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令和3年一月 観音朝詣り
2021年1月24日明けましておめでとうございます。今年は丑年、インドでは牛は聖獣です。お釈迦様の名前、ゴータマは最高の牛という意味です。祥雲寺の本堂東側階段の踊り場には米田寛画伯の牛の絵が掛けてあります。十牛図の第三番見牛と第四番得牛を表した絵のようです。十牛図とは、禅の修行の過程を十枚の絵とそれに添えた偈頌(禅僧の詩)で表現したもので、北宋の郭庵禅師のものが有名です。十牛図の第一は、牛を見失った牧童が途方に暮れている図です。牛は真の自己を象徴しています。真実のおのれを見失い、迷いから脱却しようとする求道者の出発点です。そこから牛の足跡を見つけ、探して牛を見つけ、捕らえて、血みどろの格闘の末に乗りこなして家に連れて帰ると、牛も人も姿を消します。ここまでが第二図から第八図に描かれています。修行の過程と悟りを表しています。人と牛が消えてしまうのは、求めるものと求められるものといった思考を巡らすことがなくなり、主体と客体が融合した境地を表します。そこに現れるのは日常のあるがままの景色でこれが第九図。出発点と同じ景色でも、迷いから抜け出るとこれが仏様の世界です。ここまでは、修行の筋道として頭では理解できます。問題は理屈を超えた生き方そのものです。最後は町に出て生活する。布袋さんとおぼしき人が描かれます。真の禅者は人里離れた庵に隠棲するのではなく、町に出て人々と共に生活する。布袋さんは10世紀始めごろに中国の寧波市にいた僧がモデルとされます。七福神で知られているように太鼓腹で大きな袋をもっていました。袋の中には人々から布施されたものが入っていて、生臭物でも受け取ったそうです。これを時に応じて人に配り、自らも食べました。威厳あるわけでもなく、尊敬されることもなく、その存在自体が人を癒やし救いとなる人。あれ、フーテンの寅さんに似てますね。令和3年1月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之今月の朝詣り会は中止します -
令和2年10月 観音朝詣りのお知らせ
2020年10月25日今年の永平寺参拝の帰りに、信州別所温泉の安楽寺をお詣りしました。平安時代に起源を持ち、森閑とした境内に堂塔が立つ名刹です。国宝の八角三重塔は13世紀末の建造で、現存する日本最古の禅宗様式の建築物です。若林住職が自ら案内され説明していただきました。三重塔の屋根はサワラの杮葺(こけらぶき)で60年に一度、全面葺替えがあり、傷みやすい部分は数年に一度の補修が必要だということです。平成23年の全面葺替えの費用はおよそ一億円、6割は国が補助しますが、寺の負担も大変です。23代目住職に当たる若林師は、これまでの住職、檀信徒の労苦を偲び、この堂塔を未来に伝えていくのが私の使命ですと、静かに語られました。若林師は、国際援助団体シャンティボランティア会(略称SVA)の会長さんです。SVAは、インドシナ仏教地域を中心とするアジアの教育・文化を支援する活動をしています。この会の前身は、ベトナム戦争後のカンボジ内乱でタイに避難した難民への支援のために設立された曹洞宗国際ボランティア会です。海外で活動する団体ですが、阪神淡路大震災、中越地震、東日本大震災では被災地での支援活動をしました。戦乱後の社会基盤が未整備な地域で活動してきたので、現場に即応した効率的な活動ができます。物質的なものだけでなく、入浴や子供たちへの本の読み聞かせなど、精神のケアにまで配慮できるのも、東南アジアでの持続的な支援活動の中で培われたものです。現在のSVAは曹洞宗の枠を超えた国際的な団体となりましたが、その活動を根幹で支えているのは、曹洞宗寺院です。私は若林師と大本山総持寺で共に修行したので、人となりはよく存じており、尊敬もしています。授戒会で毎朝早く道場に行って人知れず便所の掃除をしていた人です。手柄を誇ることなど微塵もなく、黙々と僧侶の務めを果たしている、このような人たちによって内には寺院の護持がなされ、外にはSVAのような活動があることを紹介させていただきます。令和2年10月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之十八日の朝詣りは午前6時から行います。お詣りの後の茶話会は、今月も中止いたします。 -
令和2年9月 観音朝詣りのお知らせ
2020年9月26日今年のお施餓鬼は代表となる総代役員さん参列のもと行いました。
栃木県は幸いに天災に見舞われることの少ない県です。それでも、「明治35年の大暴風」と言われて語り継がれてきた災害がありました。調べてみると明治35年9月28日午前8時に房総半島に上陸し、東京、足尾付近と北上、11時には新潟から日本海に抜けた猛スピードの台風でした。大きさも豆台風といってよいものでしたが、西日本に同じく北上する別の台風があって、その相乗効果で通り道の東側に当たる茨城、栃木に猛烈な風雨をもたらしたのです。筑波山で風速72メートルを観測しました。近年になって、被害が大きかった足尾に因んで足尾台風と名付けられたそうです。昔、年寄り達から明治35年の大暴風で家が吹き飛ばされたとか、大木が折れてしまったという話を何度か聞きました。その中に、長岡の太子堂の話がありました。太子堂は、その名の通り聖徳太子を祀るお堂です。大坂の陣の後、石川内膳以下11人の主従が聖徳太子の孝養像を背負って長岡村に到来し、お堂を建てて祀ったとの言い伝えがあります。33年に一度、御像は開帳されます。このお堂も大暴風で倒壊したのです。当時、仮の普請をしましたが、本格的に再建されたのは平成2年のご開帳の時です。長岡地内を流れる江川の水利に因んでお金が入ったのを元手に、寄付を募り、長岡町住民全体の力で成し遂げられました。申すまでもなく聖徳太子は日本国を仏教の理想に基づいて造りあげようとした人です。度量衡を定めた方とされましたから、大工さん、石屋さんなど職人さん達の神様ともされました。観音様の生まれ変わりともされて信仰されました。およそ400年の間には、飢饉や疫病の蔓延もあったはずです。困難にあっても信心は続く。そこに助け合いや思いやりも保たれてゆく。日本の大切な財産です。令和2年9月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之 -
令和2年7月 観音朝詣りのお知らせ
2020年7月26日「風と共に去りぬ」は何度も見た映画です。アメリカ南北戦争の時代を力強く生き抜いた南部の農場主の娘スカーレット・オハラがヒロインです。豪華なドレスに身を包んだ華やかな社交場。奴隷たちを従えた当時の白人農場主たちは王侯貴族的な生活をしていました。その南部社会が、敗戦へと向かう時代の暴風にさらされて壊れてゆく。激動を生き抜いたスカーレットが、無残に荒れ果てた自分の農場に立って、「明日は明日の風が吹く」と叫ぶラストシーンには、南部人の不屈の魂を感じます。スカーレットは、品行方正ではありません。恋のために友を裏切り、金のために人を欺く。悪女といってもいい。しかしそれでも彼女に魅力を感じるのは、逆境にあっても誇りを失わず敢然と立ち向かってゆく土性骨の座った凜々しさがあるからです。美徳、悪徳あわせ持った生身の人間として描かれているから魅力が呼び起こされるのです。人間の魅力とは多様なものです。しかし今、この映画がアメリカで厳しい批判にさらされ、上映が自粛されました。ミネソタ州で黒人が警官に殺害された事件を契機に起こった全米を揺るがす抗議運動に伴ってのことです。原作の小説よりは薄められていますが、映画の随所に現れる奴隷差別は、黒人はもとより、人権を大事にする人々にとって許されないものだというのです。自分を差別される側に置いてみれば確かにそうです。160年前のことであっても、今のアメリカでの差別につながっているとおもえば、怒る人がいるのはもっともです。しかし、そうしたことを踏まえても、この映画は面白い。時代に束縛されている人間が、血みどろになっても時代の風に立ち向かっていくなかに新しい時代が生まれます。今、社会を覆う差別に向かって立ち上がる人たちの先にも、新しい時代が生まれるでしょう。スカーレットも、彼女を批判する人も同じ地平に立っています。それを支えるのは、勇気と希望。令和2年7月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
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令和2年6月 観音朝詣りのお知らせ
2020年6月21日コロナウィルスに感染するのは悪いことでしょうか。こんなことを考えさせられるアンケートを見ました。感染するのは本人のせいと思う人がイギリス、アメリカでは4~5%位、日本では15%位。これを自業自得であると考える人が、英米1~2%位、日本11.5%。自業自得とは全然思わない人は英米では7~80%に対し日本は30%位という結果でした。感染の責任を本人に負わせる人が、欧米に比べて日本にはきわめて多いということです。自業自得という考え方は洋の東西を問わずありますが、日本人の場合には仏教に由来するところが一番大きいでしょう。行いが原因となって結果が現れる。よい行いはよい結果を生み悪い行いは悪い結果を生む。だから人はよい行いに努めなければならない。これは仏教の倫理基準です。人間一人一人がそれぞれに自分の行いを省み、徳行を積み上げていく励みとなる教えです。しかしこれでもって、他人が不幸であることがその人のそれまでの行いの結果であると決定づけるのは間違っています。人の行いの真実を本人以外が知ることはできないのですから。また、自分の身に起こった不幸が、すべて過去の悪業の結果であると考えることも間違っているのです。運、不運というものがあります。徳行、善行を積み上げても思いもかけぬ不幸に見舞われることもあります。どんな行いによっても、全てを自分の思い通りにすることはできない。そうなったのを他人のせいにすることなく、自分のせいにすることもなく、神仏の加護を祈り、善行を積み続ける。これが仏様の説く自業自得です。他人の不幸に対しては、それをさげすんだり非難することなく、慈愛の心から生まれるあわれみを持って接しなさい。人間はいつの世も、不確かな世間を生き、それぞれが弱さ、足りなさ、欠点をいっぱい抱えて生きているのですから。これが仏様の慈悲の教えです。自業自得の言葉でもってウィルス感染を非難することなどできません。宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之十八日の朝詣りは午前6時から行います。今月から、お詣りの後の茶話会は再開します。






