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令和3年3月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年3月21日和合の功徳はこれ僧宝なり 『教授戒文 帰依三宝』今月3月11日は東日本大震災から10年となる節目の年です。祥雲寺でも境内にある慰霊碑にて、皆さんと2時46分を黙祷し、読経して手を合わせました。10年前、私は3月末から宮城県気仙沼で2ヶ月ほどボランティア活動に参加していました。春彼岸過ぎの頃、曹洞宗と縁のあるシャンティ国際ボランティア会から、被災地で野菜不足からビタミン欠乏が危惧されるので、関東から運びやすく供給しやすい野菜ジュースを用立てて欲しいとの要望をいただきました。近隣のお檀家さんお寺さんの助力を得て集めた分を自家用車に乗せ、気仙沼まで運びそのままシャンティの方達と支援活動を行いました。気仙沼市は宮城県北端にあり、沿岸地に細長く伸びた形をしています。それだけに全域で津波の被害を受けていました。私の最初の支援活動は、立ち上がったばかりのボランティアセンターの一員として数十あった避難所を回り、支援物資を届けて現場のニーズを調査することでした。気仙沼の殆どの避難所を廻って感じたのは、市街地であるほどに避難所内の活動が鈍く、郊外であるほどに活動が活発であった点です。市中心部の避難所では掃除や炊事の人員を都合してほしいとの要望が多かったですが、市街地から離れれば離れるほど、避難所内の事は自分たちでやるから生活再建の為の助力を求められる傾向がはっきり現れていました。同時に、市街地よりも田舎の方が、避難所内の空気や雰囲気があきらかに良いことも見て取れました。私はそれは、田舎の方が支え合い助け合う繋がりが強いから、そのつながりが避難生活の場に違いをあらわにしていたのだと思います。町中も田舎も同じく被災したのですが、慰め合い助け合い支え合える繋がりが、避難所の活力、空気の明るさに大きな差を現していました。一番市街地から離れた、先日読売新聞にも載っていた及川デニム避難所などは笑い声すら聞こえる時があったほどです。とても希な、稀有なことだと思います。助け合い支え合える繋がりや絆、ご縁とでもいうものが、私には被災地に重くかかる黒雲を払い光をもたらしているようにすら感じられました。私たちが信仰の中で大切にすべき三つの宝、三宝の内に「僧宝」があります。仏と成ることを目指し法(教え)を学ぶ者は、同じ道を歩む仲間則ち僧宝(サンガ)を大切にしなさいという教えです。同じ道を歩む者だからこそ助け合い支え合える、それこそ最勝の友である、という言葉です。あの日見た人々の繋がり結びつきの素晴らしさ、それを自分の生きる宇都宮で同じように出来たならとても素晴らしいことだと思います。叶うならば、この祥雲寺がそうしたご縁の場として活用できるなら、この上ないことです。皆が敬い合い相和す、最勝の友が集う場と出来たなら、其れを願いながらこの度も坐禅会を行います。祥雲寺副住職 安藤淳之3月22日6時半より開始となります。当分の間6時半からの一座のみとなります。尚次回の朝坐禅会は4月26日となります。 -
令和3年2月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年2月21日小欲知足2月15日はお釈迦様の亡くなられた命日です。お寺では涅槃図という、臨終の床に着かれたお釈迦様の回りを沢山の方が見守り悲しんでいるシーンの図を掲げ、この日を偲びお経を上げます。この時に読むお経が、まさにこの臨終の場で説かれた遺言の教え、遺教経です。この遺教経の中で説かれている言葉に小欲知足があります。欲をかかず、(求めずとも)足りることを知ることは心の平穏に繋がるんだよ、というお諭しの言葉です。私がこの知足を考えるとき、出てくるのは学生時代に読んだムーミンの登場人物、スナフキンの台詞です。何でも自分のものにして持って帰ろうとすると難しいものなんだよ。ぼくは見るだけにしてるんだ。そして立ち去るときにはそれを頭の中へしまっておくのさ。そのほうがかばんをうんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからね。ムーミンは子供心には少し不思議な外国の童話でしたが、大人になってから見ると実に味わいのある物語で、殊にスナフキンの存在は異彩を放っています。旅人として一人歩むものとして、世俗に交わらず欲に惑わされることを避け、身も心も身軽であることの素晴らしさを教えてくれているように思います。洋の東西を問わず、一人歩もうとする人の言葉には共通点が出てくる物だと改めて感じました。最後に祥雲寺で檀務に用いている『略訳遺教経』の中、少欲知足を書いた章を載せて結びとします。「おんみら修行者よ、求むる処少なきものは心安らぎてうれいおそるることなく、ことにふれて足らざることなきを。もし悩み苦しみを逃れんには足るを知るにしくはなく、さとりの安楽を求めんにはひとり閑かに想うべし」祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間6時半からの一座のみとなります。 -
