ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

新着ブログ

  • 令和元年11月 観音朝詣りのお知らせ

    2019年11月17日

    11月7日、祥雲寺で宇都宮仏教会主催 御詠歌各流大会が開かれました。

     

    こちらは叡山流の発表。宇都宮仏教会で数年に一度行っている各宗派のご詠歌の発表会、今年は祥雲寺で行いました。

     

    曹洞宗梅花流の発表。各宗派の様々な取り組みが伺え、また大勢で楽しくお唱えができた賑やかな日でした。

     先月はじめ、一団の女性たちの訪問を受けました。
    絵手紙の同好会の方たちで、境内を散策してスケッチしていいかとのご挨拶でした。
     もちろんかまいませんので、どうぞどうぞと言い、たまたま時間も空いていたので、少し案内をいたしました。
    秋の陽が爽やかに射す日でしたので、自然豊かな境内を楽しんでもらえたと思います。数日経って、来られた方々から絵手紙をいただきました。
    そのほとんどに五百羅漢の絵が描かれていました。
     平成九年から制作が始まった羅漢像は、羅漢渓と名付けた本堂の裏手に安置しています。
    現在430体になった像が、二手に分かれて並んでいる様は壮観です。いつの間にか、羅漢像群のある寺として知られるようになりました。
    先月には、下野新聞のコラムでも紹介されました。
     羅漢像群が映えるのは、祥雲寺が豊かな自然環境にあることが大きいと思います。
    12日の朝は、深い霧が立ちこめました。
    紅葉に包まれた境内も違った景色を見せます。
    今年は雨が多かったせいでしょうか、紅葉は黒ずんであまり鮮やかではないのですが、かえってそれが静寂のおもむきを深めます。
    霧に煙る松、ようやく鮮やかな黄色になった銀杏、黄色く色づいた萩の枝のたおやかなうねり、羅漢像群を霧が流れ、不思議な陰影を作り出していました。
     絵手紙の会の人たちが見た祥雲寺、霧の朝の祥雲寺、同じ処でも景色は刻一刻と変わり、同じものはありません。
    素晴らしいと思う時に心を止めて、それが絵になり、文になり、手紙になるのはなんと素晴らしいことでしょう。
     12月1日の無縁供養の日には、新たな羅漢像が10体開眼され、また少し景色が変わります。
     令和元年11月15日
                  宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職  安藤明之
    十八日の朝詣りは午前6時半から行います。
  • 令和元年10月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2019年10月27日

    夏の終わりの祥雲寺

    花はただ咲く 只ひたすらに
    只になれない 人間の私
                       相田みつを
     
    禅宗の有名な言葉に「放下着」があります。
    着ているものを放下せよ、つまり執着を捨てろ、という趣旨の言葉と読み取れます。
    是に限らず、執着、欲得の類いを離れ捨てよとの言葉は多々あります。
    我が宗祖道元禅師も
    「我が身をも、心をも放ち忘れて、ほとけの家に投げ入れて ほとけのかたよりおこなわれて
    これにしたがいもていくとき、力をも入れず、心をもついやさずして
    生死を離れ、ほとけとなる」
    と説かれ、私自身坐禅会に初めて来た方への説明は
    「捨てれば必ず軽くなる、捨てて、かろやかに生きなさい」
    というスッタニパータ(南方仏教に伝わる釈尊の語録)からの引用を必ず用いています。
    それは、坐禅が執着を、人が知らず抱えてしまっているあれそれを手放すことが出来る淨行であると信じていればこそです。
    その故に、坐禅をして何になるのか?との問には何にもならない(何かの為では捨行と成らない)と答えるのが正道となるのです。
     
    しかし、何事も言うは易く行うは難し、社会の仕組みの中に生きる身には中々捨てきることは難しいです。
    そもそも人間を知れば知るほどに、ロジカルに割り切れるものではないのだと思い知らされます。
    そうした見地に立った時、心に芽生える視点、想いにこそ「慈悲」があるのだと思います。
    慈悲は「慈しみ」「悲しみ」の二字で表現されます。
    有機体で構成される私たち人間は、無常の道理の中で必ず生老病死の苦にさらされ、徹底しようとしてもしきれない悲しさを元来持った生き物です。
    この弱さ、もろさ、あやうさを知るからこそ、同じ悲しみをもつ同類への哀れみ慈しみの心が、人には自ずと芽生えうるのです。
    悲しみに裏打ちされた慈しみの心、故に慈悲というのです。
    冒頭に引用した相田みつをさんは、足利で長らく坐禅会に通われて、このことをよく学んでいるからこそ、その作品には慈悲の眼差しがはっきりとあらわれています。
    「だめだっていいじゃないか、人間だもの」などはその代表と言えるでしょう。
     
