ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

座禅会 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

座禅会の記事

  • 令和4年3月28日 朝坐禅会「指月の会」案内

    2022年3月27日

    例年より大分遅れたしだれ桜の開花も、今日の暖かさで一気に五分咲きくらいまで進みました。

    例年より一週間以上開花が遅れました。

     

    「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ、災難を逃るる妙法にて候」

    知人にあてた良寛の手紙より

     

     何年か前ですが、3月11日東日本大震災慰霊の日に合わせて、テレビで災害特集が行われ、その中でキャスターが

    「私たちに豊かな恵みをもたらしてくれるはずの自然が、なぜこのような災害をもたらしたのでしょうか」

    と言っていたことがありました。

    日本人の自然観はここまで変化していたのか、と思いながら聞いていました。

     

     日本は四季の彩りがはっきり現れる、惠み多く美しい国だといわれています。

    それは裏を返せば気候の変化が大きく、その分苛酷に人々を苛むことがあります。

    地震が多い国であることは言うまでもありません。

    天変地異、災害の多い国で生きる私たち日本人は、災害を協力して生き残るべく淘汰され、「和」という精神を大切にしてきました。

    そしてそんな私たちだからこそ、自然は恵みをもたらすばかりではなく災いをもたらす面もあるのだと、畏れ敬う和魂荒魂という自然崇拝としての神道が育まれたと思います。

     

     自然は思い通りにならないもの、制御できないものと、私たちは長い時をかけて自然との付き合いを覚えてきたはずです。

    自然から遠ざかった都市の内側から見る世界観は、私には些かいびつに思えます。

    それは自然を征服したという人間の驕りや、自分たちのものにしたという執着から生まれてくる考えのように感じられます。

     

    江戸時代の禅僧、良寛さんの残した言葉に上記のものがあります。

    これは注意深く読み取らなくてはならない言葉です。

    災害への遭遇も老病死に会うことも、殆ど不可避のもの。

    それを思い煩い、危ぶみ悩み悔やんでばかりならば心が疲れてしまう。

    不可避の事態なら、「そういうこともある」と腹をくくることも時として必要になる。

    無手無策でいろと言うのではなく、都度あることなのだと真摯に臨む腹積もりを持つ。

    腹を決めて臨むことが、結局は災難に心がとらわれない対処法なのだ。

    私にはそんな風に説いているように感じます。

     

     

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之
    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    次回は4月25日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和4年2月28日 朝坐禅会「指月の会」案内

    2022年2月26日

    2月13日 涅槃会坐禅会(縮小)

    オミクロン第六波の為来られた方のみで修行しました。

     

    お前たちは「もう我らの師はおられない」と考えてはならない。

    私の説いた法と私の定めた律こそが、私亡き後の師である。

    『涅槃経』

     

    2月はお釈迦様の亡くなられた月です。

    15日が命日なので、1日から涅槃図という釈尊入滅の軸を掲げ、前日14日まで遺言のお経を読んでお勤めをしています。

    上記の言葉はお釈迦様が亡くなる前の最後の旅を描いた『涅槃経』の一節になります。

    多くの仏教徒に同じく、私にとっても導きとなった大切な言葉です。

     

    私の法話の師匠に

    「葬式で導師は故人を仏さまとして導く。

    そして遺族に、故人を仏さまとして自らの人生の師として頂いてもらう。

    それが導師のなすべきことである」

    といった大意のお話を頂戴したことがあります。

     

    叔父を亡くした時近所の近しい方を亡くした時、お二人に良くしてもらったように人に良く接して、ご縁を大切にしなくてはと、思いが切り替わった時がありました。

    そうして親切にしようと努めるとき、そこかしこにお二人に良くしてもらった思い出がよみがえり、寂しさが少し薄れた経験があります。

    故人を仏さまとして、自らの人生の導き手として頂くというのはこういうことなのかと思いました。

     

    お葬式の翌日、初七日の際には私はこの話をしています。

    多くの方は近しい人を亡くされた後は、それまであったネガティブな想いが薄らいで、よかった思い出ばかりが浮かんでくるようになるそうです。

    対立する相手がいなくなって反発する想いが行き場を失い、見えていなかったものが見えるようになるからです。

    遺族の方が知る、故人の良かった所素晴らしかった所良くしてくれた事、可能ならばそれらをどうか心がけてあげてください。

    それらが行われるとき、行いの中に仏となられた故人がよみがえります。

    良いことをして幸せの種をまき、善行の導き手として師として仏となった故人を自分の人生に生かす。

    これが忌中の間心がけるべきこと、追善供養となるのです。

     

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之
    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    次回は3月28日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和4年1月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2022年1月23日

