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令和3年2月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年2月21日小欲知足2月15日はお釈迦様の亡くなられた命日です。お寺では涅槃図という、臨終の床に着かれたお釈迦様の回りを沢山の方が見守り悲しんでいるシーンの図を掲げ、この日を偲びお経を上げます。この時に読むお経が、まさにこの臨終の場で説かれた遺言の教え、遺教経です。この遺教経の中で説かれている言葉に小欲知足があります。欲をかかず、(求めずとも)足りることを知ることは心の平穏に繋がるんだよ、というお諭しの言葉です。私がこの知足を考えるとき、出てくるのは学生時代に読んだムーミンの登場人物、スナフキンの台詞です。何でも自分のものにして持って帰ろうとすると難しいものなんだよ。ぼくは見るだけにしてるんだ。そして立ち去るときにはそれを頭の中へしまっておくのさ。そのほうがかばんをうんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからね。ムーミンは子供心には少し不思議な外国の童話でしたが、大人になってから見ると実に味わいのある物語で、殊にスナフキンの存在は異彩を放っています。旅人として一人歩むものとして、世俗に交わらず欲に惑わされることを避け、身も心も身軽であることの素晴らしさを教えてくれているように思います。洋の東西を問わず、一人歩もうとする人の言葉には共通点が出てくる物だと改めて感じました。最後に祥雲寺で檀務に用いている『略訳遺教経』の中、少欲知足を書いた章を載せて結びとします。「おんみら修行者よ、求むる処少なきものは心安らぎてうれいおそるることなく、ことにふれて足らざることなきを。もし悩み苦しみを逃れんには足るを知るにしくはなく、さとりの安楽を求めんにはひとり閑かに想うべし」祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間6時半からの一座のみとなります。 -
令和3年二月 観音朝詣り
2021年2月17日古(いにしえ)より民(たみ)を駆(か)るは信誠にあり王安石の詩「商鞅」より<意味> 昔から人を動かすのは言葉をたがえないことにあるアメリカ大統領の就任演説と管首相の所信表明演説を比べるテレビ番組のコメントや新聞雑誌の記事がたくさんありました。日本の首相を褒めたものは見聞きしませんでした。聞くものの心に訴えてくるものがないというのです。演説は人の心を揺り動かして演説者の思うところを人に納得させ、さらには行動を促すためにするものです。ヨーロッパではギリシャ・ローマ時代から人の上に立とうとする者にとって必須の素養とされました。チャーチルは少年時代、勉強嫌いの落ちこぼれ生徒でしたが、国語(英語)だけは好きで、特に人の心に訴えかける修辞法を熱心に勉強しました。彼の演説は、英国民を奮い立たせ第2次世界大戦を勝利に導きました。確かに政治家にとって演説は大事なものですが、文化の違いを考えないで、演説の善し悪しを比較するのはいかがなものでしょうか。日本の政治家は概して演説は下手ですから、その中身を丁寧に伝えるのが報道機関にとって何より大切だと思うのです。私は管総理の政治姿勢や手法には大きな問題があると思っていますが、それはさておいて、演説の技巧に目を向けすぎると、薄っぺらな報道になってしまいます。また、相手を言い負かして自己主張するだけの無責任な論調も蔓延しているように思えます。仮に内容に問題のある演説を無批判に持ち上げるようなことがあれば、それは国の将来を誤ります。チャーチル以上の演説の名手はヒトラーでした。王安石は、中国の北宋時代に国の改革を成功させた政治家です。彼は言葉は信頼にあると考え、冒頭の言葉に続いて「一言を重しとなし百金軽し」と言い切っています。言葉に責任を持つことを信(まこと)と言うのです。令和3年2月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之寒さ厳しい時ですので十八日の朝詣りは午前9時から行います。 -
