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令和8年9月 朝坐禅会「指月の会」案内(9月21日朝6時半より)
2026年9月20日たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといえども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。
(薪は灰となる。だが、灰はもう一度元に戻って薪とはなれぬ。それなのに、灰はのち、薪はさきと見るべきではなかろう。知るがよい、薪は薪として先があり後がある。前後はあるけれども、その前後は断ち切れている。灰もまた灰としてあり、後があり先がある。だが、かの薪は灰となったのち、もう一度薪とはならない)
『正法眼蔵・現成公案』
ここ暫く、坐禅会でグリーフケアやターミナルケアについての話をしていました。
それについて、先週県内有志で行っている僧侶の勉強会で、県南から来ている人に説破されてしまいました。
仏教は二千年以上続いてきて、道に精進されてきた先人の遺された書籍は星の数ほどもあります。
難解な古書を一人で頑張って読み解こうとしても中々続けられなく、時に棚上げになってしまう。
ならば皆で集まって智慧を集めて読み進めようとして勉強会を立ち上げ、もう十年は経ちます。
仲間と向上の努力できる場がある有り難さであり、僧宝の功徳を実感するところです。
先日の開催時に話題が常の法事となり、私が初七日法要の際グリーフケアに関連した話をする事もあると話した際に勉強仲間から、自分はそうした話はあまりしない、と言われました。
曰く、人は亡くなっていくのが当然であり、分けても老齢者は死に別れるのが自然ですらある。
悲しむ事ではあるが自然であり道理であることを悲しみに暮れるというのは、会者定離を自身に踏まえられない現代人の歪み偏りを感じる。
この必ず来る死別をどう受け取り生かしていくかが僧侶の説くべき所であり、慰めや労りに傾注する事は僧侶の本分とするべきところではない。
聞こえの良い過分な慰めや労りというのは、本道を損ないおもねりやへつらいにすらなり得る、
との事でした。
はっとさせられる言葉でした。
自身の言動が大悲心から来ているのか、聞く人への阿りから来てはいないだろうか。
警策で一打されたような、襟を正してくれる説破でした。
上記の言葉は道元禅師の示された一句です。
薪と灰の有り様の中に、縁の関わりによってそれぞれが起こりありありと現成している。
その時々の、真実の有り様が現れている。
私達がどう観測するか、ではなく縁起の道理のままにただ現れ成っている。
私も貴方も、全ては偶さかの結びつきによっていま、ここに、このように有る。
いまをあるがままに受け取って、その時々を懸命に生きる。
不生不滅、生きる死ぬに惑わぬ道を示されている一句と思っています。
説破した彼曰く、最近は赤信号を渡る訓練をしているのだとか。
都会や人口密集地ならともかく、過疎が進む地方で車の姿も無い道路を歩いていて、何故赤信号に無判断に足を止めるのか。
心を無用不要に縛る枷を解く訓練と思っているが、人目があると迎合して足を止めてしまう弱い自分だと笑っていました。
憚られる字面ですしどう受け取るかは人それぞれですが、
おもいよがりや固定観念が打ち破られるというのは小気味よく、爽快なものです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は10月26日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