    本堂内陣。

    釈迦という いたづらものが世にいでて おおくの人をまよわするかな
     上記の道歌を書かれたのは有名な一休さんです。
    正しい名前は一休宗純和尚。
    とんちの一休さんとして知られた方ですが、高貴の出身で大寺院で修行に専心し、後にこれまでの経歴を放棄して道を模索し、遂には大悟徹底され風狂禅ともいわれる独自の道を確立して多くの人に親しまれ又尊敬された方です。
     上記の道歌は一休さんらしい、諧謔味のある言葉です。
    お釈迦様が世に生まれ心の平穏と悟りという境地を説かれた。
    だからこそ後の世の人でもそれを目指すことができるが、
    目指すが故にこそ迷う人も現れる。
    時にそれを高邁なる売り物として人を自分を騙すことすらも起こりうる。
    当時一休禅師が厳しく批判した、仏教の権威や形骸化・伝統化を戒められた簡潔に伝わりやすい表現の一つとして、私も自分への警句として折々思い出しています。
     こうした禅僧の固定観念の打破、権威の否定を記した言葉は決して珍しいものではありません。
    道元禅師のお師匠、如浄禅師もまた住職就任時仏殿で述べられた法語で、金色の姿は尊いがご高説はまっぴらです、と本尊に向かって物申す姿勢が残されています。
    何が悟りであるのか。
    本当に安心解脱を求めるならば、正しい道を歩む癖を身に着け、同時にその正しさに囚われない姿勢を持つ必要がある。
    多くの仏祖先達の伝える言葉は、そのように自らを戒める言葉であるのだと私は思います。
     そのようにして目指すところはどこであるのか。
    その一例、表現となるでしょうか、
    私の坐禅の師匠、板橋禅師の御誕生寺では参拝者へのご祈祷の最後はこの言葉で結んでいます。
    「偏らない心 拘らない心 囚われない心 広く広くもっと広く これがお釈迦様の心なり」

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?

     

                祥雲寺副住職 安藤淳之
    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    次回は2月28日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和3年12月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2021年12月26日

    12月7日蝋八摂心坐禅会。

    正定 八正道

     

     5月に引き続き、八正道8番目の正念をテーマにします。

    5月の案内で八正道の説明を取り上げました。

    世に生きる迷い悩み苦しみを滅する事の出来る術がある、それには八つの正しい行い、道を歩みなさいというものです。

    私の大学時代の先生は、仏教とは業すなわち習慣の宗教と説かれていました。

    ある講義で、こんな交通標語で説明をされていました。

    「交通マナー、守るあなたが守られる」

    交通マナーを守ることによって、道路で起こりうる交通事故から身を遠ざけてくれる。

    守ろうとする意識や習慣が、様々な害からむしろ身を守ってくれるようになる。

    仏教における戒、盗まない殺さない犯さないなどの、しないことを誓うのもこれと同じです。

    悪いことをせず、良いことを心がけ、習慣としていく。

    繰り返し身に付き習慣となったそれが、自ずと善きを選び悪しきから遠ざかる自分にしてくれる。

    業、すなわち習慣の功徳こそ肝心と教わりました。

     

     今回の正定とは、我執を離れて心が平静になることと訳されます。

    この実現のためには心を静めること(止)が勧められ、これは真理を明らかに観ること(観)です。

    坐禅はこの止と観を行う修行と言われます。

    妄念を静めありのままに観ることが出来る自分へと整える。

    例えば波立つ水面では映る対象も乱れたものですが、

    静かな湖面なら山も月もありのままに美しく映えるように。

     

     坐禅の時に感じられる静けさ、清々しさというのはここからくるのでしょう。

    先日亡くなられた瀬戸内寂聴師。

    私はお話を聞く機会にはついぞ恵まれませんでしたが、以前から師は大変素晴らしいお名前だなぁと思っていたものです。

    寂、しずか、しずけさを聴く。

    それは外界からの音のみならず内から生まれる雑念が止み静まった心地の表現なのでしょう。

    人生の悩みから出家を志された師に送られるに素晴らしい表現があったものだ、といまでも感心します。

    坐禅とは、このようなしずけさを聴く時間、と私は表現したいです。

    仏教とは仏道とは、このしずかな心地で人生を歩もうとする事であると思っています。

     

     偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?

     

                祥雲寺副住職 安藤淳之
    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    次回は1月24日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 祥雲寺蝋八摂心坐禅会の案内(再掲載 12月7日夜6時より

    2021年12月4日

    祥雲寺蝋八摂心坐禅会のご案内

    12月8日はお釈迦様が悟りを開かれた日です。

    仏典では、1日から菩提樹の下で1週間坐禅を続け、8日目の朝明けの明星と共に成道されたと伝えられています。

    禅寺ではこれにならい、この時期に摂心という特別な坐禅を行ってきました。

    この度、1日のみですが夜に坐禅会を修行します。

    興味を持たれた方はどうぞお問い合わせください。

     

    時間:12月7日(火)夜6時から8時半まで

               18時 開場(初めての人への坐禅指導は15分より)

               18時30分 ~  19時10分 坐禅

               19時20分 ~  19時40分 法話

               19時50分 ~  20時30分 坐禅

    場所:祥雲寺 本堂二階

    申込:電話(028-622-5719)もしくは祥雲寺庫裡にて 

    費用:参加料一千円(当日受付にてお支払いください)

    疫禍の最中での修行となります。感染状況に応じて中止の場合もあることをご了承ください。

祥雲寺行事案内

祥雲寺で行ってる月例行事や年間行事、その他法要・祭りなどについてのご案内です。 行事カレンダーもご確認ください。