ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

朝まいり 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

朝まいりの記事

  • 9月 朝詣りのお知らせ

    2025年9月17日

    去年の秋彼岸時写真。

     連日日本各地の40度超えが報じられた夏でした。

    猛暑はまだ続いています。

    日本の最高気温は、長らく山形市で昭和8年に記録されたものでした。

    小学生向けの年鑑で40.8℃だったという数字を見て、想像もつかない高気温だなあと思いました。

    あのころは、夏の暑い日は30度を超える、うんと暑い日は32、3度になるという感じでした。

    夏休みは、友達とセミ採りや市営プール通い、時には田川で川泳ぎをして遊びました。

    振り返って懐かしいけれど別世界のことのように思えます。

     

     猛暑の原因については多くの人がご存じと思います。

    18世紀の産業革命以来の人間の生産活動の活発化によって引き起こされた環境破壊とエネルギーの多消費によるというものです。

    温室効果ガスが地球を覆って温暖化が急速に進んだことも挙げられています。

    これらは全世界での自然現象の観測、観察と、科学理論に裏打ちされたものであり、世界各国が共同して温暖化阻止の対策に取り組んでいます。

     

     ところが近年、この理論は間違っている説を目にすることが出てきました。

    いろいろありますが、例えば温暖化は太陽の活動に関連したもので、温室効果ガスの影響などはごく小さいものだというものもあります。

    実際、昨年の世界平均気温は15.1℃ですが縄文時代前期は2℃ほど高く、恐竜のいた9,000万年前は29℃以上の平均気温が数百万年続いたそうです。これも事実なのでしょう。

     

     問題は、いま起こっていて、近い将来には混乱と困難を引き起こすであろう人類共通の課題に対処せず、それを放置してしまうことです。

     

     トランプ大統領が一期目に就任してすぐに温暖化対策を批判しました。

    しかし彼は、自分のやりたいことに邪魔となるから非難しているだけのように思えます。

     

     天文単位のことは事実としても、私たちがいまを生きることに関しては重要ではありません。

    目先の利益を追い求める人の言説に惑わされず、いますべきことをなすべきです。

     

     目の前の現実に対し、懸命に考え、対処する道を見つけていこうとすることが、諸行無常を生きるということです。

     令和7年9月15日            

    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺東堂  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 8月 朝詣りのお知らせ

    2025年8月24日

     

    7月上旬から咲き続けていた蓮もそろそろ終わりです。

    7月上旬から咲き続けていた蓮もそろそろ終わりです。

    今年は例年以上に撮影に人が来ていたようです。

    おせがきは、ご先祖への供養法会として営まれます。

    曹洞宗を含めて多くの宗派の寺院の大事な行事となっています。

    漢字で施餓鬼と書き、餓鬼に施すという意味です。

    ご先祖への供養がどうして餓鬼に施す供養なのでしょうか。

     

     餓鬼とは、餓鬼道にある死者を指しますが、広い意味では供養を受けることなく満たされない境遇にある無数の死せるものを表わします。

    この餓鬼のために仏様の大慈悲を仰いで供養するのが施餓鬼法要です。

    導師は、満たすことの象徴である食物を、仏の威神力を借りて無限倍にする作法を勤めますので、施食法要とも言います。

     

     そもそも先祖供養は、報恩感謝の思いからなされるものです。

    そしてその感謝の思いは、この世に人と生まれ生きていること、いのちあるをありがたいと思う心から生まれます。

     

     いのちは父母によって受けます。

    父母はその父母から、さらには遠く連なる先祖からいのちを受けてきました。

    いのちの繋がりのかけがえのなさ、有ること難さを思ってなされるのが先祖供養です。

     

     但し、そのいのちの繋がりは血の繋がりによってだけで成り立つものではありません。

    人が生きられるのはこの世にある全てのものからのめぐみを受けているからこそです。

     

     いのちと一番緊密にかかわる食べ物について考えてみればわかりやすい。

    天地のめぐみを受けた作物が、無数の人々の関わりを経て食卓に載せられます。

    肉、魚ならばそのいのちを取って食べ物となっているのです。

    これをあたりまえのこととせずに、人間は天の恵み、地の恵み、人の恵みによって生かされているのだと思い至ることが大切なのです。

     

     そして、恵みをもたらしてくれたなかには、顧みられることなく満たされない境遇にあるものが無数にあり、これを餓鬼という言葉で表わして、父母、ご先祖と分け隔てせずに供養するのが施餓鬼法要なのです。

     

     令和7年8月15日            

    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺東堂  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 7月 朝詣りのお知らせ

    2025年7月16日

     

     輪廻説は、生き物が死をもって終わりを迎えるのではなく、新たな生き物となってつぎの生を迎え、それを無限に繰り返していくという思想です。

    輪廻転生とも言います。

     

     この説の当否を断言することは私にはできませんが、一つだけ確実に言えることがあります。

    それはこの説が、この世に生を受けたもの全てが、大きな命の流れの中に共にあるという観念を根底にしているということです。

    そこからは、生けるものは本質的に平等であるという観念が生まれ、生きては死にゆくあらゆる命への深い愛惜の思いが生まれます。

    「生きとし生けるもの」という言葉にはそんな思いがこもっていると、私は感じています。

     

