ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

座禅会 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

座禅会の記事

  • 令和5年8月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2023年8月27日

    十一月晋山結制案内の掲示を門前に立てました

     

    一切の有情に供養して。汝と有情と普く皆飽満せんことを。

                                『甘露門』

     

     

     今年はコロナ禍以降久しぶりに大勢の人と出会うお盆になりました。

    台風の予報もありましたが、宇都宮近辺は大した雨風にはならず、迎え盆送り盆そして新盆のお宅へお参りに伺う棚経もコロナ前と同じように勤めることが出来ました。

     

     お盆の時は色々なお話を相談されるときでもあります。

    ある時伺った先のおばあちゃんから、亡くなったご実家の家族が何度も夢に出てくるけれどどうしたらよいか、と聞かれたことがあります。

    私は、

    ご実家があるならお墓があるなら、お仏壇やお墓にお参りして面と向かって顔を合わせてくればいい、お線香を焚いてお供えをして、懇ろに手を合わせてどうしましたか、とたずねれば良い。

    お盆はそれに相応しい時期だから、お仏壇もお墓も、それが出来る場所なんだから直接に会ってくれば良いでしょう。

    その上でまだ夢に見られるのなら改めてご相談下さい、

    と答えました。

     

    亡くなっても、繋がりがあったご縁は無くなりません。

    失われても、残る物はある。

    お盆は形ばかりの物などではなく、亡くなられた方とのご縁を確認することの出来る、またとない機会であるはずです。

    先日ネットを見ていて、宇多田ヒカルさんの書き込みを見つけました。

    亡くなられたお母様によせて言葉を綴られていました。

    「人が亡くなっても、その人との関係はそこで終わらない。

    自分との対話を続けていれば、故人との関係も変化し続ける。」

    繊細な歌を書かれる彼女らしい、深い洞察から出た言葉なのでしょう。

     

     お盆の趣旨はともかく、外見は時代に合わせての変化があっても良いかもしれません。

    真言宗のあるお坊さんは、ナスキュウリで作った牛馬で迎えるのではなく、ミニチュアのスーパーカーで迎えるよう作った盆だなを見たと言っていました。

    どうぞいらして下さいとおもてなしをする場が盆だななのですから、故人やご先祖を想っての心づくしの席であるならば、それが嬉しくないはずは無いことです。

     

          祥雲寺 安藤淳之

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は9月25日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和5年7月24日 朝坐禅会「指月の会」案内

    2023年7月23日

    上旬から綺麗に咲いています。

     

    法堂上に鍬をさしはさむ人を見る

                                       『瑩山禅師洞谷記』

     

     本年11月2日3日に行う晋山結制まで100日を切りました。

    いよいよお尻に火が付いてきて、準備に注意が持って行かれてスケジュール管理が疎かになり、この坐禅会の事を前日まですっかり忘れていました。

    折角ですのでこの晋山結制について少しお話しします。

     

     晋山結制を行うにあたり、人には住職の就任披露式典といった説明をしています。

    ですが厳密には、晋山式と結制はそれぞれ別の物になります。

    晋山式は住職の就任式です。

    余所から修行を終えた僧侶を迎え、到着してお寺の本尊様や祀っている神様に到着の挨拶をして任に就く式典です。

    対して結制は修行を主催する行事です。

    一山の住職として力量を積み、夏と冬に行う集中修行期間「制中」を主催し力量を示すもので、この結制をやり通して始めて「大和尚」と呼ばれるようになります。

    今日ではこれを併せて行うのが主流になり、晋山結制と言われるようになりました。

     

     晋山結制は大変な行事で、多くのお寺では一世一代の大行事として行われます。

    行事のハイライトは結制の上堂と呼ばれる所です。

    仏様の台座である須弥壇に登り、本尊様に代わり法を説いてみせようと宣言し、満座の僧侶檀信徒の前で仏法の問いかけに答える式典です。

    これをこなして見せてこそ、一人前の住職と見なされるようになるのです。

     

