ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

永平寺 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

永平寺

  • 令和七年十月 朝坐禅会「指月の会」案内(10月27日朝6時半より)

    2025年10月26日

    福井の大本山永平寺山門。修行者はここをくぐって修行に臨む

     

    独存無倚(どくそんむい)、脱落(だつらく)全(ぜん)真(しん)。

    混然として万象の中に明歴歴たり、卓爾として不疑の地に活鱍鱍たり。

    『永平広録』道元禅師

     

     先日、修行仲間と勉強会仲間の晋山結制無事円成を聞き、嬉しく思っています。

    晋山結制はお寺の一世一代の大行事、全身全霊で勤めるものですから、さぞ疲れたことと思います。

    しっかり休んで体を労ってほしいものです。

     

     思い返せば私も二年前の11月、祥雲寺二十九代目住職として代替わりのお披露目式、晋山結制を修行しました。

    寺院の住職は就任に当たっての着任お披露目として晋山式を行うもので、これは殆どの宗派で共通しています。

    曹洞宗の場合、この晋山式に結制という修行会を併せて行うのが一般的です。

    結制は一山の住職として十分な力量を備えているかを証明する為本尊様を祀る須弥壇に登り、参集した僧侶の問答に答えて見せ法を説き示す、衆目に試される上堂という式を行います。

    上記の文章は、我が宗祖道元禅師が上堂の際に説いた記録集から引いた一文です。

    私の上堂の問答終わっての法の説示、堤綱の際に冒頭に引用しました。

    仏法を会得したものは何ものにも依存せず、一切の執われを脱して完全に真実である

    かれは、あらゆるものと渾然と一つでありながら、ものとははっきり別であり、しっかりと揺るぎない境地に立ちながら、生き生きと動いている

    その後はこんな内容を続けました。

    私、淳之は出家する覚悟も覚束ない乍ら、家業を継がねばならないというおもいのままに大本山永平寺に修行に飛び込み、12月の大修行、蝋八大摂心の大業の中で「ほとけごころ」に見えることが出来た。

    仏の道を歩み修行する仏道というものは「ほとけごころ」に生きることであると納得出来た。

    「ほとけごころ」とは坐禅を中心とした日常底の精進、雑念の無い生き方にあるものだと悟ることが出来た。

    「ほとけごころ」とは如何なるものであるのか。

    私の坐禅の師匠、福井の板橋禅師はこのように説かれた。

    「偏らない心、拘りない心、囚われない心、広く広くもっとひろく、これがお釈迦様の心なり」

     

     ほとけごころに見える、というのは私なりの表現です。

    弘法大師空海も唯一度、「明星来影す」と神秘的な表現で大悟を示した事になぞらえてみました。

    蝋八大摂心、1週間の坐禅修行の中で、どんな人であっても仏様の様にありがたい姿で、仏様の様な心に生きる事が出来るのだと目の当たりに知ることが出来ました。

    自分というものにあまり拘らない、「私」の都合に繋縛されない禅の生き方は、ほとけごころに生きるという安心をもたらしてくれるものなのだとはっきりと理解できました。

    これが、私のお坊さんとして生きる根っこです。

    この法を社会に生きる人々の苦難に活かしてもらいたい、それが私のライフワークです。

     

    祥雲寺 安藤淳之

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。
    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は11月24日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和7年7月 朝坐禅会「指月の会」案内(7月28日朝6時半より)

    2025年7月27日

    慕古真心 不離叢林            『宮崎禅師遺偈』

     今月上旬、群馬の高崎で行われた青山俊董老師講演会に行ってきました。

    青山老師は尼僧として愛知尼僧堂堂長を務め、また大本山永平寺西堂という重責も担っている生粋の禅僧です。

    師家として、世俗に混じることなく仏道を行じてこられた老師の透徹した説法は、日々の檀務や雑務に忙殺されている私を叱り励ましてくれるような、正に叱咤激励をいただいた様な機会でした。

    老師曰く、自分には二人、師と仰いできた人が居るとのことです。

    昭和の禅僧、澤木興道老師と内山興正老師のお二人で、どちらもご縁と心当たりのある方です。

    今回はこのお二人を紹介したいと思います。

     

