ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

座禅会 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

座禅会の記事

  • 31年1月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2019年1月26日

    本堂前の門松

    善因善果 悪因悪果

     

    新年おめでとうございます。

    本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

     

    昨年年末に読売新聞の海外社会欄を読んでいて気になる記事がありました。

    「LGBTの楽園 裏に差別」という性的マイノリティ差別の現場を取材した記事です。

    その差別の現場取材で、

    “信仰が深い年配者や都市部以外の伝統的な地域社会で暮らす住民の間では、LGBTは「前世の業を背負って生まれてきた」とする考えが根強く残っている”

    という部分が目にとまったのです。

     

     私が気になった理由は「タイでも間違った業論が根強くあるのか」でした。

    「前世の悪業の因縁で今世の悪い境遇がある」という言い回しは二昔前にはよく、今でも少々聞く言い回しです。

    日本でも長らく使われた論法ですが、これは元来の仏教からすれば誤りです。

    私の大学時代の恩師、駒沢大学名誉教授の田上太秀先生は仏教の平和活動という講演の中で

    「元来の仏教に差別はない。勉強不足の人が間違った業の使い方をする。

     業とは日々の行い行動によって培われる、常日頃の習慣なのだ。

     自らの為他人の為、周囲や未来の為になる事を心がければ、それが習慣となり身についていく。

    その生き方が自らを良き人とし、それが周囲に伝播していったならば世の中を良くしていくこととなる。

    逆に悪いことを行い続けたなら、習慣となり身について、自分にも他人にも悪い環境を作ってしまう。

    業とはするべき事、するべきでないことを身につける事。習慣のめぐみを言うものなのだ。」

    という大意のお話をされていました。

     

     仏教は歴代の祖師が身を以て示してきたように「自らの生き方を問う物」なのです。

    日常生活でいかに己を律し、正しい習慣を身につけて生活するかを教えているに過ぎないのです。

    その結果それが周囲に影響し、世を平らかならしめていくことを願う。

    それが仏教徒の平和活動となるのだと、私は教わりました。

     

     業は、生き方の違う人を非難する材料などではなく、まして差別の理由づけに用いられるものではないのです。

    悪いことをすれば自らが汚れ、良いことをすれば自らが清し。

    その生き方の中には、他人を悪し様にとらえる差別なんてなくなるはずです。

    きちんとした言葉で、正しく仏法を伝えられるよう、今年も精進していきたいと思います。

     

                         祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    • 日時:1月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)12月のみ第三週開催

      6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

      7時20分~8時    (二回目の坐禅)

      場所:祥雲寺本堂一階

      用意:身一つで大丈夫です。

      足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

       

      注意:初めての方は最初に指導を行います。

      その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

      尚、次回は第三月曜日となる18日に開催します。

  • 30年12月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2018年12月16日

    株式会社ダイナム社員研修会。 白装束を用意されての研修です。

    要望により、普段行っていない警策を用いての坐禅会となりました。

    この法は人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし
                                 正法眼蔵弁道話
     
     「ほとけさま」に手を合わせましょう。
    法事の際など、お寺で良く聞く言葉です。
    ここで言うほとけさま、とは如何なる存在であるのか、何故尊いのか合掌礼拝するのか。
    そんな疑問を持ったことはないでしょうか?
     私には一つの確信があります。
    私は、生きて呼吸をし、血肉を備えた生身の仏様にお会いしたことがあるのです。
    かつて修業時代、福井県の大本山永平寺で摂心という修行に臨んでいる中で、坐禅をしながらの給仕のために坐禅堂を見渡してみれば、そこには数十人を超える生きた「ほとけさま」が座っていられました。
    それは共に修行に励んでいた同輩や先達、同じく迷い悩みながら精進していた俗人であった私たちが、思わず手を合わせ拝みたくなる「ほとけさま」達として無言の内に世の片隅を照らしていたのです。
    故宮崎禅師様は「坐禅をすれば良き人となる」と言われていましたがそれは事実です。間違いのないことです。
    「ほとけさま」とは、私たちの心のはたらきの中に時として立ち現れ出でる尊い「ほとけごころ」の表れなのです。
    お坊さんとは仏教徒とは、「ほとけごころ」に生きることを目指す人たちなのです。
     