     五月に新潟で大学学友の結制にお呼ばれし、この上堂で印象に残るシーンがありました。

    学友の和尚が須弥壇上に登り問いかけを受けると宣言し、最初に問いかけたのは彼の十歳ほどの息子でした。

    曰く「お坊さんって必要ですか?」

    中々強烈な問いかけです。

    対しての答えは大体このようなものでした。

    「世の中車は便利だと皆が使うが、信号機が無くては皆迷いぶつかり合いが絶えなくなる。

     お坊さんは法律とは別の所で信号機の指し示す役割を果たしているんだよ」

    色々な想いがあっての例え話だなぁ、と思いながら聞いていました。

     

     上記の言葉は大本山總持寺を開かれた瑩山禅師の言葉です。

    お釈迦様の残された「私は心の畑を耕すものである」の言葉を受けての表現でしょう。

    お寺の本堂で法が説かれ、それを聴く人の心が豊かに耕され、それが後代までも続いていくようにという願いの言葉でもあります。

    仏法は私たち今を生きる人の心を耕し、道を明るく照らし出す灯火とも標ともなるものです。

    願わくはこの苦心惨憺の晋山結制をもって多くの人に仏道を成ずる機会となりますように願い、まだまだ準備に取り組みます。

     

    祥雲寺 安藤淳之

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は8月28日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和5年6月 朝坐禅会「指月の会」案内(6月26日朝6時半より)

    2023年6月24日

     

    無常を観ずる時、吾我(ごが)の心生ぜず、名利の念起らず

                                       『学道用心集』

     

     上記の言葉は私が曹洞宗栃木県宗務所に通っていた時、事務所のあった栃木市のお寺に大書されていた文言です。

    門前の小僧習わぬ経を読むという表現そのままに、週二回四年間通う中意味もわからず眺めている内に知らず頭に写し出されるようになりました。

    これも行の功徳と言えるのかもしれません。

     

     上記の言葉は我が宗祖道元禅師の残された言葉です。

    私なりに思う無常を感じた時に思うこと、無常觀を書いてみます。

     

     私も大学を卒業して僧侶となり、もうすぐ20年となります。

    後ろを歩く友人に後頭部が薄くなったと言われ、寝ても疲れがとれなくなってきて、4月の花祭り準備で痛めた足の腫れが6月になってもまだ引かず、歳を取ったことを実感しつつあります。

    今まで大勢の人を僧侶として見送ってきましたが、漸く私も知識としてだけではなく自分のこととして感じるようになりました。

    私もまた枯れてきたのだ、と。

    この時に思い感じることは、とても恵まれた環境でお坊さんを勤められた事実です。

    沢山の人の支えと助けがあってお坊さんとしてやってこられた。

    やがて枯れて朽ちるのならば、多くの人にしてもらったように後に続く人に良い土壌となって残すことが出来たなら自身の良い始末となってくれるだろう、というのが偽らざる想いです。

     

     昨今テレビを見ていて、勝利者インタビュー等で多くの人が「恩返し」を言われています。

    性分が天邪鬼なもので、周囲からたたかれない穏当な表現で言葉を発しているように思いつつ聞いてきましたが、やっぱり支えてくれた人達へ恩を返したいというのは自然に皆が行き着くところなのでしょう。

    これが私なりの無常觀。

    私が枯れて朽ちるならば、良い土となって次代を支え繁らせる豊かな土壌になれたらと願います。

     

    祥雲寺 安藤淳之

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は7月24日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和5年5月 朝坐禅会「指月の会」案内(21日月曜朝6時半より)

    2023年5月21日

    18日の朝は境内の西国三十三観音霊場朝詣り。鈴を鳴らしお経を唱えてのプチ巡礼

     

    自淨吾意     『七佛通戒偈』

     

     境内は今マーガレットの花が咲いて春の原といった風情です。

    5月は過ごしやすくイベント行事の多い時期、私も下旬は矢板を皮切りに東京新潟そして祥雲寺本山参拝旅行で福井永平寺から三重伊勢神宮と飛び回ることになります。

    新潟の出張は永平寺修行仲間の晋山式、住職就任お披露目の式です。

    20年前の仲間の大成する姿を見てご本山へお参りをする。

    忙しいところですが有り難くもあります。

     

     大本山永平寺は厳しい修行のお寺としても有名です。

    平成14年3月、雪に覆われた永平寺に寒さに震えながら上ったこと、叱りつける古参の恐ろしさと足りない食事のひもじさは20年経っても忘れられる物では無いです。

    同時に、人生で一番美味しかった甘味は、この時期に半日山作業をしてから頂いた月一回のおしるこの振る舞いでした。

    つらいも楽しいも、どちらも色あせない思い出です。

     