    澤木老師は明治生まれの禅僧で、清住通りの桂林寺で坐禅会を開き、

    祥雲寺の先々代である私の祖父安藤裕之も参学していた方です。

    お寺の住職として定住すること無く、本来無一物を実践され、宿無し興道とも呼ばれたそうです。

    配布された冊子の方で澤木老師の言葉を紹介されていました。

     「仏法がこの頃は傍観者の観念の遊戯となってしまった。

      立ち見席で『何年にお釈迦さんが出てこういった』と、ことづけ仏法になってしまった。

      先祖がいくら偉くたって、友人がいくら偉くたって、皆よそごと。

      自分はどうじゃ。先祖の講釈。仏教の効能書きをいっているのを分別という。

      効能書きをいくら読んでも、病気はなおらん」

    とても耳に痛い言葉です。

    私自身法話を考える時、お釈迦様はこう言った道元禅師はこうされた、等と言葉を引くと同時に、お偉い存在の権威を借りて後ろ盾を得たような気持ちになるからです。

    しかし仏教は哲学ではありません。

    観念を深掘りするばかりでなく、無常の道理、縁起という真理に即して生きる実践を重んじます。

    答えを考えるのでは無く答えに生きるのが仏道を歩む禅僧である。

    怠らず励みなさいと響いてくるような、古くとも色あせることの無い箴言です。

    もうお一人、内山興正老師は大正生まれの澤木老師のお弟子で、以前お話ししたドイツ人の禅僧ネルケ無方師の修行した兵庫安泰寺の住職です。

    内山老師については、以前戒名を考えるにあたり証道歌の「仏性の戒珠心地に印す」というお経の言葉を調べているときに老師のお言葉に出会いました。

     「『正法眼蔵随聞記』にも「坐禅は自己の正体なり」という言葉がある。自己の正体とは正気の沙汰ということです。坐禅することがそのまま仏さまになることだというのは,坐禅することでのぼせが下がって正気の沙汰になるからです。だから何度も言うように坐禅しながら考えごとをするのは駄目です。これが一番いけない。この癖をつけたらもう救われようがない。むしろ坐禅して眠るほうがまだ罪が薄いのです。坐禅というのは,うっかりすると居眠りができるほど解放されて,しかもはっきり覚めているということが大切です。この覚めて生き生きしているのが仏性で,そういうのぼせの下がった生命になることを「受戒」という。」

    常日頃、坐禅に感じているところをハッキリと言葉にして頂いた様な表現です。

    学びと実践、それらが深いからこそ、自らの掘り下げと経典の説く真理が違える事なく言葉となるのでしょう。

    素晴らしい先達が沢山の宝の様な輝く言葉の道しるべを残してくれている。

    祖父が遺したお二人の本を、今年の課題図書にしたいと思っています。

     

    祥雲寺 安藤淳之

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。
    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は8月25日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和6年11月 朝坐禅会「指月の会」案内(11月25日朝6時半より)

    2024年11月24日

    三井寺観音堂でのお参り

    朝念観世音 暮念観世音

    念念従心起 念念不離心               「延命十句観音経」

     

     西国観音巡礼にいってきました。

    祥雲寺には西国観音のお砂踏みがあります。

    先々代住職、私の祖父が観音信仰に篤い人で、遠い西国に行かなくても檀家信徒が西国札所観音様の御利益に与れるように整備をし、以来毎月18日の朝には一時間ほどのプチ巡礼会として観音朝詣りを行っています。

    また札所巡礼も積極的に行い、西国板東秩父お遍路と、何度も参拝旅行を行ってきました。

    この度久しぶりに西国札所を巡る企画をスタートさせました。

    今秋で京都市外の京都滋賀奈良の札所を巡り、来春以降で一番から巡る予定です。

     

     観音菩薩は仏様の慈悲の心を体現された菩薩様です。

    表に表せない心の声を聞き届け、また様々な願いに応じてくださる方としても信仰されています。

    今回私自身奈良の興福寺国宝館で、国宝の千手観音菩薩を参加者に説明する時、

    「千手観音さんの沢山の手はみんな違う形をして違う法具を携えておられる。人は皆違っていてそれぞれの悩みを抱えている、そのそれぞれに適して応じる事が出来る様にと文字通り手を尽くしている様を表しているのが観音様の千手なのでしょう」

