟りってなんですか?」
定番ですね。
仏とは何か悟りとは何か、興味関心が向くところは大体同じです。
そして禅僧としては答えにも定番があります。
「悟りとはなんですか?」に対して
「君は今日朝ご飯を食べたかね?では箸を洗いなさい」
とか、
「仏法適々相承の大幹を聞くだけで得ようとする不心得者は打ち据えるより他に無い」
とか、まともに問いに回答しないのが定番なのです。
そして、それこそが禅僧の「親切心」なのです。
なぜまともに答えないのが親切なのか。
そもそも悟りも仏も仏典や祖録に言い尽くされているではないですか。
放四大莫把捉 (四大を放って把捉することなかれ)
寂滅性中隨飮啄 (寂滅性中隨って飮啄せよ)
諸行無常一切空 (諸行は無常にして一切空なり)
卽是如来大圓覺 (即ちこれ如来の大圓覺)
起こる物事の理由理屈を突き詰めすぎようとするべきではない。
全てはあるがままにありなるようになっていくのだから流れに従ってあるべくしてあれ。
そもそも万物万象は移り変わってゆきそこに意味など無い。
だからこそ、そんなものに拘り心囚われる必要など何処にも無い、というのが釈尊の悟りなのだ。
とか、
達磨大師は何故インドから中国に禅の教えをもたらしてくれたのか、という問いへの答えとして
直指人心見性成仏
お前のその揺れ動く心こそが仏そのものなのだ、と指さすために渡来したのだ
等、様々在ります。
回答は幾らでもありますが、それを禅僧が軽々に口にしない理由は、
これらは、自分で見つけ出させなくては、当人の悟りとはならないからです。
自らの心こそが他者の心こそが、私たちが仏なのだと、自分で見つけ出さなくては、当人の宝とはなり得ず、耳知識でしかありません。
知識は体験とはなり得ず、自身の確信には到りません。
禅僧とは、人の中に宝を見いだすものです。
人から与えられた宝は、自分の宝とはなりません。
金貨と同じです。
使えば、無くなってしまうほどのものです。
ですが自分の内に確信を持てたなら、その宝は尽きることはありません。
無価の宝は、もちうれども、尽くることなし、です。
施財の偈で唱える財施と法施とはこのことです。
だからその功徳は無量のものとなるのです。
こうしたことから不親切な回答こそが親切心なのです。
自ら見いだすことが出来る様、導き叱咤激励することこそが、師の愛ある鞭なのです。
しかし、私たち現代人は多くの情報にさらされるが故に、理屈で納得出来ないものには中々本気になって身を入れることが出来ないという習性が出来上がっています。
なのでこれを聞いた人には、是非とも身を入れて、坐禅をはじめとして弁道精進に励んで欲しいと思います。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は12月25日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています今回は住職出張のため先代住職が勤めます。 -
令和5年10月 朝坐禅会「指月の会」案内(10月23日朝六時半より)
2023年10月22日放四大莫把捉 (四大を放って把捉することなかれ)
寂滅性中隨飮啄 (寂滅性中隨って飮啄せよ)
諸行無常一切空 (諸行は無常にして一切空なり)
卽是如来大圓覺 (即ちこれ如来の大圓覺)
『証道歌』
11月晋山結制まで一月を切りました。
いよいよ準備も大詰め、スケジュールが始終埋まっててんてこ舞いです。
十月の頭に筆の達者な方にお願いをして、本堂前に角塔婆を立てました。
大行事につきものの証のような物で、いよいよ感が出てきました。
書き付ける文言は正面にやる行事の趣旨、裏面に日付と建立者名の記入。
左右の面はそれぞれ経典や祖録からの引用を書き付けます。
