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7月観音朝詣りのお知らせ
2023年8月27日安倍元首相が亡くなってから一年が経ちました。
事件後に報道された襲撃犯の動機は、国民にとって思いもよらないものでした。
そこから明らかになったのは、元首相と旧統一教会とのつながりであり、それが極めて多くの保守政治家に及んでいるということでした。
先日、TBSテレビの報道検証番組で、統一教会の現教祖が日本の幹部達に、日本からの献金をもっと増やせと叱りつけている内部映像が放映されました。
事件後一年間に起こった同協会に対する日本での批判を考えると、信憑性すら疑いたくなる画面でした。
そこでの彼女の主張は、韓国を父の国、日本を母の国とし、日本は戦犯国として歴史の中で悪行をなしたのだから、父の国に貢ぎ続けねばならないのだという支離滅裂なものです。
しかしこれは教会が以前から説いてきたことであり、何一つ変わっていないことを示すものでもあります。
私が腹立たしく思うのは、日本の政治家達のこの問題に対する姿勢です。
韓国から繰り返し出される日韓併合時の補償要求に対し批判的な立場をあらわにしてきたのは保守政治家であり、それは多くの国民から支持されてもきました。
教会の主張と行動がそれに全く反するものであり、反社会性さえ持つ経歴があるのですから、断固たる措置を講じようとするのが普通です。
しかし、当初の教会と縁を切るというのは掛け声だけの感があり、癒着が疑われる政治家は堂々と政権獲得に意欲を燃やす始末です。
想像されるのは、教会による選挙協力が政治家達の当選に必要不可欠になっているのではないかということです。
落選すれば政治家ではない。
選挙協力を受け容れるのは法律に違反するものでもない。
それが政治家としての信義にもとるものであってもみんなでやれば言い訳も立つ。
彼らの考えは、こんなところでしょうか。
議員である前に、筋の通った政治姿勢を保たねばならない。
垣間見えるのは世に対するへつらいです
。保守、革新に関わらず、政治家にはしっかりしてもらいたいものです。
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
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6月観音朝詣り
2023年6月24日一切の生きとし生けるものは幸福であれ。
スッタニパータ145偈 中村元訳
生きとし生けるもの。なんと美しい言葉でしょう。
私がこの言葉を初めて目にしたのは、古今和歌集の序文です。
紀貫之の仮名序は「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」に始まり、「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」と人が感動を言葉にし、歌にすることを述べています。この世にある天地万物と吾(われ)が一体となっているという共感から生まれた感動であり、生きとし生けるものという言葉にはこの世界に生きるものへの限りない愛おしさが込められています。
この言葉を知ってまもなく、岩波文庫の「ブッダのことば-スッタニパータ」を読んでいた時に目にしたのが冒頭の言葉です。
スッタニパータは、最も早くに編まれた経であり、お釈迦様の肉声をそのままに伝えるものがあるといわれています。
特に、143偈から152偈までの10の詩は慈しみの経といわれ、タイやスリランカの仏教徒は毎日となえているそうです。
中村博士がいのちあるものの訳に生きとし生けるものということばを当てたことも素晴らしいと思います。
さすがお釈迦様の教えに最も精通した大仏教学者です。
冒頭の言葉の全文を記します。
一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも悉く、長いものでも、大なるものでも、中位のものでも、短いものでも、微細または粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに或いは近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは幸福であれ。
お釈迦様の慈しみであり、憐れみです。それはそのまま仏教徒の祈りです。
令和5年6月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います
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5月観音朝詣り
2023年5月21日我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴
従身口意之所生 一切我今皆懺悔(華厳経普賢菩薩行願品)私が昔より造りし諸々の悪業は、みな何時とも始まりが知れぬ貪瞋痴に由来して私の身と口と心から生まれたものです。
今、私は一切を懺悔します。(懺悔はサンゲと読みます)およそ、悪いことをしたことのない人はいないでしょう。
小さな罪から取り返しのつかない大罪となる大悪もあり、それらはすべて私たちの持つ邪(よこしま)さに由来します。
仏教ではこれを無明(むみょう)といい、人知では計ることもできず幻にもたとえられる本源的な暗きもの、迷いの根本です。そこから生まれた無数の罪が消えることはあるのでしょうか。