    といった言葉を用いました。

    また今回参考にした資料に瀬戸内寂聴さんの文章がありました。

    「(観音霊場の)三十三という数字は観世音は三十三身に化身して我々衆生を救けて下さるという御利益にちなんでいる。三十三という数字は、仏教では無限を意味する。あらゆる場所であらゆる苦難の時、一心に観世音を祈れば、観音は直ちに光のような速さで祈願者の前に出現して、救助して下さるというのである。そのお姿は観世音の形ではなく、祈願者がその時、最も必要としている姿に化身して現れて下さる。病人の前には名医となって現れるように。」

    私には今年に入って二度、身に覚えがあります。

    夏の頃打合せの不備から法要の迎えが来なくて慌てて運転して行き、腹立たしい気持ちを抑えようとしながら始まりの鐘を鳴らしていると、仏と成った故人に諭されました。

    「怒るのは自分を傷つけ損なわれたと思うからだが、無我を説く僧侶の身であり、自意識に囚われないことが安楽の道だと腹落ちした者が、他人の過失によって一体何を損なわれたというのか」

    腹立たしさはキレイに無くなり、かつて無く静かな心持ちでお勤めに臨めました。

    また秋の頃には、立て続けの檀務と行事で疲労した状態で余所のお施餓鬼に随喜しましたが、お経を読んでいたら壁側の聖僧さまに親しくしてくれた先代老師がかぶり、「喝」を入れてくれました。

     

     これらは単なる見間違いやこじつけ、自分の心理無意識がその場に必要な解を場の主役的な人の影絵で伝えてきた、等と理屈を付けることは出来るのでしょう。

    ですが宗教者としては、それこそ観音様のお導きだったと受け取ってもよいのではないかと思うのです。

    亡くなり失われた人とも、没後も面と迎える時もある。

    ご縁を続けていけることもある。

    迷いの多い凡愚の身なればこそ、仏の救いの手は大きくあたたかくさしのべられる。

    観音霊場のかむさびた厳かな佇まいは、そういうものだと私達に語りかけてくれるようでした。

     

    祥雲寺 安藤淳之

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は12月23日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和6年4月 朝坐禅会「指月の会」案内(4月22日月曜朝6時半より)

    2024年4月20日


    本堂裏手新規墓地に咲く桜

    入鄽(にってん)垂手(すいしゅ)                 「十牛図」

     

     遂に私も骨董趣味に手を出しそうになりました。

    なんでも鑑定団に出てる趣味人の「ついついと~」をもう笑えませんね。

     

     デパートの催事に出ていた骨董屋が十牛図の茶碗を出していました。

    私は

    「買ったとしても何に使うのか?」

    「祖父の遺品で興味の薄い掛け軸や茶碗が押し入れ一杯に山になってるのに」

    「文人趣味に耽溺するのはほどほどにするべき」

    と煩悶して二時間行ったり来たりしてましたが、

    「話の種にすればいいじゃないか」

    と自分を納得させ売り場に行ってみれば買われて無くなっていました。

    良かったのやら悪かったのやら。

     

     十牛図というのは中国の禅僧が描いた、悟りに到ろうとする10の段階を示したものです。

    曹洞宗ではあまり用いられるものではなく、私は京極夏彦の『鉄鼠の檻』を読んで初めて知りました。

    悟りを牛に見立て、それを男が追い求める処から始まります。

    1枚目から6枚目で牛を求め、辿り、見つけ、捕まえ、ならし、連れ帰る。

    ここからが中々説明の付かないものですが、

    7枚目では牛を捕まえてきたことを忘れて、牛も忘れ去られる。

    8枚目では円相が描かれるのみとなり、ただ円かなるばかり。

    9枚目では無何有の山河が描かれ、全てはあるがままに美しい。

    10枚目では布袋様の様に福々しくなった男がまろやかな笑顔で人と接している。

     

