-
令和6年1月 朝坐禅会「指月の会」案内(1月22日朝6時半より)
2024年1月21日いっさいの怨みを棄てよ。
今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。
棄てれば、必ず軽くなる。 『スッタニパータ』
先日ある方のお宅にお伺いしたとき、引きこもりになっている息子さんと少しお話をしました。
曰く、職場でいじめに近い扱いを受け、疲れてしまったのだと。
親御さんも当然心配されているので、どうにかならないかという期待の籠もった視線が感じられました。
私も東日本大震災でボランティアをしていた時等で傾聴活動の為避難所を廻ったりしていました。
お坊さんだからこその安心感をもって貰いやすいからとの要望が複数あったものです。
その時にまとめ役の方からよく言われたのが
「君たちが問題を解決しようとするものではない。
私たちがやるのはお話に真摯に耳を傾けること。
誰かに話したい、聞いて欲しい、そうした要望に丁寧に寄り添うことだ。
社会的な物は別にして、個人的ななやみや問題は結局は当人にしか解決は出来ない。
私たちに出来るのは自分で問題に向き合えるようにアシストすることなんだ」
今でも良く憶えています。
お話をご家族から聞く中で、お母さんから心に抱えてしまう物をどうやり過ごすのか、何か秘訣はないかと聞かれました。
若干悩んでしまう問いです。容易に答えられる物ではありません。
昔ある席で20年経っても怨みは無くならない、骨になって墓に入るまで消え去らない、と吐露されたこともありました。
それでも、胸に抱えた怒りや怨みは沢山の物を損なってゆきます。
抱えている限り、思いに焼かれて疲れてしまいます。
上記の言葉は、お釈迦様がスッタニパータという経典で説かれている言葉です。
お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。
誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、
誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、
という思いを抱いてはいないか。
その思いがすでに怨みであると知りなさい。
怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。
いっさいの怨みを棄てよ。
今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。
棄てれば、必ず軽くなる。
棄てて、かろやかに生きなさい。
どう捨てるのか、捨てる手法として、個人的には趣味の山歩きかサイクリングがありますが、お坊さんとしてお勧めするのはやはり坐禅です。
坐禅は、身を正し呼吸を正す、それだけに集中し没入していると、波風経っていた自分がいつしか正されて静かになっていきます。何もしない何も考えないことに没頭するのです。
私は坐禅は様々抱えてしまう物から自由になるものだと思っています。
今回の事はどうなるか解りませんが、機会が合えば、一緒に坐りませんかとお誘いしたいです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は2月26日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
1月観音朝詣りの案内
2024年1月21日新春が能登半島地震という大災害で明けました。
毎日伝えられる被災地の惨状に心が痛みます。
倒壊した家屋群。
家屋を押しつぶし道路を寸断する土砂崩れ。
避難所の過酷な生活環境。
一昨年の本山参拝は、平成19年の能登地震からの復興を遂げた大本山總持寺祖院に参拝し奥能登を観光しました。
その時の美しい風景と、輪島朝市などで接した地元の人たちの人情が思い起こされます。
能登は曹洞宗にとっては特別な場所です。
故郷と言ってもよい。
瑩山禅師、峨山禅師と相続された能登總持寺に全国から傑出した修行僧が集まり、曹洞教団が生まれることによって、道元禅師の教えが民衆に伝えられるものとなりました。
修行道場を支えたのは能登の人であり能登の風土です。
歴史の変転はあっても、曹洞宗の僧として私は能登に縁を感じ、特別な思いを持っています。
この度の震災への支援は、現段階では国を始めとする行政、自衛隊など専門性の高い機関が行なっています。
しかし、間もなく国民全体の力が必要な段階になります。
その時のために、私たち一人一人が何かの役に立っていこうという覚悟を持たねばなりません。
祥雲寺では受付に義援の募金箱を設置しました。
集まったお金は、お賽銭などと合わせてシャンティボランティア協会(SVA)に寄付します。
皆様の周りにも、募金に限らずいろいろな支援の窓口があると思います。
それぞれの立場で、ささやかでも何か行動を起こしてください。
他人事ではありません。いつか必ず来る南海トラフ地震に備えても。
日本は必ず起こる天災を助け合いで乗り越えてきた国です。
SVAは、曹洞宗から生まれた国際ボランティア団体で、カンボジア、ミャンマー等で難民支援を行なっています。
阪神大震災、東日本大震災などでは海外で培われた非常時への対応力で効果ある支援活動を行ないました。
それだけでなく非常事態を過ぎた後のお年寄り、子供達への精神的なケアを長期間行ないました。