道元禅師は、どんな悪業を犯した人も誠心誠意仏さまの前で懺悔した時、その罪は消えると説かれています。
仏前に懺悔することの功徳の力が、その人を清浄にし、仏の教えに身を任せ仏の道に精進する人に生まれ変わらせると示されています。
ここに説かれているのは、宗教的な回心です。世俗的な考えで懺悔すれば罪が消える、苦しみから解放されると思うならば、そんなことはありえません。
罪は罪であり、消滅することもありません。
もし死刑に当たるほどの罪を犯し、それに対する罰として法律が死刑を相当としているならば、それに従わねばなりません。
仏道に入って得られるのは、罰を受け容れて、なおも人としての尊厳をそこなわず、生ききる境地です。
人間を生まれ変わらせるほどの力を持つ懺悔はどうして可能なのか。
それは、いま人としてあり、この世の万物と共に生きていることのありがたさを感じることがなければできません。
さらになおかつ、悔恨と内省がいかに深くとも自分の力だけでは成し遂げられず、仏の教えに身心をなげうつしかないのです。人間は弱いのです。
令和5年5月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。 -
4月観音朝詣り(18日朝六時より)
2023年4月14日先月のワールドベースボールクラシックでの日本優勝は国民を熱狂させました。
それで霞んでしまった感はありますが、
昨年暮れに行われたサッカーのワールドカップカタール大会も、日本チームの大活躍で大いに盛り上がりました。ドイツ、スペインという世界の強豪国と同じ予選組となり、予選敗退は確実と言われていたのが、あろうことかその二カ国を破って決勝トーナメントに進出したのですから盛り上がらないはずはありません。
そのスペイン戦では奇跡的なゴールがありました。誰もがゴールラインを割ったと思われたボールを三苫選手がゴール前に蹴り返し、田中選手がゴールを決めました。
ビデオ判定の結果、ボールはゴールラインに数ミリ残っておりゴールが認められたのです。
サッカー試合の判定に審判の補助としてビデオ映像が取り入れられた結果の逆転ゴールでした。
このゴールについて面白い意見がありました。
これまで、ビデオによる判定を取り入れるべきだと主張してきたイギリスの元サッカー選手のものです。
誰もが外に出たと思ったことが覆るようならビデオ判定はやめるべきだというのです。
これに対しては、ヨーロッパのチームが負けたから意見を変えたのだろうとの批判がありましたが、私は傾聴すべきことだと思いました。それは、本来人間が責任を持って為すべきことである審判や判断を、機械に頼ってはならないということです。
だれもが出ていると思ったボールが実は残っていた。機械がなければ誤ったであろう審判を正しいものに導いた。
良いことのように思えますが、その行き着く先は、審判は機械に任せるということになってしまわないでしょうか。
さらに進んで将来、裁判でさえ高度化した機械に頼って判決が下されることもありうるとは妄想でしょうか。
機械が神(カミ)化することはあってはならない。
まちがいを覚悟しても判断は人間がするべきです。
令和5年4月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。 -
3月観音朝詣りのお知らせ(3月18日6時半より)
2023年3月17日3月11日、東日本大震災発生の日を迎え、新聞、テレビなど多くのメディアで特集が組まれています。
震災が起こってから満十二年、犠牲の霊位の十三回忌に当たります。十三回忌という忌日が設けられているのは、十二支が一巡りし同じ歳になるからです。
震災の時、津波が町を、海岸を、襲う映像は忘れることができません。
あの中でどれだけ多くの人が死んでいったのか、思い出しても胸が詰まります。
NHKでは、迫り来る南海トラフの大地震についての特集番組が放映されていました。
東日本大震災を越える20メートル、30メートルの津波が来るかも知れないこと、犠牲者も二十万人を超すかも知れないこと、経済的損失は日本没落まで考えられること。
被災者であったかないかに関わらず国民全体が震災の恐ろしさを知っているだけに、どうにかならないのかとも思います。
必ず来ると言われ、できるだけの対策をしていても、いざその時が来たら残念ながら大災害は避けられません。
津波が来るところに住まなければならない人はたくさんいるし、工場でも、道路でも、鉄道でも万全の対策は取りきれません。
震災の時、家族を助けようとしてなくなった人がたくさんいました。
津波では自分の身を守ることを考えて、家族であってもその運命は天に委せなさいとの教訓が昔からあることが紹介されていました。
私たちは、人間の力ではどうすることもできない自然の脅威にさらされている国土に住んでいるのだという覚悟を持たなければならないと思います。
それは、世に言うあきらめではない。
皆が無事でいられるための備えを怠らず、それでもだめならそれは運命とし、いのちあれば復興に身を尽し、犠牲者を悼み、未来あるものに希望を託していく。
それは、お釈迦様がお説きになった、諸行無常の世に生きることそのものです。
令和5年3月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。