     駒澤大学の先生は悟りによって問題が解決され問題意識そのものが無くなってしまったから牛は消え失せていると説明されていました。

    相対分別から脱け落ちてみれば全てはあるがままにまどかにある。

    作為も無く、有るべくして有るものは、ただそのままに素晴らしい。

    私は十枚目、入鄽垂手の絵を見る度に、我が坐禅の師、板橋禅師を思い出します。

    板橋禅師は出家し修行に励まれ、納得を得られた後福井の一寺院の住職になられました。

    しかし一人でいては怠け心が出てしまって修行にならないと、再び修行道場に戻られたのです。

    本山で指導役に任じられ、長じて禅師にまでなられましたが、

    本山の住職を退いても修行を離れることは無く、福井に御誕生寺を建立されて終生若い修行僧と共に修行生活に生きられました。

    ある先輩が禅師様を三毒、人を悩み惑わす煩悩、貪り怒り愚かしさから離れた人だと言っていたことがあります。

    禅師様は修行に臨む姿勢、その生涯その笑顔で、私に多くのことを教えてくださいました。

     

     茶器は他の手に渡りましたが、お示しは記憶と朝の座禅の習慣に生きています。

    スナフキンのように、物を持たない方が肩は軽いとうそぶくのも時には良いものでしょう。

     

                     祥雲寺 安藤淳之

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は5月27日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています

     

  • 令和6年1月 朝坐禅会「指月の会」案内(1月22日朝6時半より)

    2024年1月21日

    11月結制の際の行列出立処。檀家の代表を勤めて頂きました。

    いっさいの怨みを棄てよ。

    今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。

    棄てれば、必ず軽くなる。                 『スッタニパータ』

     

     先日ある方のお宅にお伺いしたとき、引きこもりになっている息子さんと少しお話をしました。

    曰く、職場でいじめに近い扱いを受け、疲れてしまったのだと。

    親御さんも当然心配されているので、どうにかならないかという期待の籠もった視線が感じられました。

    私も東日本大震災でボランティアをしていた時等で傾聴活動の為避難所を廻ったりしていました。

    お坊さんだからこその安心感をもって貰いやすいからとの要望が複数あったものです。

    その時にまとめ役の方からよく言われたのが

    「君たちが問題を解決しようとするものではない。

     私たちがやるのはお話に真摯に耳を傾けること。

     誰かに話したい、聞いて欲しい、そうした要望に丁寧に寄り添うことだ。

     社会的な物は別にして、個人的ななやみや問題は結局は当人にしか解決は出来ない。

     私たちに出来るのは自分で問題に向き合えるようにアシストすることなんだ」

    今でも良く憶えています。

     

     お話をご家族から聞く中で、お母さんから心に抱えてしまう物をどうやり過ごすのか、何か秘訣はないかと聞かれました。

    若干悩んでしまう問いです。容易に答えられる物ではありません。

    昔ある席で20年経っても怨みは無くならない、骨になって墓に入るまで消え去らない、と吐露されたこともありました。

    それでも、胸に抱えた怒りや怨みは沢山の物を損なってゆきます。

    抱えている限り、思いに焼かれて疲れてしまいます。

    上記の言葉は、お釈迦様がスッタニパータという経典で説かれている言葉です。

    お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。

    誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、

    誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、

    という思いを抱いてはいないか。

    その思いがすでに怨みであると知りなさい。

    怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。

    いっさいの怨みを棄てよ。

    今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。

    棄てれば、必ず軽くなる。

    棄てて、かろやかに生きなさい。

    どう捨てるのか、捨てる手法として、個人的には趣味の山歩きかサイクリングがありますが、お坊さんとしてお勧めするのはやはり坐禅です。

    坐禅は、身を正し呼吸を正す、それだけに集中し没入していると、波風経っていた自分がいつしか正されて静かになっていきます。何もしない何も考えないことに没頭するのです。

    私は坐禅は様々抱えてしまう物から自由になるものだと思っています。

    今回の事はどうなるか解りませんが、機会が合えば、一緒に坐りませんかとお誘いしたいです。

                                祥雲寺 安藤淳之

     

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は2月26日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています

     

祥雲寺行事案内

祥雲寺で行ってる月例行事や年間行事、その他法要・祭りなどについてのご案内です。 行事カレンダーもご確認ください。