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令和2年10月 朝坐禅会「指月の会」案内
2020年10月25日正定『八正道』先日テレビをつけましたらNHKBS放送で『海のシルクロード、ブッダと宝石』という番組が放送されていました。1980年代に撮影されたものの復刻放送のようです。もう40年近く前のスリランカが撮影されていて、海上交易で栄えた遺跡や宝石の採掘、食文化民族問題などが取り上げられていました。昔のフィルムですので今よりだいぶ画質は荒いのですが、今よりもなお魅力的に映っている様に感じ、昔の日本からの海外の見え方はだいぶ違ったのだろうと思えました。スリランカは仏教国ですからもちろん仏教寺院や仏教文化遺跡も大きく取り上げられていました。とある厳しい寺院に許可を得て撮影班が入れたとのことで、荒野の真っただ中に十数人の僧侶が起居する様子が撮られていました。昔からのあり方を厳格に守るその僧院では、入門を許された後は指導すらされることもなく、やるべき事は経典の暗記と托鉢、そして瞑想のみだそうです。近くの集落まで十数キロ歩き、功徳を積みたい信徒から供養を受けてお経を読み上げ、戻って経典を読みそして瞑想を行う、これが修行の全てです。お釈迦様の教えに八正道があります。苦しみから離れようとするならば、8つの行いを正しく心がけなさい。それが苦しみを滅する道である、と説かれました。この八正道の一つが正定、正しい集中の仕方、心の定め方。これこそが世界中の仏教徒が瞑想を行い、また私たちが坐禅を行う基であるのです。国は違えど文化は違えど、同じ仏教徒であり同じく仏道を歩んでいる。同じ釈子、お釈迦様の孫子たる遠い遠い親戚筋を見ているようで、私も励みとせねばなぁ、と励まされる心地で見ていました。祥雲寺副住職 安藤淳之 -
令和2年9月 朝坐禅会「指月の会」案内
2020年9月26日今年は彼岸花も咲くのが遅く、それでもお彼岸中日には花開いてくれました。
他は是吾にあらず 『典座教訓』我が宗祖道元禅師は数多くの言葉を残されており、その中でも世間に知られた言葉と思います。他の人にやってもらうのは自分がしたものではない。自らのことは自分で行う。ごく当たり前のことを言っていますが、その真意は仏道を歩む姿勢そのもののあらわれであると思います。禅師が中国に留学して学んでいた際、あるお寺であったエピソードです。暑い時文、真昼の太陽が照っている中、日差しを浴びながら庭で椎茸を干している老僧を見かけられ、「貴方のような年功を積み重ねた方がこのような雑事をしなくても若い者にでも任せればよいのでは」という趣旨の言葉をかけられて、それに対して老僧は「他人にやってもらったのでは自分でしたことにはならない(他は是吾にあらず)」と返されたそうです。自らが成すべき事を、行う。自らの本分を全うする。当たり前のことに聞こえますが、そこにやらない理由をつけてしまう事を、私たちは当たり前のように行っています。それは惑わしとなり、煩い悩ますものとなりうるものです。身分や長幼の序等に依らず、成すべき時に成すべき事を自らが成せるように行う。惑わされないことを身と心に習わせ慣らしていく、習慣づけていく。これこそが仏道の修行と呼ぶべきものです。心を耕すあり方そのものです。盲目的に義務を果たすロボットになれ、などと言っているのではありません。自らを惑わす怠け心に陥ってはいないか身心を常にチェックして、出来ることを出来るときにやらず何時行うのか、ハッパをかけるように自身を鼓舞し習慣づけていく。そうすることで自らを良く整えていく。自らのなすことのみが自らに帰結するのですから。祥雲寺副住職 安藤淳之28日の朝坐禅会も6時半からの一座のみとなります。 -
令和2年8月 朝坐禅会「指月の会」案内