    これらは、元々だめなのだから刹那的に生きるべきだ、とか怠惰に自堕落に耽っても良いとかをいっているのでは決してありません。
    ポジティブになれない上手くいかないという時に、そういうこともあるんだよという許しと労り、慈しみの視点が、木石ではない人には必要とされるのです。
    だからこそ、慈悲の心の表れである観音様は、今日まで広く信仰されてきたのでしょう。
    冒頭の一句は、このことをきちんと心しているかと自分に問いかける警句として、いつも自室に掲げているものです。
                          祥雲寺副住職 安藤淳之
    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:10月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

  • 令和元年10月 観音朝詣りのお知らせ

    2019年10月27日

    大本山總持寺に納めた法要の鐘。お父さんおじいちゃんの名前を探してみる

    私は、献体をされた方の葬儀を、何度か勤めました。
    ある方は、特攻兵として志願しながら、基地に向かう列車が空襲されて止まり、まもなく終戦を迎えた人でした。
    戦後、役所に勤めながら、匿名で福祉施設への寄付を生涯続けておられたと奥さんから伺いました。
    あるいは青年の日の滅私奉公の志を献体によって成し遂げたのかとも思いました。
    遺族、親族、知己の人々によってしめやかな葬儀が営まれた後、遺体は医大に運ばれました。
     
     献体をする人は増えているそうです。
    医学部や歯学部のある大学と献体篤志家団体が窓口で、およそ30万人が登録しているそうです。医学、科学の発展の役に立ちたいという篤志に因るのでしょうが、増えている理由には経済的な側面もあるそうです。
    霊柩車費用や献体後の火葬、棺桶代などがかからないのです。
     
     また、女性の登録者が増えているそうです。
    自分の葬儀が遺族の負担にならないようにとの考えの人もあり、中には夫と一緒の墓に入りたくないという希望から登録する人もいるそうです。
    ただし、家族がいる場合、大学の納骨堂には入れないというのが大部分の原則になっているそうですが。
     
    いずれにしても、心の宿るところ、人生の土台である自分の身の始末を、勧請や厭憎の観点から考えて欲しくはありません。
     
     献体された方の葬儀は、多くは遺体の無い葬儀です。
    宗門の定める引導作法においては、遺体、遺骨の有る無しに違いはなく、霊位への以心即通をもって務めます。
    かつて、このような葬儀が多く行われた時代がありました。
    戦死者の葬儀です。
     
    遺体のない葬儀は、形あるものとしての対象を欠いて、慎み、悲しみの心が定まらなくなってしまうことになりかねません。
    しかし、より純粋に故人との由縁(ゆかり)を偲び、人生を深く思い見る場ともなります。
    形が無に帰して、なおかつ残るものがあるのが人間なのですから。
     
     令和元年十月十五日
                         祥雲寺住職 安藤明之
  • 令和元年9月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2019年9月15日

    8月29日はお施餓鬼、全お檀家を対象とした先祖供養の法要を行います。

    最初に御法話。本年も山形県より三部老師にお越しいただきました。

    法話が終わってお施餓鬼となります。

    仏法僧「三宝」
     
    上記の「仏」「法」「僧」とは三宝と呼ばれる、仏教徒の帰依信仰を表す言葉です。
    日本で最初に仏教を広めようとした聖徳太子は「篤く三宝を敬え」と憲法十七条に書かれました。
    この三宝を信仰する功徳をある老師がお話しされた内容が素晴らしかったので、あいまいな又聞きながらこちらで紹介します。
    かつて老師が結婚式の導師を勤め、その披露宴の席でされたお話です。
     
    「今日このお二人は仏前で三宝に帰依し夫婦の誓いを交わした。
    お二人は必ずや幸せになるであろう。
    何故か?三宝に帰依することを誓われたからである。
    三宝とは何か?仏と法と僧である。
     
    仏とは何か?
    仏とは光じゃ。この全てがうつろう無常の世の中でお釈迦様は心の平安を体現され、それを誰しもが成しえる道を示して歴代の祖師方が続かれた。
    仏に帰依する誰しもが迷いを払って仏となりうる希望の光を示されたのじゃ。
     
    法とは何か?
    法とは正しさじゃ。この全てがうつろう無常の世の中で迷ったときに道しるべとなる正しさをお示しになられた。
    たとえ人生の暗がりに迷うともこの正しさをともし火とするなら迷いを離れることができるのじゃ。
     
