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令和5年10月 朝坐禅会「指月の会」案内(10月23日朝六時半より)
2023年10月22日放四大莫把捉 (四大を放って把捉することなかれ)
寂滅性中隨飮啄 (寂滅性中隨って飮啄せよ)
諸行無常一切空 (諸行は無常にして一切空なり)
卽是如来大圓覺 (即ちこれ如来の大圓覺)
『証道歌』
11月晋山結制まで一月を切りました。
いよいよ準備も大詰め、スケジュールが始終埋まっててんてこ舞いです。
十月の頭に筆の達者な方にお願いをして、本堂前に角塔婆を立てました。
大行事につきものの証のような物で、いよいよ感が出てきました。
書き付ける文言は正面にやる行事の趣旨、裏面に日付と建立者名の記入。
左右の面はそれぞれ経典や祖録からの引用を書き付けます。
上記の文は証道歌という祖録から引きました。
証道歌というのは中国仏教の祖師が書かれた、禅の境地を詩として歌い上げた文言で構成されています。
其の中で、私の思うところにしっくりくる箇所を今回用いたわけです。
少しわかりやすく崩して読むならば
起こる物事の理由理屈を突き詰めすぎようとするべきではない。
全てはあるがままにありなるようになっていくのだから流れに従ってあるべくしてあれ。
そもそも万物万象は移り変わってゆきそこに意味など無い。
だからこそ、そんなものに拘り心囚われる必要など何処にも無い、というのが釈尊の悟りなのだ。
私は
永平寺での修行坐禅で、自分に拘りすぎる必要は無いんだ、ということを知りました。
總持寺での参禅弁道で、お坊さんらしくあることが拘りの無い最適のあり方だと教わりました。
御誕生寺での参学問法で、それを続けていくことの大切さを禅師様に身を以て示して頂きました。
私なりの足跡、仏道を歩む発端というか、動機となるところに合致する表現であり、また三十三回忌の法事の時にいつも読んでいて馴染みがあることから用いました。
願わくは過去の祖師方に同じく、佛意を損なわずに話すことが出来ますように。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は11月27日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和5年9月 朝坐禅会「指月の会」案内(9月25日朝6時半より)
2023年9月24日ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
『正法眼蔵』生死の巻
しばらく前にネットの記事で、定年した後にお坊さんを選ぶ人達がいる、というものを読みました。
曰く、仕事に邁進して仕事以外の人間関係が疎かな日本人男性は定年後の長い余生をもてあます。
多様な選択肢の中に第二の人生として僧侶を選べる道が近年整備されている。
老いの中で無常を感じることは機縁が整うことでもあるが、金儲けのため知識欲のため老人ホームがわりを求めて等様々な理由があり、俗っ気が抜けないままで修行に臨んでも上手くはいかない。
ある住職が言うには、生半可な覚悟では自己を捨てられず、修行の邪魔になることが多い、
との事。
コメント欄で、自分には自己は捨てられない、との投稿がありましたが、ここが肝の所なのでもう少し掘り下げてみます。
自己を捨てる、だと仕事でまま求められたりカルト宗教のイメージで浮かぶような、他人のいいなりになってロボットのように動くことを強要されるといったことを想像する方も多いかと思います。
私としては、ここは伝統的な我を捨てる、という表現の方が受け取りやすいように思います。
我を捨てる、というのは自己の意思決定を放棄して外の情報を丸呑みするといった意味ではありません。
俺が私が、なんで自分ばっかりといった我見を離れようとするもので、自己中心の世界観の呪縛からの脱却とも言い換えられます。
自己愛自己保存自己優先自己顕示と欲は密接に結びついていて、重たく煩わされるもの、いわゆる煩悩です。
それを小さく少なくしていくのが修行であり、欲に振り回されない自分を育てていくことなのです。
上記は我が宗祖道元禅師の有名な言葉です。
少し崩して現代語訳します。
自分の身と心を手放して、仏の家の中に投げ入れる(伝わってきたとおりの教えや修行に倣う)。
そうすれば、仏の方から全てが行われていく。
自分は仏のはたらきに従うのみである。ただ従うだけで、自分で力むこともなく、あれやこれやと悩むこともなく、生死の惑いから自由になる。そういう生き方をしている人こそ、仏だ。だというのにどうして『自分』に執着し続けるというのか!?
