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令和4年五月 観音朝詣り
2022年5月22日5月2日の朝の天気は素晴らしいものでした。
前日は冬のような寒い日で冷たい雨が降りました。
朝にはすっかり上がって潤いを含んだ空気のなかに青空が広がりました。
しずくを載せた木々の葉が朝日に照らされてキラキラと光ります。
萌え出でたばかりの若葉もあれば、既に緑を濃くした葉もあって景色に深みが増していました。
ウグイスが鳴き、地にはコジュケイやヒヨドリの群れも見えました。
昭和62年夏、先代住職の本葬を済ませた後、新住職としての祥雲寺の運営方針を総代会に提出しました。
そこに、祥雲寺は宇都宮市の中心部にありながら広い山林を持っているのでこれを大切にし、自然と一体となった境内を作っていきたいと記しました。豊かな自然環境は祥雲寺の財産であり、これを大切にして、檀家のみならず市民にも開いてゆくのは使命であると思ったのです。
これについて、当時総代会の副会長だった黒川秀次さんが、「新住職はたいへん良いことを考えている。ぜひ皆さんに知らせておきたい」と言って、お施餓鬼の日の護持会総会で集まられた檀家さんに紹介してくれました。
今日、5月10日の朝も美しい朝です。
木々の緑はいよいよ濃くなりました。わずかな時にも天地自然の変化はやむことがありません。
そして命の息吹を感じさせてくれます。
こんなに素晴らしい祥雲寺を味わっていただくには、朝詣りが一番です。たくさんの人に参加していただきたいと思っています。
令和4年5月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
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令和4年4月 観音朝詣り
2022年4月16日ウクライナのゼレンスキー大統領が日本の国会でオンラインの演説をしました。
ロシアのウクライナへの侵攻を受けての支援要請ですが、大多数の国会議員から賞賛の声が上がり、視聴した国民にも感銘を与えました。
戦争を始めたロシアのプーチン大統領に対する非難の声は世界中でたいへんな高まりです。
ウクライナが善、ロシアが悪という色分けがはっきりしています。
しかしそのような見方、考え方でいいのでしょうか。
戦争開始直前のプーチン演説の全文を読みました。
ロシアがNATO諸国の攻勢に追い詰められていることと、ウクライナがロシアにとっていかに大切かを説き、今行動しなければならないと訴えています。
これはかつてABCD包囲陣に直面し、国の生命線とした満蒙を防衛するため戦線を拡大し、太平洋戦争に至った日本に似ているように思えます。
ロシアでも、戦争に反対する少なくない人がいますが、国民の大多数は侵攻を支持しています。
それが国の正義であると受け止められたからです。かつての日本もそうでした。
ウクライナ側は「団結しなければ殲滅させられる」という言葉に端的に表わされる必死の防衛戦争です。
国民にとって正義は我にあります。
「武器を捨てて交渉の道を取れば多くの国民の命が救われる」と言った日本人がいましたが、それは部外者のふざけた言葉にしかならないでしょう。
戦争はそれぞれにとっての正義と正義のぶつかり合いです。
そして正義のためなら非人道的な行動も許されてしまいます。
ロシア軍が使用したと非難されているナパーム弾もクラスター爆弾も、それを開発し、日本やベトナムやアフガニスタンで雨降らしたのは米国であることも忘れてはなりません。
現在は市民虐殺など、ロシアの残虐行為が非難されていますが、もしも形勢逆転したならばウクライナ在住の親露派に同じことが行われる可能性も大きいと思います。
戦争が生むものは憎しみなのですから。それが怖い。
正義を越える大いなる価値観が必要です。最低限、日本にいるロシア人を差別するようなことがあってはなりません。
令和4年4月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
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令和4年三月 観音朝詣りのお知らせ
2022年3月12日足利学校を見学しました。建物の名前と配置、庭の趣は、禅宗寺院とほとんど同じです。
学校がいつ出来たのかは諸説ありますが、室町時代、上杉憲実の力で日本最高の学府と言われるまでになったのは誰もが認めることでしょう。
上杉憲実は、政治家としても、武将としても、学者としてもたいへんすぐれた人でした。
彼は十歳で関東管領に就任しました。関東管領というのは足利幕府の関東政府の長である鎌倉公方の補佐役で、いわば総理大臣にあたる役柄です。
十歳はいかにも若すぎて、更にその補佐役がいてのことでしょうが、数年で実質的にも役目を果たすようになったといいます。
しかし彼の職務は苦難に満ちたものでした。
関東公方足利持氏は野心に満ちた人で、足利将軍の座を狙って六代将軍足利義教と対立しました。
本家の将軍と直接の君主である関東公方、二人の主君の間に立って、憲実はその調停に追われ続けたのです。そしてとうとう、関東公方持氏を自害させることになったのです。
儒学を究め実践していた憲実にとって、主君を討ったおのれの不忠義は耐えがたいことでした。
学問振興のため彼が再興した足利学校に、自ら所蔵していた膨大な典籍を収め、雲洞庵と号して越後の寺に隠棲しました。
さらには僧侶となって諸国を遍歴し、長門国の大寧寺で竹居正猷禅師に見(まみ)えたのです。
