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令和3年9月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年9月26日正命 八正道5月に引き続き、八正道5番目の正命をテーマにします。5月の案内で八正道の説明を取り上げました。世に生きる迷い悩み苦しみを滅する事の出来る術がある、それには八つの正しい行い、道を歩みなさいというものです。私の大学時代の先生は、仏教とは業すなわち習慣の宗教と説かれていました。ある講義で、こんな交通標語で説明をされていました。「交通マナー、守るあなたが守られる」交通マナーを守ることによって、道路で起こりうる交通事故から身を守ることが出来る。守ろうとする意識や習慣が、様々な害からむしろ身を守ってくれるようになる。仏教における戒、盗まない殺さない犯さないなどの、しないことを誓うのもこれと同じです。悪いことをせず、良いことを心がけ、習慣としていく。繰り返し身に付き習慣となったそれが、自ずと善きを選び悪しきから遠ざかる自分にしてくれる。業、すなわち習慣の功徳こそ肝心と教わりました。今回の正命とは、正しい生活、と現代語訳されます。辞書によると「正しい生活とは、身口意の三業を清浄にして正しい理法にしたがって生活する」三業、人と接する私たちの行い。身(行為)は人を苦しめ、口(言葉)は人を傷つけ、意(思い)は人を欺く。慎もうとしても容易に行いきれるものではありません。難しいからこそ、これらは日々の実践によって清めていくしかありません。我が宗祖道元禅師は、仏祖に参学することこそ正命と示されました。私にとって習うべき仏祖とは、やはり福井の板橋禅師以上の方は居ません。生涯を修行僧としてあるべく修行道場を手ずから建てられた禅師様に習おうとしても到らない点は多くありますが、学びまねて、少しずつ近づいていきたいと願います。それが自身を清め、そして周囲の人々をも幸せに出来る道であると信じています。偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は10月25日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。 -
令和三年9月 観音朝詣り
2021年9月18日希望を持つことは素晴らしいことです。人生には辛いこと、苦しいことばかりの時もあります。そんな時、希望は私たちを支えてくれます。心を奮い立たせ、現実の苦しい一日を頑張らせてくれます。30半ばにして悪性腫瘍のため亡くなられた女性がいます。料理が好きで、調理師を目指して高校の調理課に進学しました。熱意を持って勉強したのでしょう、在学中に県の料理コンテストに入賞しました。卒業して東京の一流ホテルの調理部門に就職しました。子供の時の夢は実現しようとしていました 。5、6年過ぎて体調が悪くなりました。悪性腫瘍に冒されていたのです。苦しい治療の日々を過ごさなければならなくなりました。長い入院、抗癌剤の投与。快方に向かったと思われる時には調理関係の仕事をしながら治療に努めました。しかし病魔は次第に体を蝕み10年余りの闘病を終えることになりました。余命幾ばくも無いことが明らかで、緩和ケア病棟に入ることになったときも、治って調理師の仕事に就くことを希望として抱いて、抗癌剤の治療を望んでいたということです。家族も、回復の見込みがないことを知らせることなく、彼女の夢を共に語りあいました。彼女にとって生きることは希望を持ち続けることでした。懸命に生きようとする人に、死病を現実として諦めを説くことなど何の意味も持ちません。彼女の一生は、世間的な意味での幸せな人生ではありませんでした。しかしどうすることもできない現実の中で、おのれの命を生ききった確かさがあります。悲しいけれどズシリと重みのある人生です。家族の愛情をいっぱいに受けて育った彼女には天性の明るさがありました。人生で出会う人出会う人に爽やかな印象を残したのでしょう。お葬式にはたくさんの友達が悲しみを共にしていました。令和3年9月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之 -
9月の行事予定
2021年8月31日9月の諸行事 ご興味の方は電話にてお問い合わせ下さい。■雀宮善應院坐禅会(第四水曜日のみお休み)宇都宮南町1番36号「善應院」にて毎週水曜日(第四以外)夜6時から行っている坐禅会です。9月1日、8日、15日、29日■月例坐禅会「指月の会」祥雲寺本堂にて毎月第四月曜朝6時半から行っている坐禅会です。9月27日■テラヨガ(ヨガ教室)この春からの新企画。阿久津先生指導の下第一第三金曜日午前10時半から行っています。(今月は第三第五)9月3日、17日新たに初心者クラスを設けました。第二第四金曜日午前10時半から行います。9月10日、24日■陶芸教室「祥陶会」駐車場下の作陶場にて毎週火、木午後1時から行っています。第三週から開催■石彫会「羅漢の会」毎週土曜午後、駐車場作事場にて石仏の彫刻を行っています。指導は松原「金野石材店」平常開催■茶道教室月二回火曜日午後2時から、裏千家鈴木宗陽先生のご指導の下行っています。9月14日、28日■写経会写経会は5月から11月、第二日曜日午後2時から行っています。9月12日午後2時 本堂一階■御詠歌祥雲寺住職、並びに栃木市豊栖院飯塚先生の指導の下月2回行っています。9月3日1時半~3時半 長岡公民館9月14日10時~12時 祥雲寺9月28日10時~12時 飯塚先生指導■フラワーアレンジメント教室南宇都宮駅前「フラワー花亀」亀井先生指導の下第四水曜日午後1時半より行っています。今月は第5週水曜日■折り紙教室カルチャースクール講師長谷川京子先生指導のもと第3水曜日午前10時よりより行っています。9月15日■クラフトペーパー教室同じくカルチャースクール講師長谷川先生指導のもと第2月曜日午前10時より行っています。9月13日■観音朝詣り境内33観音霊場を18日朝にお参りするミニ巡礼会です。開始時間は季節により前後します。今月は午前 6 時から -