上記の文は証道歌という祖録から引きました。
証道歌というのは中国仏教の祖師が書かれた、禅の境地を詩として歌い上げた文言で構成されています。
其の中で、私の思うところにしっくりくる箇所を今回用いたわけです。
少しわかりやすく崩して読むならば
起こる物事の理由理屈を突き詰めすぎようとするべきではない。
全てはあるがままにありなるようになっていくのだから流れに従ってあるべくしてあれ。
そもそも万物万象は移り変わってゆきそこに意味など無い。
だからこそ、そんなものに拘り心囚われる必要など何処にも無い、というのが釈尊の悟りなのだ。
私は
永平寺での修行坐禅で、自分に拘りすぎる必要は無いんだ、ということを知りました。
總持寺での参禅弁道で、お坊さんらしくあることが拘りの無い最適のあり方だと教わりました。
御誕生寺での参学問法で、それを続けていくことの大切さを禅師様に身を以て示して頂きました。
私なりの足跡、仏道を歩む発端というか、動機となるところに合致する表現であり、また三十三回忌の法事の時にいつも読んでいて馴染みがあることから用いました。
願わくは過去の祖師方に同じく、佛意を損なわずに話すことが出来ますように。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は11月27日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和5年9月 朝坐禅会「指月の会」案内(9月25日朝6時半より)
2023年9月24日ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
『正法眼蔵』生死の巻
しばらく前にネットの記事で、定年した後にお坊さんを選ぶ人達がいる、というものを読みました。
曰く、仕事に邁進して仕事以外の人間関係が疎かな日本人男性は定年後の長い余生をもてあます。
多様な選択肢の中に第二の人生として僧侶を選べる道が近年整備されている。
老いの中で無常を感じることは機縁が整うことでもあるが、金儲けのため知識欲のため老人ホームがわりを求めて等様々な理由があり、俗っ気が抜けないままで修行に臨んでも上手くはいかない。
ある住職が言うには、生半可な覚悟では自己を捨てられず、修行の邪魔になることが多い、
との事。
コメント欄で、自分には自己は捨てられない、との投稿がありましたが、ここが肝の所なのでもう少し掘り下げてみます。
自己を捨てる、だと仕事でまま求められたりカルト宗教のイメージで浮かぶような、他人のいいなりになってロボットのように動くことを強要されるといったことを想像する方も多いかと思います。
私としては、ここは伝統的な我を捨てる、という表現の方が受け取りやすいように思います。
我を捨てる、というのは自己の意思決定を放棄して外の情報を丸呑みするといった意味ではありません。
俺が私が、なんで自分ばっかりといった我見を離れようとするもので、自己中心の世界観の呪縛からの脱却とも言い換えられます。
自己愛自己保存自己優先自己顕示と欲は密接に結びついていて、重たく煩わされるもの、いわゆる煩悩です。
それを小さく少なくしていくのが修行であり、欲に振り回されない自分を育てていくことなのです。
上記は我が宗祖道元禅師の有名な言葉です。
少し崩して現代語訳します。
自分の身と心を手放して、仏の家の中に投げ入れる(伝わってきたとおりの教えや修行に倣う)。
そうすれば、仏の方から全てが行われていく。
自分は仏のはたらきに従うのみである。ただ従うだけで、自分で力むこともなく、あれやこれやと悩むこともなく、生死の惑いから自由になる。そういう生き方をしている人こそ、仏だ。だというのにどうして『自分』に執着し続けるというのか!?