第二の人生としてせっかくの仏縁を得た方達には是非とも踏ん張って欲しいと願います。
まずは倣うこと。
仏の生き方を学び真似び、倣うことが欲や自意識といった重たく煩わしいものから離れる道であると感じることが、きっと長く続ける意欲となるはずです。
願わくはこの機会を持って多くの人が仏道を成ずることができますように。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は10月23日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
9月観音朝詣りのお知らせ
2023年9月23日インターネットは、益々国民の生活に定着してきました。
いろいろな情報を受け取るにも、年代が若くなればなるほどテレビや新聞よりもネットを利用する人が多くなっているようです。
そうした中で「炎上」という言葉を多く目にするようになりました。
ある人の発言や行動に対して、たくさんの人からネット上で非難の言葉が投げつけられる状態です。元になる発言や行動が、暴言であったり、時には破廉恥なものであったりする場合が多いのですが、発言が一理あっても社会通念と異なるものだった場合もあります。
ともかく、非難の発信者は姓名を隠しています。
それがネットの特質であるとも言えるのでしょうが、これはずいぶん不公平な意見交換のあり方です。
もっといえばおのれを隠して人を誹謗中傷するのは卑怯です。
仏教では人間の為す悪行を十挙げています。
その中で言葉に関わるものは四つ、妄語(偽り)悪口(粗暴な言葉)綺語(ざれ言)両舌(かげぐち)です。誹謗中傷は両舌に分類されます。
人に過ちがあると思えば、堂々と自分の姓名を名乗って批判すればよい。
その言葉が激しくて非難になるのは感心したことではないがまだ許せる。
それは相手から反論、非難される危険を自らに負わせているからです。
発言の責任を最低限取っていると言えます。
例外はあります。
相手が強大な力を持っていて、名を名乗ることによって発言者が危険や不利益にさらされる場合です。
政治的信条に関わることや組織の内部告発など公平な社会の実現のために匿名が許される場合もあります。
しかし「炎上」とは別のものです。
おのれの安全を確かめて人を誹謗中傷する人が、世のためになる意見を言えるとはとても思えません。
というよりも、自らの人間性をおとしめていく行為であり、特にこれからの世を造っていく若者には、是非やめてもらいたいと思います。
令和5年9月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
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令和5年8月 朝坐禅会「指月の会」案内
2023年8月27日一切の有情に供養して。汝と有情と普く皆飽満せんことを。
『甘露門』
今年はコロナ禍以降久しぶりに大勢の人と出会うお盆になりました。
台風の予報もありましたが、宇都宮近辺は大した雨風にはならず、迎え盆送り盆そして新盆のお宅へお参りに伺う棚経もコロナ前と同じように勤めることが出来ました。
お盆の時は色々なお話を相談されるときでもあります。
ある時伺った先のおばあちゃんから、亡くなったご実家の家族が何度も夢に出てくるけれどどうしたらよいか、と聞かれたことがあります。
私は、
ご実家があるならお墓があるなら、お仏壇やお墓にお参りして面と向かって顔を合わせてくればいい、お線香を焚いてお供えをして、懇ろに手を合わせてどうしましたか、とたずねれば良い。
お盆はそれに相応しい時期だから、お仏壇もお墓も、それが出来る場所なんだから直接に会ってくれば良いでしょう。
その上でまだ夢に見られるのなら改めてご相談下さい、
と答えました。
亡くなっても、繋がりがあったご縁は無くなりません。
失われても、残る物はある。
お盆は形ばかりの物などではなく、亡くなられた方とのご縁を確認することの出来る、またとない機会であるはずです。
先日ネットを見ていて、宇多田ヒカルさんの書き込みを見つけました。
亡くなられたお母様によせて言葉を綴られていました。
「人が亡くなっても、その人との関係はそこで終わらない。
自分との対話を続けていれば、故人との関係も変化し続ける。」
繊細な歌を書かれる彼女らしい、深い洞察から出た言葉なのでしょう。
お盆の趣旨はともかく、外見は時代に合わせての変化があっても良いかもしれません。
真言宗のあるお坊さんは、ナスキュウリで作った牛馬で迎えるのではなく、ミニチュアのスーパーカーで迎えるよう作った盆だなを見たと言っていました。
どうぞいらして下さいとおもてなしをする場が盆だななのですから、故人やご先祖を想っての心づくしの席であるならば、それが嬉しくないはずは無いことです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は9月25日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
8月の諸行事
2023年8月1日8月の諸行事 ご興味の方はお問い合わせ下さい。
■大施餓鬼会(8月29日午後1時護持会総会、2時法要、3時半頃塔婆配り)
檀家全ての先祖供養法要。本年は11月晋山式注力のためこの三年と同じ規模開催。
本年も境内墓地塔婆納めは寺で行い、境内外墓地塔婆のみお渡しします。
■初盆施餓鬼
新盆の方対象のご供養法要。9時半説明会(お迎えの仕方等)。10時半法要
■お盆(盂蘭盆会)8月13日~16日
13日午前迎え火、16日午前送り火。
■雀宮善應院坐禅会(第四水曜日のみお休み)
宇都宮南町1番36号「善應院」にて毎週水曜日(第四以外)夜6時から行っている坐禅会です。
8月2日、9日、(16日送り盆の為休止)、30日
■月例坐禅会「指月の会」(8月28日)
祥雲寺本堂にて毎月第四月曜朝6時半から行っている坐禅会です。
■テラヨガ(ヨガ教室)
阿久津先生指導の下第一第三金曜日10時半から。初心者クラスは第二第四金曜日10時半から
8月4日、11日、18日、25日
■陶芸教室「祥陶会」
駐車場下の作陶場にて毎週火、木午後1時から行っています。
■石彫会「羅漢の会」(8月はお休み)
毎週土曜午後、駐車場作事場にて石仏の彫刻を行っています。指導は松原「金野石材店」
■茶道教室
月二回火曜日午後2時から、裏千家鈴木宗陽先生のご指導の下行っています。
8月8日、22日
■写経会
写経会は5月から11月、第二日曜日午後2時から行っています。
8月20日
■御詠歌
8月はお休み
■フラワーアレンジメント教室
南宇都宮駅前「フラワー花亀」亀井先生指導の下第四水曜日午後1時半より行っています。
23日
■折り紙教室
カルチャースクール講師長谷川京子先生指導のもと第3水曜日午前10時よりより行っています。
23日
■クラフトペーパー教室
同じくカルチャースクール講師長谷川先生指導のもと第2月曜日午前10時より行っています。
21日
■観音朝詣り
境内33観音霊場を18日朝にお参りするミニ巡礼会です。開始時間は季節により前後します。
今月は午前 6 時 から
祥雲寺℡(028)622-5719