令和3年1月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年1月24日諸行無常今年も宜しくお願いします。栃木県も年始から緊急事態宣言が出され、様々自粛や制限の中で日々を過ごしています。このコロナ禍を思うとき、時折学生時代に読んだ小説を思い出します。村上龍の書いた『ヒュウガウィルス』という本です。この作品の舞台は、第二次世界大戦で日本が降伏せず本土決戦を行い、数十年経ってもトンネルにこもってゲリラ戦が続く世界です。九州のヒュウガ村からエボラウィルスをさらに凶悪化したような病気が都市部に蔓延し、その対応のために軍の部隊が派遣され対処に当たるストーリーです。現地に到着しウィルスの猛威を目の当たりにし、うちひしがれて人間の弱さを嘆く兵士に科学者が言った言葉が強く記憶に残っています。「われわれの体を構成する分子は脆くて壊れやすいつながり方でつながっている。だから化学反応が可能で、全体として信じられないような生体のシステムが生まれた。強い結合で結ばれれば鉱物になってしまう。鉱物は何億年経ってもほとんど変化がない。人間は柔らかい生きものだ。その柔らかさ、脆さ、危うさが人間を人間たらしめている」私の中で「無常」の理解の土台ともなっている一節です。人は脆い、変化しやすいからこそ人たり得るのだ。それを嫌ってもそうでないならそれは人間ではない。変化するからこそ何かが起こる、何かが出来る。喜ばしいことも悲しいことも変わるからこそ変われるからこそ、無常だからこそなんだ。ならばそれは良い悪いで見るものではなく、世の道理、真理として受け入れていくものなのだろう。私たちは変わるからこそ、今のような人なのだろうから。このコロナ禍で激変してしまった時代、それでも私たちは生きています。環境変化の規模は大きくても生きることは変化し続けることです。この変化の中で、それでも僧侶としての本分を見失わず、為し得ることを探して行っていく。変化を受け入れ、そして本分を忘れないことが、今私ができる最善のことなのだと信じています。祥雲寺副住職 安藤淳之明日の朝坐禅会は略した形で6時半より行います。 -
令和3年一月 観音朝詣り
2021年1月24日明けましておめでとうございます。今年は丑年、インドでは牛は聖獣です。お釈迦様の名前、ゴータマは最高の牛という意味です。祥雲寺の本堂東側階段の踊り場には米田寛画伯の牛の絵が掛けてあります。十牛図の第三番見牛と第四番得牛を表した絵のようです。十牛図とは、禅の修行の過程を十枚の絵とそれに添えた偈頌(禅僧の詩)で表現したもので、北宋の郭庵禅師のものが有名です。十牛図の第一は、牛を見失った牧童が途方に暮れている図です。牛は真の自己を象徴しています。真実のおのれを見失い、迷いから脱却しようとする求道者の出発点です。そこから牛の足跡を見つけ、探して牛を見つけ、捕らえて、血みどろの格闘の末に乗りこなして家に連れて帰ると、牛も人も姿を消します。ここまでが第二図から第八図に描かれています。修行の過程と悟りを表しています。人と牛が消えてしまうのは、求めるものと求められるものといった思考を巡らすことがなくなり、主体と客体が融合した境地を表します。そこに現れるのは日常のあるがままの景色でこれが第九図。出発点と同じ景色でも、迷いから抜け出るとこれが仏様の世界です。ここまでは、修行の筋道として頭では理解できます。問題は理屈を超えた生き方そのものです。最後は町に出て生活する。布袋さんとおぼしき人が描かれます。真の禅者は人里離れた庵に隠棲するのではなく、町に出て人々と共に生活する。布袋さんは10世紀始めごろに中国の寧波市にいた僧がモデルとされます。七福神で知られているように太鼓腹で大きな袋をもっていました。袋の中には人々から布施されたものが入っていて、生臭物でも受け取ったそうです。これを時に応じて人に配り、自らも食べました。威厳あるわけでもなく、尊敬されることもなく、その存在自体が人を癒やし救いとなる人。あれ、フーテンの寅さんに似てますね。令和3年1月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之今月の朝詣り会は中止します