団体の活動、実績、運営等の詳細はネットで常時公表されています。
令和6年1月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前9時から行います。
-
令和5年12月 朝坐禅会「指月の会」のご案内(12月25日朝6時半より)
2023年12月24日諸法無我
「四法印」
11月の晋山結制が終わりましたが、檀務や雑事が多く未だに後片付けが終わりません。
何とか年内には綺麗に片付けて、平常に戻したいものです。
せわしなくしていたら、いよいよ今年最後の坐禅会になりました。
お坊さんとしての節目を越え、年の瀬を迎える機会ですので、私なりの仏道というか僧侶としてのまとめの話をしてみたいと思います。
私は祥雲寺に生まれ育ちましたが、お寺のことには殆ど携わらずに育ちました。
般若心経くらいは読めましたが、正座は大嫌いで、周囲からなんとはなしに向けられる跡継ぎのプレッシャーには見て見ぬふりをして、そのくせ入った宗立の駒澤大学で体験した坐禅は退屈極まりないものでした。
それでも卒業の年となり、駒沢公園で沈む夕日を眺めながら、期待に応えないわけにはいかないからと僧侶になることを決めました。
そんな程度の覚悟しか無かったので、永平寺での修行は最初ひたすら辛かったです。
仲間の助けが無かったら多分挫折していたでしょう。
大学四年間、勉強より没頭した少林寺拳法で培った体力で何とかこなし、半年を乗り切りました。
そうして12月になり、お釈迦様が悟りを開かれた成道会に行われる蝋八大摂心(1週間の坐禅行)で、私は仏心に見えました。
坐禅というのは、形ばかりの物では無く、私たちがどうしても抱え囚われてしまう悩み苦しみを解きうるものなのだと知ることが出来ました。
達磨大師の言われる、私たちの心こそがほとけなのだと見ることが出来ました。
やり過ごそうとするばかりだった私には、この時から本当の意味での修行が始まったのです。
上記の四法印とは、仏教思想の根幹となる四つの教えで、その中の一つが諸法無我です。
「私」なんてものは無い、ということです。
永平寺での修行は集団生活で、だからこそ多人数で寝食を共にすることからくるストレスがあります。
しかし集団生活で自分を優先しようとする我を張ることこそが、苦しみの原因であると解るのも修行のありがたさでありました。
自分で自分にしがみついて、その故に辛い苦しい重たいと喚いていた自分がそこには居たのです。
それを見つけ、解り、我を離れていくことこそが修行だったのです。
私は仏道というのは、ほとけごころに安住する事が出来る人生の歩み方だと思っています。
それは刑事ドラマや時代劇であるような情け深さなどではなく、
欲や自意識と言った重い物を離れ、拘り囚われから解き放たれて、軽やかで縛られない心で生きる事です。
我が坐禅の師、福井御誕生寺の板橋禅師はそれをこんな言葉で表現していました。
かたよらない心
こだわらない心
とらわれない心
広く広くもっと広く
これがお釈迦様の心なり
これが仏教を信じる、行ずる喜びで、だから私は多くの人に仏教を、坐禅をこれからも勧めていきたいと思っています。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は1月22日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
12月観音朝詣りのお知らせ
2023年12月24日同事といふは不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり
道元禅師「正法眼蔵」
「同事」の教えは自他を区別しないことである。
仏 教には菩薩の理想的な生き方を示した四攝法という教えがあります。
布施、愛語、利行、同事という教えです。最後の「同事」は、文字からだけでは意味することの見当がつきません。
私は毎月のこのお便りで、その一つ一つについてたびたび取り上げてきました。
「同事」については、退任記念文集「守拙」に「いつもニコニコ」と言う題を付けて採り入れた一文の中で、仏教辞典にある「協同」という訳語を紹介し「信頼」と訳してもよいのではないかと記しました。
これについて足利市長林寺住職矢島道彦先生からご教示を受け、私の「同事」の教えについてのとらえ方が不十分であり誤りもあることに気づきました。
そこで、改めて私なりに説明いたします。矢島先生の著書を踏まえたものです。
「同事」の本来の意味は「同自己」とも訳するもの、即ち他人が自分と同じ存在であることを自分の心の内に認めて自他を分けへだてしないことを意味します。
そうするとどのようなことが起きるのか。
私たちは生きることを願い、死を恐れています。
楽しいことを願い、苦しみなかれと願ってもいます。
そういう自分の身に引き比べて、他人の喜び悲しみ苦しみも同じであることを認め、深く共感して共に生きていく道を歩むことになります。
このような生き方からは差別は起こりません。
力を合わせて生きとし生けるものが皆幸せである世界を作っていこうとする行ないの源となる思想です。
「同事」は、仏教の慈悲の根本を表わす教えでした。
令和5年12月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時半から行います。