ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

宇都宮 座禅会 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

宇都宮 座禅会

  • 令和2年7月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2020年7月26日

    今年も蓮が綺麗に咲きました。

     

    謹んで大衆に申す
    生死事大 無常迅速
    各々宜しく星醒すべし
    謹んで放逸なることなかれ
                      僧堂で鳴らす板に書かれる警句
     私の坐禅の師、福井御誕生寺の板橋興宗禅師が75日に遷化されました。
    修行を終えても僧侶としてのあり方に迷っていた私に道を示して下さり、お膝元で2年ほど再度修行の機会をいただきました。
    禅師様には沢山のことを学びました。
    寂寥の思いは募れども、別れに際して思うのは上記の「無常迅速」でした。
     お釈迦様は2600年の昔、80年の人生を歩まれ、沢山の弟子に看取られる最後であったと言います。
    弟子達が惑うことの無いよう、これまで説いた教えを要約して語られ、そして最後は自らの死に様を示す無言の説法であったそうです。
    人は誰しもが死ぬ、死とはこういうものだ、だからこそ生きている今怠ること無く務め励み精進して修行を成しなさい、と。
    以来仏教徒の姿勢とはかくの如くで、上記の警句はそれを受けて中国で書かれ、今日も修行道場で心すべき警句として用いられています。
     禅師様は本当に様々な手本をお示し下さいました。
    その手本を、今度は自分がこの身で実践し、能うならば示していくべく務めていく番が巡ってきました。
    教えは人生に生かされてこそのもので、そして歴代の仏祖は実践の中で教えを伝えてきたのですから。
    禅師様の教えを実践する中に、仏と成られた禅師様の命がきっと息づいていることを私は信じています。
                            祥雲寺副住職 安藤淳之
    明日の坐禅会は本堂二階、広い空間で間隔をあけての坐禅となります。
  • 令和2年6月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2020年6月21日

    梅雨の時期は紫陽花の季節

     

     

    栴檀林せんだんりん雑樹ぞうじゅし、鬱密うつみつ森沈しんちんとして獅子ししのみじゅう
    (香木の林に他の雑木が生えることの無いように、弁道精進の場には志ある人が集う)
                                    『証道歌』
     
     先日境内草木の手入れをしていたところ、お参りに来ていたアジア人の青年と立ち話をしました。
    県内在住でお寺へのお参りを時折されているとのことで、信仰している宗教は無いがお寺に来ると気持ちが落ち着くのだそうです。
    お寺も仏教も心を安らかに、落ち着けていくものなのだから機会があればどうぞいらして下さい、という趣旨の話をしたら「また菩薩さまに会いに来ます」といって帰られました。
     
     以前NHKの番組で題材にされていましたが、お寺の建物を表現する伽藍という言葉は「僧侶の修行する林」を現す言葉を原型としています。
    インドの時代僧侶は、誘惑の多い町中ではなく近郊の林を修行の地としていました。
    それは市中の俗塵世情から離れた惑わすもののない自然の環境こそ、心を落ち着ける最適の環境であると知っていたからでしょう。
    今日のお寺もまた、浮き世の波風から離れた心を落ち着けるに足る作りを伝統として踏襲しています。
    異国の青年との語らいは、私たち仏教徒の受け継ぎ育み伝えるものが人種や文化の垣根を越えて通じるもの、尊びうるものなのだと再確認させてくれました。
    或いは大げさな言い方なのかもしれませんが、ささやかなりとも古人はこうした出会いと導きを「観音様のお導き」と受け取っていたのでしょう。
     
     
                                祥雲寺副住職 安藤淳之
    明日の坐禅会は風通しの良い広い堂内で短縮して行います。
  • 令和2年5月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2020年5月24日

    5月の本堂と境内

    これわが最後に教誨する処なり
                 『遺教経』
     
     先日市内のお坊さんの葬儀に参列しました。
    僧侶として活動して以来の付き合いでしたから、16年ほどの付き合いがありました。
    突然死であったためお勤めしていても実感がわかず、最後にお骨を祭壇に安置して参列者が帰られ静かになってから漸く、もうお話しできることはないのだと理解できました。
    一人堂内で御遺影と10分ほど対面し、身近に居た人を無くした寂しさと思っていた以上に暖かい思い出を頂いていたのだという驚きと、そしてお釈迦様の最後の説法とされる『遺教経』の一節をかみしめていました。
     
     お釈迦様は今から2600年の昔、インドに生まれて80年の人生を歩まれました。
    その最後は、沙羅双樹の元に横たわり多くの弟子に見守られながらのもので在ったと言います。
    自分が世を去った後弟子達が惑うことのないように、臨終の床にありながらこれまで説かれてきた教えを丁寧に再確認できるように纏めて説かれたのが今日『遺教経』という形で伝えられ、そしてその最後の教えは自らの死にゆく姿を見なさいと言う無言の内の説法であったと言います。
    人は誰しもが亡くなっていく、死とはこのようなものなのだ。
    だからこそ生きている今、怠ることなく務め励み精進し、道の達成心の安心を成しなさい、と。
     
