正思惟 八正道
5月に引き続き、八正道2番目の正思惟をテーマにします。
先月の案内で八正道の説明を取り上げました。
世にある迷い悩み苦しみを滅する事の出来る術がある、それには八つの正しい行い、道を歩みなさいというものです。
私の大学時代の先生は、仏教とは業すなわち習慣の宗教と説かれていました。
ある講義で、こんな交通標語で説明をされていました。
「交通マナー、守るあなたが守られる」
交通マナーを守ることによって、道路で起こりうる交通事故から身を守ることが出来る。
守ろうとする意識や習慣が、様々な害からむしろ身を守ってくれるようになる。
仏教における戒、盗まない殺さない犯さないなどの、しないことを誓うのもこれと同じです。
悪いことをせず、良いことを心がけ、習慣としていく。
繰り返し身に付き習慣となったそれが、自ずと善きを選び悪しきから遠ざかる自分にしてくれる。
業、すなわち習慣の功徳こそ肝心と教わりました。
正思惟、正しい考え方。
正しいとは何であるのか。
先月仏教における正しいとは「中道」、極端によらず適正で中正な行為を模索し歩むことと書きました。
道の人、道を学ぶ者が実践してはならない二つの極端がある。
その二つとは何か。
一つはもろもろの欲望のままに快楽にふけり、下劣、野卑で、愚かな行いであり、高尚でなく、為にならないものである。
他は自ら身体を苛むことに耽り、苦しみであり、高尚でなく、為にならないものである。
人格を完成した人はこの両極端に近づかないで中道をはっきりさとった。
それは見る眼を生じ、理解を生じ、心の安らぎ、すぐれた智慧、正しいさとり、涅槃に向かうものである。
『相応部経典』
欲に流されず、さりとて無欲にこだわるのではない、物事を片側から見るのでなく、中心から、偏りのないところから見ようとする姿勢です。
偏りから、こだわりから離れた、つまり二辺から遠離した道を歩むことが中道です。
ではこの中道を踏まえた上で、正思惟ただしい考え方とは何であるのか。
我が曹洞宗の高祖道元禅師はこの古語を引用して正思惟を説かれました。
「不思量をどのようにして思量する? 非思量」
意訳するならば 考えるのでないことをどのように考えるか?答えは考えないことだ。
頭で考えようとすると難解この上ない文ですが、坐禅をしてみるとそのまますとんと腑に落ちます。
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。
これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?