    そして最後の僧とは何か?これが一番肝心なのじゃ。
    僧とは仲良さじゃ。違う生き方をしてきた二人が共に生活するならば、時には互いの正しさがぶつかり合う時もある。そんな時には互いの正しさを一たび収めて認め合い許しあう「仲良さ」が、和が大切になるのじゃ。
     
    この仏法僧の三つを三宝という。この三宝は如何なる宝にも勝る優れたものである。
    世間一般に宝という金銀財宝は、あれば生活を豊かにするのであろうが、時に自分や他人の欲望を呼び起こして不和のもととなり、また盗まれるのでは、等と思って疑心暗鬼の種や時には重荷ともなる。世間の宝は心の平安を生みはしないのだ。
    しかしこの三宝はそのような欲望も起こさず悩みの種ともならず、またそれでいてこの三宝に依って生きるならば必ずやよき人よき夫婦となり、その周りには良き和が生まれて幸せとなるであろう。
    これほどの素晴らしいものを宝と呼ばずして何と呼ぶ?故に三宝と呼ぶのじゃ。
     
    今日お二人は三宝に帰依し夫婦の誓いを交わした。
    是非とも教えをもとに、素晴らしい家庭を築かれていただきたい。」
                                       祥雲寺副住職 安藤淳之
    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:9月16日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

  • 令和元年8月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2019年8月25日

    だいたい7月中旬から八月末まで、暑い盛りに蓮は綺麗に咲いています。

    境内の西国三十三観音札所お砂ふみ、その三番目の蓮池です。

     

     

    私が昔から作ってきた色々な悪い業は、

    遠い過去から積み上げてきた、貪瞋癡すなわち三毒によるものです。

    それは、体で行った・話した・思ったという三業から生まれたのです。

    私は今、それら全てを懺悔します。

                              懺悔文(華厳経より)

    皆さんはお盆をいかがお過ごしでしたでしょうか。

    お寺は年で一番の忙しい時期となり、私も例にもれず慌ただしい日となりました。

    迎え盆というと日暮れなのですが、今は暑くない朝のうちに来られる方もいるので朝5時には玄関を開けて来客の備えをして、最初に鉢を鳴らしてお経をお唱えしながら境内のお墓を巡る「墓おこし」と呼んでいる行事をして、お盆で戻ってこられたご先祖方を迎えます。

    祥雲寺墓地は斜面にあるため上り下りして一時間半ほど行って、それが終わるとそろそろ駐車場が混雑してくるので駐車整理に回ります。

    今年は大変暑い日となり、十時ごろには坂下で倒れた方がいたので救急車を呼ぶ騒ぎにまでなりました。

    十一時ごろ、暑さも駐車場の混雑もピークを迎え、救急車騒ぎで駆けずり回ったため体力の余裕もなくなり、道をふさいで客を待とうとするタクシーについつい強い口調で当たってしまいました。

    すると一緒に駐車整理をしていた人が、自分の誘導を叱られたと受け取って大変怒ってしまい、「副住職のあんな顔見たこと無いよ」と言われてしまいました。

    これは大いに反省しなくてはならないことでした。

     

    上記の懺悔文とは古くから宗派を問わず唱えられている、悪いことをしてしまう心のはたらきを表した文章です。

    「私が行ってしまう悪い行いは、わき上がるむさぼり、いかり、おろかしさによるものです。身と口と心から、この三つの毒は生まれるのです。これを理解し反省します」

    私は僧侶です。悟りという心の平穏を体現したお釈迦様に憧れ、その生き方を現在に模倣し人々に広めることを使命とするものです。

    それでありながら私は

    ・もう体調的に無理なのにまだ出来るという見栄虚勢を押し通した「むさぼり」

    ・相手の職責を思いやらず自分の都合を押し通さんとした「いかり」

    ・無常(おもいどおりにばかりはならない)が故に都度真摯に向き合わねばならない道理を忘れた「おろかしさ」

    この故に不和を招き、折角寺に来た人に悪い思いをさせてしまったことは、正に不徳の致すところというより他ありません。

     

    出来ることと出来ないことをきちんと見定め、準備を周到にしてこの年に一度のお盆を良い仏縁の日と出来なくては、この身の甲斐がないというものです。

    むしろそれを気付かせてくれたあの運転手を、それこそ導きの観音様と受け取り、そうしてこそ悪縁を善縁へと変えていくことが出来るのでしょう。

    私にとってこのお盆は、忙しくも心に期すべき時でありました。

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:8月26日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

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