     今、一人の和尚が世を去られて、多くのことを示してくれました。
    願わくは私も暖かい思い出を人に持ってもらえるような、あの和尚さんの様に人に接することが出来ればと思います。
    その行いの中に、仏と成られた和尚さんとのご縁が、きっと確かに息づいていることを信じています。
     
                           祥雲寺副住職 安藤淳之
    明日の坐禅会は風通しの良い広い堂内で短縮して行います。
    その為暖かい格好でお越しください。
  • 令和2年3月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2020年3月22日

    例年は彼岸明けから三月末で開花するのですが、今年は彼岸前には花開きました。

     

    この日曜日でほぼ満開になりました。見ごろは今週中ごろでしょう。

    諸行無常
     
     新型コロナの世界的蔓延で、世の中の色々なところに支障が出ています。
    祥雲寺でも地域の観音堂例祭や御詠歌講、花祭り写経会が中止になりました。
     私には医学の心得はありませんが、感染症の話題になる度に、学生時代に読みふけっていた村上龍の『ヒュウガウィルス』をいつも思い出します。
    この本は簡潔に言えば、九州で酷い病気がはやり、細菌戦の部隊が処置に赴く話です。
    作中の架空の病気ヒュウガウィルスは未知の病気で、エボラ出血熱を更に酷くした空気感染するウィルスが一帯を変わり果てた死体の山にします。
    その様子を見て、なんで人間はそんなに弱いんだ、と嘆いた人に、老科学者が返した言葉が印象深く、今でも良く憶えています。
    「弱くて脆い部品が精密に作動するから生物は進化した。
     われわれのからだを構成する分子は脆くて壊れやすいつながり方でつながっている。
     だから化学反応が可能で、全体として信じられないような生体のシステムが生まれた。
     強い結合で結ばれれば鉱物になってしまう。
     鉱物は何億年経ってもほとんど変化がない。
     人間は柔らかい生き物だ。
     その柔らかさ、脆さ、危うさが人間を人間たらしめている」
    あまりにも繰り返し読んでいて、私の人間観の基ともなっていますが、これって言葉が変われば、そのまま「無常」を表現しているものだと思っています。
     私たちは無常(変化)だから生まれ育ち、変化するから老い病み死んでいく。
    無常には良いも悪いもない、変化するから私たちはこうして在ることが出来る。
    だから無常は厭うものではなく、受け入れその都度真摯に対応するのが最も良い身と心の処し方と言えるのでしょう。
     
     残念なことに、新型コロナとの付き合いはもうしばらく長引きそうです。
    私たちが成すべきは、こういうこともあるさと腰を据えて向き合って、日々対処して自分と周りを整えていくことなのでしょう。
    それこそ疲れないようじっくりと。
                                  祥雲寺副住職 安藤淳之
    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:3月23日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

  • 令和2年2月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2020年2月23日
    利行は一法なり、普く自他を利するなり
                          修証義第四章 四摂法(ししょうぼう)
     
    先日テレビをつけてみて、NHKで昨年行ってきたミャンマーの映像が流れていたので懐かしく視聴しました。
    世界ふれあい街歩き、黄金輝く仏教の街マンダレ、という番組です。
     
    マンダレというのはミャンマーの旧首都です。
    日本で言えば京都のような場所で、王宮を中心に碁盤の目のように整然と建物が並ぶミャンマーの古都です。
    冒頭に東南アジアの都市で見かける、街の広場で早朝に大勢集まって太極拳や健康体操をしている人たちが映されて、その中でヒップホップを踊っていた中年のご婦人が、大変印象深い受け答えをされていました。
     
    撮影者が「この町はどんな街ですか?」と尋ねると
    女性は「困っている人を助ける街よ」と答えたのです。
     
    これは、中々出てくる言葉ではないでしょう。
    なんとも素敵な受け答えではないでしょうか。
    ですが、女性もその周りも、なんてことはない当たり前の認識として答えていたのです。
     
    番組の中では様々な人が映されて、多くの人が良いことをする、功徳を積むことで幸せになれると話されて、他者への施しをして手を合わせ、また種々の形で徳行を実践していました。
     
    我が宗祖道元禅師の著書に
    「利行は一法なり、普く自他を利するなり」という言葉があります。
    人のためになる行いとは決して一方的な、損をするだけのものではない。他者の為の行いとは翻って自分の為の行いともなるのだ。損得ではかれるものではない尊い淨行なのだ。
    意訳するとこのような意味となるでしょうか。
    ミャンマーの人々は、他者の為に心を配り分け与える事こそが「普く自他を利する」、他人と自分をそして世界を幸せにする道なのだと理解しているからこそ、世間的には損をしていても皆笑顔で幸せそうにされているのでしょう。
     
    頭の下がる光景でした。手を合わせたくなる尊さのある光景でした。
    いずれまた、お参りの企画を立てて訪ねたいとの思いを新たにしました。
                        祥雲寺副住職 安藤淳之
    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:2月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

祥雲寺行事案内

祥雲寺で行ってる月例行事や年間行事、その他法要・祭りなどについてのご案内です。 行事カレンダーもご確認ください。