第二の人生としてせっかくの仏縁を得た方達には是非とも踏ん張って欲しいと願います。
まずは倣うこと。
仏の生き方を学び真似び、倣うことが欲や自意識といった重たく煩わしいものから離れる道であると感じることが、きっと長く続ける意欲となるはずです。
願わくはこの機会を持って多くの人が仏道を成ずることができますように。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は10月23日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和5年8月 朝坐禅会「指月の会」案内
2023年8月27日一切の有情に供養して。汝と有情と普く皆飽満せんことを。
『甘露門』
今年はコロナ禍以降久しぶりに大勢の人と出会うお盆になりました。
台風の予報もありましたが、宇都宮近辺は大した雨風にはならず、迎え盆送り盆そして新盆のお宅へお参りに伺う棚経もコロナ前と同じように勤めることが出来ました。
お盆の時は色々なお話を相談されるときでもあります。
ある時伺った先のおばあちゃんから、亡くなったご実家の家族が何度も夢に出てくるけれどどうしたらよいか、と聞かれたことがあります。
私は、
ご実家があるならお墓があるなら、お仏壇やお墓にお参りして面と向かって顔を合わせてくればいい、お線香を焚いてお供えをして、懇ろに手を合わせてどうしましたか、とたずねれば良い。
お盆はそれに相応しい時期だから、お仏壇もお墓も、それが出来る場所なんだから直接に会ってくれば良いでしょう。
その上でまだ夢に見られるのなら改めてご相談下さい、
と答えました。
亡くなっても、繋がりがあったご縁は無くなりません。
失われても、残る物はある。
お盆は形ばかりの物などではなく、亡くなられた方とのご縁を確認することの出来る、またとない機会であるはずです。
先日ネットを見ていて、宇多田ヒカルさんの書き込みを見つけました。
亡くなられたお母様によせて言葉を綴られていました。
「人が亡くなっても、その人との関係はそこで終わらない。
自分との対話を続けていれば、故人との関係も変化し続ける。」
繊細な歌を書かれる彼女らしい、深い洞察から出た言葉なのでしょう。
お盆の趣旨はともかく、外見は時代に合わせての変化があっても良いかもしれません。
真言宗のあるお坊さんは、ナスキュウリで作った牛馬で迎えるのではなく、ミニチュアのスーパーカーで迎えるよう作った盆だなを見たと言っていました。
どうぞいらして下さいとおもてなしをする場が盆だななのですから、故人やご先祖を想っての心づくしの席であるならば、それが嬉しくないはずは無いことです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は9月25日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和5年7月24日 朝坐禅会「指月の会」案内
2023年7月23日法堂上に鍬をさしはさむ人を見る
『瑩山禅師洞谷記』
本年11月2日3日に行う晋山結制まで100日を切りました。
いよいよお尻に火が付いてきて、準備に注意が持って行かれてスケジュール管理が疎かになり、この坐禅会の事を前日まですっかり忘れていました。
折角ですのでこの晋山結制について少しお話しします。
晋山結制を行うにあたり、人には住職の就任披露式典といった説明をしています。
ですが厳密には、晋山式と結制はそれぞれ別の物になります。
晋山式は住職の就任式です。
余所から修行を終えた僧侶を迎え、到着してお寺の本尊様や祀っている神様に到着の挨拶をして任に就く式典です。
対して結制は修行を主催する行事です。
一山の住職として力量を積み、夏と冬に行う集中修行期間「制中」を主催し力量を示すもので、この結制をやり通して始めて「大和尚」と呼ばれるようになります。
今日ではこれを併せて行うのが主流になり、晋山結制と言われるようになりました。
晋山結制は大変な行事で、多くのお寺では一世一代の大行事として行われます。
行事のハイライトは結制の上堂と呼ばれる所です。
仏様の台座である須弥壇に登り、本尊様に代わり法を説いてみせようと宣言し、満座の僧侶檀信徒の前で仏法の問いかけに答える式典です。
これをこなして見せてこそ、一人前の住職と見なされるようになるのです。
五月に新潟で大学学友の結制にお呼ばれし、この上堂で印象に残るシーンがありました。
学友の和尚が須弥壇上に登り問いかけを受けると宣言し、最初に問いかけたのは彼の十歳ほどの息子でした。
曰く「お坊さんって必要ですか?」
中々強烈な問いかけです。
対しての答えは大体このようなものでした。
「世の中車は便利だと皆が使うが、信号機が無くては皆迷いぶつかり合いが絶えなくなる。
お坊さんは法律とは別の所で信号機の指し示す役割を果たしているんだよ」
色々な想いがあっての例え話だなぁ、と思いながら聞いていました。
上記の言葉は大本山總持寺を開かれた瑩山禅師の言葉です。
お釈迦様の残された「私は心の畑を耕すものである」の言葉を受けての表現でしょう。
お寺の本堂で法が説かれ、それを聴く人の心が豊かに耕され、それが後代までも続いていくようにという願いの言葉でもあります。
仏法は私たち今を生きる人の心を耕し、道を明るく照らし出す灯火とも標ともなるものです。
願わくはこの苦心惨憺の晋山結制をもって多くの人に仏道を成ずる機会となりますように願い、まだまだ準備に取り組みます。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は8月28日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています