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12月 観音朝詣りのお知らせ
2024年12月21日次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし。(中略)
仏祖正伝する所は恭敬仏法僧なり。 修証義第三章
修証義は道元禅師の正法眼蔵から言葉を抜粋し、修行の道しるべとした曹洞宗の基本聖典です。
三宝は仏法僧を三つの宝とした仏教の根本教理です。
三宝はさらに三つのとらえかたで説かれます。
第一が現実に目の前に形として現れているものとしてのとらえかたで、仏が仏像や仏画、法が経巻、僧がお寺の住職や僧侶です。
第二が歴史的に現れて衆生を導いたものとしてのとらえかたで、仏は二千数百年前にインドに現れた釈尊、法は釈尊が説かれた苦悩にある人間を導き続ける深遠な仏の教え、僧は仏の教えを信じて修行し仏法を伝えてきた聖者達です。
修行は一人でなしうるものではなく、僧団を組み、お互いが良き友、すぐれた友となって和合のもとに成し遂げられるものですから、僧は僧団を表わす言葉でもあります。
第三は、時間空間を超えた宇宙の根本的なあり方から説かれるものです。
仏は釈尊を釈尊たらしめた大いなる悟りそのもの、法は調和して上下、優劣、清濁を離れたこの世界を貫く真理そのもの、僧は煩悩に満ちた人間が僧団を組み和合衆となって現実の壁を乗り越えてゆく和合の精神の根源を表わします。
僧侶の身にある私にとっては、第一で説かれる僧として、敬われる者とは到底なり得ていないことを恥としますが、日々の戒めでもあります。
道元禅師は、釈尊以来受け継がれた仏法は、この三宝に身も心も投げ入れていくことだとお示しになっています。
冒頭の「次には」の言葉は、自らが深いあやまちを持つものであることを自覚し悔い改めること、すなわち懺悔の後にの意味です。
三宝を敬うとは、煩悩の身を仏の家に投げ入れて、生まれ変わって生きること、その誓いを持って生きることです。
令和6年12月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時半から行います。
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12月の諸行事
2024年12月2日12月の諸行事 ご興味のある方はお問い合わせ下さい。
■無縁供養(12月1日開催案内。10時法要、11時音楽祭)
仏教における天地万物への感謝祭。塔婆の奉納一基1,000円(申込受付前日まで)
■成道会納経会(12月8日10時~)
お釈迦様が悟りを開かれた12月8日に合わせ、
写経会の方達が一年間で書きためたお写経を納めます。
■雀宮善應院坐禅会(第四水曜日のみお休み)
宇都宮南町1番36号「善應院」にて毎週水曜日(第四以外)夜6時から行っている坐禅会です。
12月4日、11日、18日
■月例坐禅会「指月の会」(12月23日)
祥雲寺本堂にて毎月第四月曜朝6時半から行っている坐禅会です。
■テラヨガ(ヨガ教室)
阿久津先生指導の下第一第三金曜日10時半から。初心者クラスは第二第四金曜日10時半から
■陶芸教室「祥陶会」
駐車場下の作陶場にて毎週火、木午後1時から行っています。
■石彫会「羅漢の会」
毎週土曜午後、駐車場作事場にて石仏の彫刻を行っています。指導は松原「金野石材店」
屋外なので冬場は休止もある為お問い合わせ下さい。
■茶道教室
月二回火曜日午後1時半から、裏千家平山尚子先生のご指導の下行っています。
12月10日、17日
■写経会
写経会は5月から11月、第二日曜日午後2時から行っています。
12月8日納経会を納めの会とし、次は来年4月花祭り写経会まで休止となります。
■御詠歌
12月9日 長岡公民館 13:30~15:30 東堂指導
12月19日 祥雲寺庫裡 10:00~12:00 東堂指導
■フラワーアレンジメント教室
南宇都宮駅前「フラワー花亀」亀井先生指導の下第四水曜日午後1時半より行っています。
12月25日 お正月飾り花
■折り紙教室
カルチャースクール講師長谷川京子先生指導のもと第3水曜日午前10時よりより行っています。
18日
■クラフトペーパー教室
同じくカルチャースクール講師長谷川先生指導のもと第2月曜日午前10時より行っています。
9日 10時
■観音朝詣り
境内33観音霊場を18日朝にお参りするミニ巡礼会です。開始時間は季節により前後します。
今月は午前 6 時 半 から 祥雲寺℡(028)622-5719
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令和6年11月 朝坐禅会「指月の会」案内(11月25日朝6時半より)
2024年11月24日朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 「延命十句観音経」
西国観音巡礼にいってきました。
祥雲寺には西国観音のお砂踏みがあります。
先々代住職、私の祖父が観音信仰に篤い人で、遠い西国に行かなくても檀家信徒が西国札所観音様の御利益に与れるように整備をし、以来毎月18日の朝には一時間ほどのプチ巡礼会として観音朝詣りを行っています。
また札所巡礼も積極的に行い、西国板東秩父お遍路と、何度も参拝旅行を行ってきました。
この度久しぶりに西国札所を巡る企画をスタートさせました。
今秋で京都市外の京都滋賀奈良の札所を巡り、来春以降で一番から巡る予定です。
観音菩薩は仏様の慈悲の心を体現された菩薩様です。
表に表せない心の声を聞き届け、また様々な願いに応じてくださる方としても信仰されています。
今回私自身奈良の興福寺国宝館で、国宝の千手観音菩薩を参加者に説明する時、
「千手観音さんの沢山の手はみんな違う形をして違う法具を携えておられる。人は皆違っていてそれぞれの悩みを抱えている、そのそれぞれに適して応じる事が出来る様にと文字通り手を尽くしている様を表しているのが観音様の千手なのでしょう」
といった言葉を用いました。
また今回参考にした資料に瀬戸内寂聴さんの文章がありました。
「(観音霊場の)三十三という数字は観世音は三十三身に化身して我々衆生を救けて下さるという御利益にちなんでいる。三十三という数字は、仏教では無限を意味する。あらゆる場所であらゆる苦難の時、一心に観世音を祈れば、観音は直ちに光のような速さで祈願者の前に出現して、救助して下さるというのである。そのお姿は観世音の形ではなく、祈願者がその時、最も必要としている姿に化身して現れて下さる。病人の前には名医となって現れるように。」
私には今年に入って二度、身に覚えがあります。
夏の頃打合せの不備から法要の迎えが来なくて慌てて運転して行き、腹立たしい気持ちを抑えようとしながら始まりの鐘を鳴らしていると、仏と成った故人に諭されました。
「怒るのは自分を傷つけ損なわれたと思うからだが、無我を説く僧侶の身であり、自意識に囚われないことが安楽の道だと腹落ちした者が、他人の過失によって一体何を損なわれたというのか」
腹立たしさはキレイに無くなり、かつて無く静かな心持ちでお勤めに臨めました。
また秋の頃には、立て続けの檀務と行事で疲労した状態で余所のお施餓鬼に随喜しましたが、お経を読んでいたら壁側の聖僧さまに親しくしてくれた先代老師がかぶり、「喝」を入れてくれました。
これらは単なる見間違いやこじつけ、自分の心理無意識がその場に必要な解を場の主役的な人の影絵で伝えてきた、等と理屈を付けることは出来るのでしょう。
ですが宗教者としては、それこそ観音様のお導きだったと受け取ってもよいのではないかと思うのです。
亡くなり失われた人とも、没後も面と迎える時もある。
ご縁を続けていけることもある。
迷いの多い凡愚の身なればこそ、仏の救いの手は大きくあたたかくさしのべられる。
観音霊場のかむさびた厳かな佇まいは、そういうものだと私達に語りかけてくれるようでした。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は12月23日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
11月 観音朝詣りのお知らせ
2024年11月17日大学生の時読んだ「肉食の思想」という本に、ヨーロッパに留学した青年が経験した食の文化のすれ違いの話がありました。
青年がパーティーに出たときに、豚の頭をそのままに料理したメインディッシュがテーブルの上に置かれていました。
彼は手を付けることはできなかったのですが、パーティーに参加していた娘さん達は、それぞれに切り分けて美味しそうに食べていました。
青年と娘達のやり取りです。
こんなに美味しいものをどうして召し上がらないの?
生きていた豚を思って可哀想で食べられません。
豚は神様が人間に食べ物として与えてくれたものなのだから美味しく食べればいいのよ。日本人は生きた姿の動物は食べられないの?
小鳥ぐらいは食べますよ。
まあ、かわいい小鳥を食べるなんて、なんて野蛮なの!
この本が出版された時代、日本ではツグミなどの小鳥はよく食べられていました。
今では娘さん達のいうことの方に共感できるという人も多いかも知れません。
動物は、他のいのちを食物としなければ生きられません。
人間にとっても殺生は生存の宿命です。
そうであれば、これは食べてよい、あれは食べてはいけないという区別がどうして生まれるのか。
区別を生む大きなもととなるのは、食べ物となる生き物に対して人間がどれだけ同じ生き物としての共感を持っているかの度合いです。
殺さなければ生きられないけれど、おのれに引く比べて、殺されるものの傷みと悲しみを思いやることができるのが人間です。
食事の度に、可哀想と思ったり、罪の意識を持ったりすることは現実的ではありませんが、いのちをいただいているというありがたさだけは忘れないようにしたいものです。
手を合わせて「いただきます」を心から言えるようにしたいものです。
令和6年11月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時半から行います。