2020年8月23日威儀即仏法8月になってから大変暑い日が続いています。加えて新型コロナへの対処から暑い最中でもマスクをつけなくてはならない場合も多く、より一層体調に厳しい夏となりました。先日人数を少なくしてのご供養の法要をお勤めしました。11時頃の気温が高い中大汗かきながら来られた方から「ネクタイってつけなければいけませんか?」との質問を受けました。私は「法事などで服装を整えるのは仏さまや亡くなられた人にしゃんとした姿で向き合う、礼をとる姿で臨むためですが、この暑い最中に服装に気を遣って体調を損なってしまうのは誰も望まないと思います。一番大切なのは臨むに当たっての心構えなのですから、今日は心のネクタイを締めるつもりで臨まれればよろしいと思います。」といった事をお答えしました。曹洞宗には威儀即仏法という言葉があります。日ごろの身なりや立ち居振る舞い一つ一つを整えることこそ心を整える大切な修行である、という意味になります。日々の行いの積み重ねが私という人間を形作っていく。ならば私を心穏やかな、落ち着いた整った人間にしようとするならば日々の行い一つ一つを整えていくことが必要となる。だからこそ私たち禅宗のお坊さんは一挙手一投足を厳しく整える修行生活を行うのです。ですが心を整える為に行う事が健康を損ねてしまうのは、本末転倒と言うしかありません。仏教の行事や教えは、常に心をどう整えるかが肝なのですから、肝心なところを踏まえているならば臨機応変で何も問題ないのです。「こうでなければならない」等という固定観念こそ、心を整える実践たる仏道を最も損なう思い込みであり、元来自由闊達である心を閉ざす檻となることを注意すべき処です。祥雲寺副住職 安藤淳之明日の朝坐禅会は本堂2階の広い空間で行います。 -
令和2年7月 朝坐禅会「指月の会」案内
2020年7月26日謹んで大衆に申す生死事大 無常迅速各々宜しく星醒すべし謹んで放逸なることなかれ僧堂で鳴らす板に書かれる警句私の坐禅の師、福井御誕生寺の板橋興宗禅師が7月5日に遷化されました。修行を終えても僧侶としてのあり方に迷っていた私に道を示して下さり、お膝元で2年ほど再度修行の機会をいただきました。禅師様には沢山のことを学びました。寂寥の思いは募れども、別れに際して思うのは上記の「無常迅速」でした。お釈迦様は2600年の昔、80年の人生を歩まれ、沢山の弟子に看取られる最後であったと言います。弟子達が惑うことの無いよう、これまで説いた教えを要約して語られ、そして最後は自らの死に様を示す無言の説法であったそうです。人は誰しもが死ぬ、死とはこういうものだ、だからこそ生きている今怠ること無く務め励み精進して修行を成しなさい、と。以来仏教徒の姿勢とはかくの如くで、上記の警句はそれを受けて中国で書かれ、今日も修行道場で心すべき警句として用いられています。禅師様は本当に様々な手本をお示し下さいました。その手本を、今度は自分がこの身で実践し、能うならば示していくべく務めていく番が巡ってきました。教えは人生に生かされてこそのもので、そして歴代の仏祖は実践の中で教えを伝えてきたのですから。禅師様の教えを実践する中に、仏と成られた禅師様の命がきっと息づいていることを私は信じています。祥雲寺副住職 安藤淳之明日の坐禅会は本堂二階、広い空間で間隔をあけての坐禅となります。 -
令和2年6月 朝坐禅会「指月の会」案内
2020年6月21日栴檀林に雑樹無し、鬱密森沈として獅子のみ住す。(香木の林に他の雑木が生えることの無いように、弁道精進の場には志ある人が集う)『証道歌』先日境内草木の手入れをしていたところ、お参りに来ていたアジア人の青年と立ち話をしました。県内在住でお寺へのお参りを時折されているとのことで、信仰している宗教は無いがお寺に来ると気持ちが落ち着くのだそうです。お寺も仏教も心を安らかに、落ち着けていくものなのだから機会があればどうぞいらして下さい、という趣旨の話をしたら「また菩薩さまに会いに来ます」といって帰られました。以前NHKの番組で題材にされていましたが、お寺の建物を表現する伽藍という言葉は「僧侶の修行する林」を現す言葉を原型としています。インドの時代僧侶は、誘惑の多い町中ではなく近郊の林を修行の地としていました。それは市中の俗塵世情から離れた惑わすもののない自然の環境こそ、心を落ち着ける最適の環境であると知っていたからでしょう。今日のお寺もまた、浮き世の波風から離れた心を落ち着けるに足る作りを伝統として踏襲しています。異国の青年との語らいは、私たち仏教徒の受け継ぎ育み伝えるものが人種や文化の垣根を越えて通じるもの、尊びうるものなのだと再確認させてくれました。或いは大げさな言い方なのかもしれませんが、ささやかなりとも古人はこうした出会いと導きを「観音様のお導き」と受け取っていたのでしょう。祥雲寺副住職 安藤淳之明日の坐禅会は風通しの良い広い堂内で短縮して行います。