     永平寺はある歌の中では心のチリが払われる場所と形容されます。

    またある老師は永平寺の修行を、佛の生き方を真似て学び身につけるものだと説かれていました。

    この掃除炊事洗濯がなぜ修行なのか何が佛の生き方なのか、そんな事を疑問に思う暇も無く季節は過ぎていきました。

    しかしやることが身について、密な集団生活の中でかまっているヒマなど無い我を離れてみてみれば、永平寺での修行の時間ほど静けさの中に生きられるものは無いのだと気づけました。

    偏り拘り囚われといったものが自分を狭め苦しめていた、それを離れる生き方を身につけるのが永平寺で学び真似るものなのです。

     

     永平寺は身を正し心を清めることの出来る場所。

    世にも希で、まさしく有り難い場所であります。

     

               祥雲寺 安藤淳之

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は6月26日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和5年4月 朝坐禅会「指月の会」のお知らせ(24日朝6時半より)

    2023年4月23日

    今が盛りの藤の花

    気温が高かったのでもう散り始めてしまってます

    犀の角のようにただ独り歩め。       『スッタニパータ』(原始経典)

     

     

     金曜日に下野新聞を読んでいたら

    「ジェンダー平等阻むもの、男性自立こそ解決の鍵」

    という表題の記事がありました。

    そういえば金曜日のヨガも男女比率が1:15くらいの不平等空間だなぁ、という位の思いから読み進めました。

     

     曰く、日本はジェンダー平等が進まない国と国際的には評価されているが伝統的な価値観に縛られる率は低い。そして上位とされる男性の幸福度は低く、パートナーを失った場合幸福度も健康度も低下し寿命も縮まる。

    それは男性の依存傾向の現れと解釈できる。

    男女を問わず、幸せかどうかは自分がどう感じるかの問題で、自分以外にその答えを求めるならばそれは依存である。

    場を問わず独立した人格であることで多様な他者を正当に評価できる。

    自立こそが鍵である。

    といった記事でした。

     

     私はこれを読んで上記の 犀の角のように~ の言葉を思い出しました。

    インドは自然豊で、今でも郊外に出れば多種多様の動物がそのままに生息している国です。

    その中で静かに闊歩している犀の角の屹立する様は、孤独や独立独歩の表現なのでしょう。

    仏教が孤独を勧めているのは、悩みの多くは人間関係から起こるからこそ、そこから一旦離れることが心の成長に必要なのだ、という分析からです。

    社会は繋がりによって構成され、私たちは関係性の中で生きています。

    その中で孤独感に苛まれるのは、時に繋がりを実感できなくなるからです。

    そんな私たちに、上記の言葉は孤独を恐れすぎることは無い、と教え諭しているのです。

    仏教は関係性によりかかるのではなく、自らを自らの寄る辺と出来る様に歩み育んでいく。

    2000年以上の昔から、自立の大切さを説いているのです。

     

     上記の犀の角のように~、は少し長い文章ですが、後段にはこのような下りもあります。

    学識豊かで真理をわきまえ、高邁、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。

    悩み苦しみの元ともなる人間関係から一旦距離を取ってみることを勧めると同時に、仏教は「優れた友」との交流を勧めてもいます。

    それは矛盾することを言っているのでは無く、本当に自立した人格を作り上げるにはどちらもが必要であるからです。

    仏教信仰は三宝信仰であり、三宝とは仏と、仏の教えである法と、法を学び実践する仲間である僧です。

    心弱い私たちが誤りなく学び実践するには、道を同じくする志ある仲間がいることが望ましい。

    互いを高めあい成熟へと導く優れた友を勝友、僧(宝)と呼び、だからこそ篤く三宝を敬ってきたのです。

     

    孤独と向き合う機会は、自分と向き合う機会でもあります。

    自らの心を育む場として坐禅会やお寺でやっている集まりが多くの人に役立ってくれるなら、頑張って続けている甲斐もあるというものです。

     

                 祥雲寺副住職 安藤淳之

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は5月22日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
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