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29年1月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2017年1月28日暫く不在で当日前に更新できませんでしたが、遅ればせながら載せておきたいと思います
「お前は月が二つあることを知っているか?」(「汝、月に両箇有ることを知るや」)
両箇の月『峨山禅師行状』
新年おめでとうございます。
今年も指月坐禅会を参加者の方達と続けていけるよう頑張りたいと思います。
さて、当坐禅会は「月」の字を題にのせています。
禅宗では昔から、悟りの境地、真理を夜空に皓皓と輝く月に喩え、様々な語句に用いてきました。
普遍的なもの、唯一的なもの、円満なる境地の象徴として月よりふさわしいものは無いからです。
そんな中、その月の唯一性に疑問を投げかけた禅問答が上記の『両箇の月』です。
曹洞宗の大本山總持寺の初代瑩山禅師のもとで二代目となる峨山禅師が修行されていた時にこんな問答があったそうです。
瑩山「お前は月が二つあることを知っているか?」
峨山「わかりません」
瑩山「月が二つあるということがわからなければ、私の禅の後を継ぐことは出来ない」
峨山様は自らの修行が至らないことを知ってより一層励まれ、この「両箇の月」に取り組まれました。
二年が過ぎたある日、深く禅定に入った峨山様に瑩山禅師が歩み寄られ、耳元でパシッと一度指を鳴らす音を聞いて、峨山さまは悟りを開かれたそうです。
峨山禅師がどのように悟られたのか、正確には伝わってはいません。
ですがある老師は
「月とは唯一絶対の真理を指したものであろうが、この絶対の真理を〔二つある〕というのは、禅師が真理を唯一とみ、絶対と見る偏執に陥ることを打破されたもので、つまり〔出身の活路〕に欠けていることをいましめられたことばである」
と説かれました。
私たちは皆大なり小なり、自分の中にある正しさを軸に生きています。
しかしこの正しさを大きく主張すると、殆どの場面で他者の主張する正しさと角突き合わせることになります。
「僕らはみんな悪くないと思っている。だから戦争は無くならない。」
昔読んだ本の言葉はいつまでも私の耳に響いています。
絶対の真理をしりながらも、その真理を絶対とは捉えない、その自由豁達の境涯こそ、瑩山禅師の示されたものなのだろうと思います。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:1月23日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 既に終了
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
次回の指月坐禅会は2月27日となります。
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平成29年1月 観音朝詣りのお知らせ
2017年1月25日暫く不在で更新できませんでしたが、遅ればせながら載せておきたいと思います。
正月の門松飾りの本堂。
この一日の身命はとうとぶべき身命なり、とうとぶべき形骸なり。
道元禅師 正法眼蔵行事の巻
お釈迦様は、生まれ落ちてすぐに七歩歩まれて天地を指さし「天上天下唯我独尊」と叫ばれたと伝えられています。
この言葉を、この世で私のみが尊いのだという意味にとってはなりません。
「人間は自分自身の尊さに目覚めよ」といわれたと受け取るべきで、それが仏教の根本精神なのです。
「尊い」とはどういうことか。
するべきことがあるのに、何もしないで時を過ごし、生きているだけで尊いという意味ではありません。
「いま」この時を精いっぱいに生き抜いてゆく。
その生き方が、天地の理法に適う時、そこに尊さが自然に現れるのです。
天地の理法に適うといっても、常人がなしえないような厳しい修行をすることをすべての人に求めているのではありません。
お釈迦様は対機説法といって、人それぞれの資質、境遇にかなった生き方をお説きになりました。
普通に生活する人々に対しては、いつくしみと感謝の心に基づいた行いをすることを説かれました。
その心を志として精いっぱいに生きる時、人は尊いのです。
道元禅師は、これらを踏まえて、われわれのいのち(身命)とからだ(形骸)を「とうとぶべき」と言い切っておられるのです。
「この一日」という言葉も、時間の長さを表しているのではありません。人間一人ひとりにとっての時間は、時計で計る時間ではありません。
病にかかり余命幾ばくもないと知った人が、残された時間を大切に生きようとすれば、一刻一刻は無限の長さであり価値でもあります。
時間はいのちなのです。
お正月には時を感じます。
その時を長さ短さで感じるのではなく、「いま」がかけがえのないものであると自覚して、志をもって精一杯生きたいものです。
平成29年1月15日 祥雲寺住職 安藤明之
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28年12月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2016年12月18日祇園精舎の菩提樹。
お釈迦様在世の時、最も長く留まって修行された場所。
「諸行無常、一切皆苦、諸法非我」 『ダンマパダ』
12月8日はお釈迦様成道の日です。
伝承では、6年の苦行を離れた後、菩提樹の下で禅定に入り、一週間の後、明けの明星と共に悟りを開かれました。
その後5人の修行仲間に始まり、亡くなられるまでガンジス流域を中心にあらゆる階層の人々に教えを説いて歩まれました。