     では「ほとけごころ」とは如何様にすれば現れるものなのでしょうか。
    坐禅の境地で日々に臨むことができればこの上ないのでしょうが、
    曹洞宗の高祖道元禅師は著書『正法眼蔵』生死の巻でこう説かれています。
    「思うに、仏となるには、ごくたやすい道がある。
    それは、もろもろの悪事をなさぬこと、生死に執着する心のないこと、そして、ただ、生きとし生けるものに対してあわれみを深くし、上をうやまい、下をあわれみ、なにごとを厭う心もなく、またねがう心もなく、つまり、心に思うこともなく、また憂うることもなくなった時、それを仏と名づけるのである。
    そして、そのほかに仏をもとめてはならない。」(増谷文雄訳)
    生き方を調えることで惑い迷う自己を少しずつ変えていく、その中で心が「ほとけごころ」へと向かっていく、つまり訓練で培っていくものなのです。
     あの日に見た尊い在りよう生き様。
    それを忘れぬようこれからもこの仏道を歩んでいきたいです。
                                    祥雲寺副住職 安藤淳之
    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:12月17日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)12月のみ第三週開催

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

  • 30年11月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2018年11月22日

    福寿草 小さい秋みーつけた。

     

    「正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんがためなり」

                               五観の偈

     

     上記の一文は、曹洞宗の僧侶が食事の際に唱える文言です。

    日常の生活すべてを修行の場と心得、食事もまた修行と永平寺の道元禅師は説かれました。

    修行の目的とは、三毒と呼ばれる悪行の根っことなる心の働きから離れることです。

    三毒とは貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(おろかさ)の三つです。

    ・貪とは貪欲。むさぼり執着すること。

    ・瞋は瞋恚で、自分の心に違うものをいかり憎むこと。

    ・痴は愚痴で、ものの道理のわからぬ愚かさのこと。

    心の迷いを防ぎ、身と口がつい犯してしまう過ちから離れるには、この三毒をなくすことが最高の修行であると説かれています。

     

     食事は生きることに欠くことは出来ません。

    しかし不足するなら不和が生まれ過ぎたならば健康を害するものとなります。

    美味しすぎればむさぼりの心が芽生え、不味い足りないとなればいかりの心が燃え上がります。

    先日勉強会である人から指摘がありました。

    「現代の食生活は、美味しすぎるから過食という病が生まれるんだ」と。

    ジャンクフードと呼ばれる、現代に多く見られる部類の食事は味が濃いのが特色です。

    味が濃いと味覚が強く刺激されて、脳内麻薬が分泌されるから限度を超えて食べてしまうそうです。

    そうしたことから、昔の人は精進料理と呼ばれる修行者むけの味の濃くない料理を作ったのです。

    精進料理は淡味、ダシを主軸とし、素材の味を生かした料理とされます。

    味の濃くない、それでいて十分においしい料理によって、貪りの心等の欲望を惹起されすに、体が病み衰えることのないように力をつける薬として頂くこと。

    それが精進料理のコンセプトであり、食事を頂く僧侶にあるべき心構えとなるのです。

     

    食欲の秋、私もまた過ぎることがないように心しなくてはなりません。

     

                                祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:11月26日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

  • 30年10月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2018年10月21日

    本堂裏手に造られた新しい墓地区画です。

     