令和3年8月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年8月22日正業 八正道5月に引き続き、八正道4番目の正業をテーマにします。5月の案内で八正道の説明を取り上げました。世に生きる迷い悩み苦しみを滅する事の出来る術がある、それには八つの正しい行い、道を歩みなさいというものです。私の大学時代の先生は、仏教とは業すなわち習慣の宗教と説かれていました。ある講義で、こんな交通標語で説明をされていました。「交通マナー、守るあなたが守られる」交通マナーを守ることによって、道路で起こりうる交通事故から身を守ることが出来る。守ろうとする意識や習慣が、様々な害からむしろ身を守ってくれるようになる。仏教における戒、盗まない殺さない犯さないなどの、しないことを誓うのもこれと同じです。悪いことをせず、良いことを心がけ、習慣としていく。繰り返し身に付き習慣となったそれが、自ずと善きを選び悪しきから遠ざかる自分にしてくれる。業、すなわち習慣の功徳こそ肝心と教わりました。正業、正しい行い、行為。正しい行為の実践とは何であるのか。先月仏教における正しいとは「中道」、極端によらず適正で中正な行為を模索し歩むことと書きました。欲に流されず、さりとて無欲にこだわるのではない、物事を片側から見るのでなく、中心から、偏りのないところから見ようとする姿勢です。偏りから、こだわりから離れた、つまり二辺から遠離した道を歩むことが中道です。ではこの中道を踏まえた上で、正業正しい行為とは何であるのか。我が曹洞宗の高祖道元禅師は著書『正法眼蔵』の中でこの言葉で正業を説かれています。「正業とは出家修道なり」お釈迦様の説かれた法を、生きる中に活かす形にしたものが修行生活です。どのように生きれば良いのかを、歴代の祖師方が示してくれています。だから正しい行為とは、これまで道を人生で示してくれた先達に習うこと、と説かれた言葉です。言葉に表すのは容易くても、これは中々その通りに出来るものではありません。なので私は、先月と同じような物言いになりますが、これまで出会ってきた見倣いたい人たちの見倣いたいところを出来る範囲でまねるようにしています。修業時代、永平寺の宮崎禅師様は「まなぶということはまねるということだ」とお示しくださいました。ご縁を頂いた素晴らしい、凄い、素敵な方達の行為をまねてまねて、それを続けられたならやがては自分もそこに近づけることを願って、精進を続けています。今は意識して行っていることでも、積み重なって習慣となって、何れは仰ぎ見てきた人たちと同じく成ることが出来る様に、励んでいます。偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?
祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は9月27日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和三年8月 観音朝詣り
2021年8月18日お釈迦様の涅槃を伝えるのが涅槃経です。最後の旅に出られたお釈迦様が、付き従ったアーナンダに「(私の入滅の後は)法を灯とし、自らを灯として生きよ」と諭(さと)されたことは「法灯明、自灯明」と言われて伝えられました。この言葉は仏教の本質を表した重要なものです。お釈迦様は紀元前5世紀から4世紀にかけて北インドにおわした方です。その方を仏教徒は、悟られた方、仏陀と信じ、その教えを、悟りの世界からの導き、「法(ダルマ)」として頂いているのです。これが法灯明です。法はどのような時代にも、環境にも、変わらない普遍的な真理です。しかしこの法を全ての人が間違いなく知ることができるのでしょうか。教えを受け取る側の問題があります。どのような人間も、時代・環境に制約されています。生まれも違う。言葉も違う。物事を考える筋道も違う。いかに普遍的な教えでも、それが説かれる時代、環境に沿うものでなければ人の心に届きません。お釈迦様が言葉にされた教えも、それが人々を救おうとして発せられたものである以上、時代、環境の制約を受けているのです。お釈迦様はこれについて「私の教え(法)があなたたちを縛るものであるなら、我が法を捨てよ」とおっしゃられました(筏イカダのたとえ)。自らの教えを相対化することであり、一般的な宗教ではあり得ない言葉です。法が捨てられたらどうなるか。信者、修行者が自ら道を求めるしかありません。時代も環境も言葉も違っているのですから、それに適って腑に落ちていく仏さまの教えを創造していくしかありません。これが自らを灯とする自灯明です。大本がなければ迷いの道に入ってしまいますから、常に法に問いかけ、照らし合わせて、仏道に精進するのが仏教徒のあり方です。私は法灯明は信仰を、自灯明は修行を示すと思っています。令和3年8月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之