お釈迦様は相手に合わせて様々な言葉で教えを説かれましたが、その中心となる教えが冒頭に挙げた三法印と呼ばれる言葉です。
「一切の形成されたものは無常である。」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の形成されたものは苦しみである。」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の事物は我ならざるものである。」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
-『ダンマパダ』-
あらゆるすべては移り変わっていき、自分の身を含めて思い通りになるものは一つとしてない。
全ては執着を持つべきものではない、そう受け取って生きることが、清浄な生き方であると説いています。
それは、執着こそが人間を縛り世界をゆがめ、そこに苦しみが生まれるからです。
故に執着を挫いて欲望から自己を自由に開放する、清らかな生き方を説いているのです。
仏教の教えは、この清らかな生き方を如何に実践するか、なのです。
煩悩、妄執にとらわれた人間にとって、自己浄化こそ、仏道の基本となるのです。
この清浄行として行われてきた仏道修行、その大切な一つが坐禅なのです。
近年マインドフルネスの名で学校や職場等で実践されているとのことですが、その時に大きな過ちとなるのが、そこに効率性を求めることです。
瞑想は、マインドフルネスは、坐禅は色々なものをもたらしてくれる。それは科学的に実証されています。
しかし、そこに効率性つまり執着を持ち込めば、それは清浄行足り得ません。
その執着が心を縛ります。
坐禅は何物も求めず只ひたすらに行う。
何も求めないからこそ、そこに何とも言いようのない清々しさを感じるのでしょう。
私はそれこそが、道元禅師の説かれた「只管打坐」であると思います。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:12月19日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
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平成28年12月1日、無縁供養、水子地蔵尊例祭。
2016年12月18日毎年12月1日は祥雲寺無縁供養、水子地蔵尊供養の日です。
祥雲寺の無縁供養は天明年間(二百二十年前)に起源をもつ伝統行事です。
私たちは普段の行いとして親類縁者の為の供養(一周忌等の年回供養)を行いますが、無縁供養は直接のつながりがなくとも自分たちに恵みを与えている諸々に、そして天地万物に対して行われる報恩感謝の供養です。
この日に合わせて祥雲寺石彫り会「羅漢の会」の石仏の点眼式、水子地蔵尊の供養、また来山して頂いた皆さんに楽しんでもらえるよう演奏会を行っています。
石彫会の羅漢点眼
雨天の中巡行
今年彫りあがった羅漢様の点眼式。
無縁供養塔の前でテントを張って法要。
水子地蔵尊例祭。水子地蔵さまに線香をあげ手をあわせています。
午後は演奏会。市内のシルバーアンサンブルの演奏です。
75歳以上の面々での演奏会。曲目はこの年代の青春時代の歌を中心。
パンフは130以上用意しましたが全部はけてしまいました。
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平成28年12月 観音朝詣りのお知らせ
2016年12月18日12月8日は成道の日。写経会の納経会を行っています。
本尊さまの台座にお経を書き付けた石を投入します。
お釈迦様は、老病死の苦しみを見て、生きるとは何かという問いを抱えて出家されました。
6年の苦行のあと、中部インドのブッダガヤの地、ナイランジャ川のほとりの菩提樹のもとで禅定に入り、12月8日の暁に、明星が燦然と輝く中で悟られました。
しかし、お釈迦様は悟られた内容を、すぐには説法しようとはされず深い禅定に入ったままでおられました。
世界の創造神である梵天はその様子を見ていました。
そしてお釈迦様が真理を説いてくださらなければこの世は滅びてしまうと危惧し、おん前に現れて、衆生のために説法してくださるよう必死に勧めました。
梵天の請いを受け容れたお釈迦様は、私はあらゆるところに行ってすべての衆生に説法しようと決心され、菩提樹のもとから出立されました。
梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と名付けられたこの話は、お悟りが説法されることによって衆生が救われたのであるから、これはお釈迦様の無限の大慈悲心のあらわれであるとして、語り伝えられました。
東京大学名誉教授の斉藤明先生は、この時のお釈迦様の大慈悲心が具現したものが観世音菩薩であり、それがよく表れているのが十一面観世音菩薩の姿であると言われます。
十一面観音は、頭上に十の顔と禅定にある仏さまを載(の)せています。
これは四方八方上下の十方世界に慈悲の眼を向けてあらゆる生きとし生けるものをみそなわしているのであり、中央のほとけさまは菩提樹下に禅定するお釈迦様に他ならないということです。
そうしてみれば、観音さまは仏さまの使いではなく、お釈迦様そのものということです。
肉親のお釈迦様は、紀元前383年、北インドのクシナガラで入滅されました。
しかしお釈迦様の大慈悲心は、観音さまとなって生きとし生けるものを救い続けています。
平成28年12月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時半から行います。