自らも儒学の大家であった竹居禅師は憲実の苦悩を見て取りました。
そしてご自身の余生を懸けてこの人物を導き悟らせようと決心しました。憲実の修行も厳しいものだったのでしょう。
竹居禅師の印可を受けた七人の僧の中に高巌長棟という憲実の僧名があります。
憲実は、大政治家、傑出した知識人と言ってよい人です。
担うもの重く、学識深く、おのれを眩(くら)ますことをよしとしない人の心の闇の深さは計り知れません。
それは仏法によってしか救うことが出来ませんでした。そのような人を導いた禅僧の力量も計り知れません。
令和4年3月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います
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令和4年二月 観音朝詣りのお知らせ
2022年2月16日昨年、佐渡の金山を観光しました。坑道に人形を配置して四百年に及ぶ採掘の歴史を分かり易く展示していました。機械のない時代の採鉱の困難さや、それでも世界一の産出量をもたらした技術的な創意工夫に感心もしました。江戸時代の経済の基盤であっただけでなく、技術史の上からも意義のある遺跡であると思いました。
それと同時に、過酷な労働を強いられた人々、特に水替え人足のことを思わずにはいられませんでした。
もともと重労働で、江戸時代前期には高賃金で雇われたのだそうです。そのため、鉱山近辺の村々は潤ったといいます。ところが18世紀になると、坑道が海面下まで進んで湧水量が多くなり、三年で命がつきるとまで言われた重労働になり、応募者がいなくなりました。そこで幕府がやったのは、無宿人を捕まえて佐渡送りし強制労働に就かせることでした。
折りしも、飢饉や貨幣経済の進捗によって農村が疲弊し、多くの農民が故郷を捨て、江戸には無宿人があふれていました。治安対策にもなり、人手不足も補える一石二鳥の方策であると為政者は考えたのでしょう。
この時代、栃木県は全国一の過疎地になっていました。日光社参の行列に関わる助郷などの賦役が多くて苦しんでいた農村は、相次ぐ飢饉に耐えきれず、いわゆる潰れ百姓が続出したのです。これを老中松平定信は「下野の百姓は江戸の華美な風にあこがれて田畑を捨てている」と記しました。お上の目には庶民の本当の姿は見えません。
佐渡送りになった下野出身の人もいたに違いないと想像しました。そしてそんな境遇の中でも何とか生き抜こうという必死の営みがあったことでしょう。仕事の工夫あり、助け合いあり…裏切りや争いもあったでしょうが。
今日世界遺産とされるような文化財の裏には、人民の苦役が隠されています。それも含めて価値あるものは価値あるのです。
三十年近く前、インドのカジュラホー遺跡を観光したとき、ガイドさんの「この遺跡は誰が造ったのか」という問いかけに、「石工が造った」と即答した石屋さんのことを思い出します。
令和4年2月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前9時から行います。
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令和4年一月 観音朝詣りのお知らせ
2022年1月22日明けましておめでとうございます。兵庫県の住職からの年賀状に「ブログを楽しみに拝見しております。」という言葉が添えられていました。ホームページのブログにこの通知は転載しています。とても嬉しくなりました。同じ日に大本山総持寺に登り修行を共にした人です。僧堂(修行道場)での修行は、曹洞宗では道元禅師、瑩山禅師が定められた日常生活を実践していくことを基本とします。洗面、暁天坐禅、朝課(礼拝看経)、朝粥(朝食)、作務(労働)、齋食(昼食)、法益(講義)、晩課(看経)、薬石(夕食)、夜坐。世間一般の生活と変わらないことも祖師の教えに則って行うことが求められます。例えば、食事、洗面、入浴、トイレ、睡眠などには懇切な教示があります。僧堂での修行に入るのには、世間の中で形作られた自己を捨てることから始まります。若年とはいえ、それぞれが培ってきた自己があり、それを棄てるのは容易ではありません。外からの無理押しがなければ難しいといってもいいでしょう。ですから最初の頃は先輩僧から怒鳴られっぱなしになります。朝三時、四時起きで睡眠時間が少ないのは辛い。暁天坐禅や夜坐には睡魔が襲います。お粥や一汁一菜の空きっ腹での作務(肉体労働)も辛い。一番辛いのは自分のプライドをズタズタにされることです。そんな時に支えになるのは、同じく新入りの修行僧たちの助け合いと励ましです。言葉を掛け合わなくても一所懸命に努めている姿を見るだけで励ましになります。自己を捨てることと矛盾するようですが、「随所に主となる」ことが尊重されます。与えられた役目を責任を持って成し遂げよとの意味です。責任は主体性がなければ持ち得ません。自分が、自分がという凝り固まった自己中心主義を捨てて、仏さま、祖師様のもとで自分が何をなすべきかを問うて行動すると言ってもよいでしょう。年賀状の方は、本山が布教事業として行っていた少年研修館や婦人会の世話役を勤めました。本山を下りてから教職に就きましたが、教育者としても立派な実績を残されたことでしょう。真摯に務める姿が思い起こされる人ですから。令和4年1月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之十八日の朝詣りは午前9時から行います。