    四大分離して甚れの処に向かってか去る。 『無門関』
    現在祥雲寺では新規の墓地区画を整備しています。
    私が普段で、新しく墓地を建てられた人に話している文章を載せてみます。
     しばらく前に「千の風になって」という歌が大変流行しました。
    私のお墓の前で泣かないで下さい、私はそこに居ません。
    千の風になって、あの大きな空を吹き渡っています。
     この曲の特別なところは、死者からのメッセージであるという所です。
    死という断絶。それを超えて語りかけてくれる「向こうからの言葉」
    うちひしがれている人にとって何よりの慰めとなる、この歌にはそうした力があるのだと思います。
    この歌詞は一説にはネイティブアメリカンの言葉が元になってアメリカで広まり、それを新井満氏が翻訳して歌にしたそうです。
     私たちは縁あってこの世に生を受け、様々な結びつきの仲で育ちやがて枯れていきます。
    縁によって生まれいでた私たちは、死ねば何処に行くのでしょうか。
    何処に行くのでもありません。世界から結びつきによって生まれた私たちは、ほどければまた世界に帰っていくのです。
    私たちの命は、すがたかたちを変えてまたこの世界を巡る大きなはたらきへと立ち返っていく。
    だからこそ、悲しみに萎れた顔を上げて耳を澄まして見たならば、木漏れ日の煌めきや風のそよめき、土の臭いや水の流れにあの人の命のはたらき、面影を見ることも出来るのでしょう。
     ですが、お墓こそが故人を思い返す、偲ぶのにこの世で最も適した所であることも間違いないはずです。
    故人を弔い、文字通りその名残を石の永遠性に託して刻み、この世にあったのだという証拠を立たせているのですから。
     どうかお墓参りの時にはたくさん声をかけてあげて下さい。
    故人には出来なくなった掃除をして届けたい物や思いをお供えしてあげて下さい。
    そうして合わせた手の向こう側に、きっと喜ぶ顔を感じることが出来るはずです。
                               
                             祥雲寺副住職 安藤淳之
    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:10月22日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

  • 30年9月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2018年9月22日

    曼珠沙華

    生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり

                                   『正法眼蔵』永平道元

     

     先月の続きを書きます。

    以前曹洞宗の布教第一人者とも言われる盛田老師の講義で

    「宗教者は自らの生き死にの問題を明確にすべき」

    といった大意の言葉をいただきました。

    どう生きてどう死ぬのか、宗教はこの大命題に答えるためにあるのです。

    私の思う死生観を書きたいと思います。

     

     昔読んだ本の中に「六尺の病床これ道場なり」というエピソードがあります。

    あるところに病床に横たわる若い僧侶がいました。

    それを見舞った師匠が一枚の書付を枕元に置いていきました。

    それが「六尺の病床是道場なり」です。

    私にとって人生の範ともなっている言葉です。

     

     お釈迦様は布教の旅の中で、貴方も旅などせず畑を耕し作物を育てては?、との問いかけに、

    私は心の畑を耕すものなのだ、と答えられたそうです。

    仏教徒は、自らの、そして他者の心の畑を生涯耕すべく道を弁精進する人たちを言うのです。

    そしてそれは、いかなるところであっても取り組むことの出来るもので、たとえ病床に臥せっていてもなお務め励み精進することは出来るのです。

    私には上記のエピソードは、正に弟子を導く師匠の叱咤激励であるのだと聞こえます。

     

     近い言葉としてはがん哲学外来を開かれている樋野興夫先生の書かれた

    「明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげましょう」

    という言葉が挙げられるでしょうか。

    曰く、がんとなり自分の未来を思うことが出来なくなると心が内向きになり萎れてしまう。

    そうした時には自分のこと以外に目を向けるべきだ。

    自分以外の大切なもの、気に掛けることが出来るものを見つけそのために時間を費やしてあげるべきだ。

    人間自分を大切にしすぎると色々なところで行き詰ってしまう。

    だから、自分以外に目を向けることで内向きとなった心の行き所を探すことが出来る、とのことです。

     

     お釈迦様は80歳で死の床に就き、最後まで集われた弟子方の為に教えを説いて、遂には自らの死に様をもって「これこそ私の最後の教え」とされました。

    最後まで「心の畑を耕すもの」であり続けたのです。

    私も及ばずながらお釈迦様の教えの上での孫子であります。

    法の孫として恥ずかしくないよう、受け継ぎ育み伝えていくべく努めることが私の「生死」です。

     

                                                            祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。

     

    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。

    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。

    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

     

    日時:9月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

     

    場所:祥雲寺本堂一階

     

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

祥雲寺行事案内

祥雲寺で行ってる月例行事や年間行事、その他法要・祭りなどについてのご案内です。 行事カレンダーもご確認ください。