令和3年1月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年1月24日諸行無常今年も宜しくお願いします。栃木県も年始から緊急事態宣言が出され、様々自粛や制限の中で日々を過ごしています。このコロナ禍を思うとき、時折学生時代に読んだ小説を思い出します。村上龍の書いた『ヒュウガウィルス』という本です。この作品の舞台は、第二次世界大戦で日本が降伏せず本土決戦を行い、数十年経ってもトンネルにこもってゲリラ戦が続く世界です。九州のヒュウガ村からエボラウィルスをさらに凶悪化したような病気が都市部に蔓延し、その対応のために軍の部隊が派遣され対処に当たるストーリーです。現地に到着しウィルスの猛威を目の当たりにし、うちひしがれて人間の弱さを嘆く兵士に科学者が言った言葉が強く記憶に残っています。「われわれの体を構成する分子は脆くて壊れやすいつながり方でつながっている。だから化学反応が可能で、全体として信じられないような生体のシステムが生まれた。強い結合で結ばれれば鉱物になってしまう。鉱物は何億年経ってもほとんど変化がない。人間は柔らかい生きものだ。その柔らかさ、脆さ、危うさが人間を人間たらしめている」私の中で「無常」の理解の土台ともなっている一節です。人は脆い、変化しやすいからこそ人たり得るのだ。それを嫌ってもそうでないならそれは人間ではない。変化するからこそ何かが起こる、何かが出来る。喜ばしいことも悲しいことも変わるからこそ変われるからこそ、無常だからこそなんだ。ならばそれは良い悪いで見るものではなく、世の道理、真理として受け入れていくものなのだろう。私たちは変わるからこそ、今のような人なのだろうから。このコロナ禍で激変してしまった時代、それでも私たちは生きています。環境変化の規模は大きくても生きることは変化し続けることです。この変化の中で、それでも僧侶としての本分を見失わず、為し得ることを探して行っていく。変化を受け入れ、そして本分を忘れないことが、今私ができる最善のことなのだと信じています。祥雲寺副住職 安藤淳之明日の朝坐禅会は略した形で6時半より行います。 -
令和2年12月 朝坐禅会「指月の会」案内
2020年12月27日正精進『八正道』先日NHKでやっている番組「ちこちゃんにしかられる」で、法事で読まれるお経って何のための物?という出題がありました。ちこちゃんの回答は「お経は生きている人へのお釈迦様からのアドバイス」というもので、これはとても今様な、いい纏め方をしているなぁ、と思いながら聞いていました。元来仏教は、この移ろう世の中(諸行無常)で、どうしたら心を穏やかにすることが出来るのかを突き詰めた宗教です。その為のお釈迦様や歴代の祖師方が説かれたアドバイスがお経です。様々種類はありますが、基本的には私たち生きている人間に生き方を説いた物が中心なのです。ご法事は、亡くなった人へのお祈りの為の機会です。故人に喜んでもらえるようにお供え物を用意して、在りし日を想い冥福を祈る時間です。この法事の時にお経を読むのは、伝統的には読経の功徳を故人の冥福への祈りに巡らし向けるという言い方になるでしょう。生きている縁者が、身心を正しその功徳をお供えして向こうで見守ってくれている故人に喜んでもらおう、という物です。何が一番喜んでもらえるかと想うならば、それは生きている縁者がしっかり立派に生きている姿を見せてあげる以上のことは、おそらく無いのでしょうから。 -
令和2年11月 朝坐禅会「指月の会」案内
2020年11月22日直指人心 見性成仏お寺の社会における役割を、私は二つのことに分類しています。一つには布教、修行道場としてのお寺。お釈迦様に始まり歴代の祖師方によって伝えられた仏法を、受け継ぎ育んでまた伝えていくこと。自身と信仰する人によって実践される場で有ること。即ち布教と実践道場としてお寺が有ることです。二つには慰霊供養の場としてのお寺。家族友人近隣の人、亡くなられた近しい人を送り弔い祀るのに相応しい、葬式法要を行う場としてお寺が有ることです。この二つをキチンと行う事が、社会で果たすべき役割で有ると思っています。ある時県内の老師のお話を聞いていて「亡くなった人を仏さまとして導き、残された遺族が仏さまとしていただくことが出来るようにするのが葬式だ」という言葉が耳に残りました。その時は良く理解できませんでしたが、後日になってこれなのかと思える出来事がありました。2年ほど前の冬、私に大変良くしてくれていた近所のおじさんと親戚のおじさんが立て続けに亡くなられました。一月ほど何をするにも手につかず、鬱々とした日々を送っていました。ある日の行事を行っている中、ふいに「亡くしてしまった人を思い続けてもどうにもならない。それよりも今あるご縁を大切にしなくては」と思いを転換することが出来ました。でもご縁を大切にといってもどうしたらいいのか?それこそ私を大切にしてくれたお二人にしてもらったことを、そのまま人にしてあげたらいいではないか。そう思い、諸事心がけて臨んでいると、人に親切にしてあげようとする行為の中に故人との思い出が蘇り、寂しさが少しやわらいで、故人のことを身近に感じることが出来るように思えました。故人を仏としていただくというのはこういうことなのではないか、今はそのように思います。まだ上手く整理して話せていませんが、もっと上手に伝えられるよう精進したいです。それが私がお寺を守り伝える人として、求められはたすべき役割なのだと思っています。祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間6時半からの一座のみとなります。