     おのれに引き比べて、他のものの痛みを知るべし、悲しみを知るべし、という仏様の教えには、万物共生の思想があると思います。

    全てのものが自らの滅びの悲しみをかかえながら共に生きるものであるという思いの中から、あわれみの心を持っていつくしむべしという慈悲の教えが成り立ち、またそれに反して傷つけ合ってはならないという仏教の倫理の根本になる戒めも生まれるのです。

     

     私は僧侶として、仏教徒として、仏様の教えを戴いて生きています。

    しかし、経典に記されている言葉の中には相互に矛盾することもあり、また信じがたいものもあります。

    私にとっては輪廻説もその一つです。

    しかしそこには凡夫には計り知れない深い意味が隠されているのだと思って考察を重ねたいと思っています。

     

     令和7年7月15日

    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺東堂  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 6月 朝詣りのお知らせ

    2025年6月22日

     市内旧大町の児童公園の一隅におしどり塚があります。

    この塚にまつわる伝説について、この便りを読む方々にはご存じの方も多いと思います。

     昔、宇都宮に猟師がいた。

    町の周りの野山で鳥、獣を狩っては生業としていた。

    あるとき求食(あさり)川をさかのぼって猟をしていたが、夕暮れ近くなっても獲物はさっぱり捕れなかった。

    山奥の沼に行くと水面に羽を休めている綺麗なおしどりを見つけた。

    狙いすまして射た矢はおしどりを貫いた。

    首を落としてその日唯一の獲物を家に持ち帰った。

    明くる朝、獲物が捕れた沼にまっすぐ行くと、また鳥を見つけた。

    再び射た矢は命中し、彼は仕留めた鳥を手元に引き寄せた。

    するとそれは雌のおしどりで、昨日捕ったおしどりの首を羽根に抱えていた。

    彼は殺生の罪を深く感じて僧となり、後におのれが殺めた夫婦のおしどりの供養の塚を造って弔った。

     

     猟師の生業は鳥、獣を捕ることであり、農耕社会以前にはそのことによって人類は命をつないできました。

    殺生を禁じることはできないし、それを生業とすることを否定することもできません。

     

     しかしそれでも私たちはこの猟師の思いを理解することはできるのです。

     おしどりに夫婦の絆の深さを感じること、偶然に弓矢の標的になってしまった不幸、狩られる弱きものであること。

    おしどりに人間の有様を引き比べて生まれる同情です。

    また、そのような弱きものの命を取って生きていくものとしての悲しさも感じます。

     

     仏教は慈悲を説きます。

    その慈悲の心の根底には、ともにこの世に生を受け、生きていかねばならない生きとし生けるものへの憐れみの心があるのです。

     おのれに引き比べて他のものの悲しみを知らねばならない。

    お釈迦様の御言葉です。

     

     令和7年6月15日

    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺東堂  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 5月 朝詣りのお知らせ

    2025年5月13日

     沖縄は日本国内で唯一戦場になりました。

    太平洋戦争は、日本が経験した最も悲惨な出来事であり、空襲の恐ろしさ、親兄弟を失った悲しみ、戦中戦後の窮乏生活等々が、戦後生まれの私達世代にも生々しく語り伝えられました。

     

     戦争の悲惨さに戦場も銃後もないかもしれませんが、それでも兵士でないものが直接戦闘に巻き込まれることは、その度合いが違うでしょう。

     太平洋戦争での日本の戦い方は民間人を巻き込むことへの配慮が殆どなされませんでした。

    近代戦争は国家総力戦ですが、それを精神論で推し進めると、全ての国民は命を捨てるべきだという建前になり、サイパン島での断崖からの投身のようなことが起こりました。

     

     沖縄でも、住民の死者は9万4千人余、現地召集の兵士・軍属を加えれば12万人を越える人たちが亡くなりました。

     明治以来、日本は、軍も含めて強固な官僚機構を造り発展しました。

    しかしその向いている方向は、常に国家の護持のためでした。

    そもそも、国民の保護を考えない、手立てを持たない国は、国家としての資格を持ちません。

    そのことを果たすのが政府であり、沖縄で言えば防衛に当たった軍と、行政機関の義務であるはずです。

     

      その当然のことが全体として軽んじられるなかで、県知事島田叡と警察部長荒井退造は、米軍上陸前に7万3千人を県外に避難させ、戦闘開始後には15万人を激戦の県南部から北部へ避難させました。

     

     行政の責任者であり、なすべきことをなしたのですが、権限も大きければ責任も重い、がんじがらめの重圧下での決断は大きな勇気のいることだったと思います。

    二人は沖縄戦終焉の摩文仁の地で生涯を閉じました。

     

     二人を中心に沖縄戦を描いた映画「島守の塔」が昨年から上映されています

    荒井退造は宇都宮の出身で、映画のロケ地の多くに県内が選ばれました。

     

     宇都宮仏教会では、7月12日の第80回戦災追悼法要を栃木県総合文化センターメインホールで行ない、引き続いて「島守の塔」を上映します。

    入場料は無料です。詳しくは寺にお尋ねください。

     

     令和7年5月15日

    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺東堂  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

祥雲寺行事案内

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