-
6月 朝詣りの会お知らせ
2024年6月22日諸行無常 諸法無我 涅槃寂静 (三法印)
諸行無常という言葉がお釈迦様の教えの第一番目の真理であることはよく知られています。
しかしこの教えは仏教だけのものではありません。
全てのものは移ろい変わりゆくという意味ですから、誰もが知っている、いわば当たり前のことです。
一般に、真理といわれるものには、たゆまぬ研究、研鑽に依ってたどり着くと思われています。
しかし、仏教は目の前にある現実そのものを真理としているのです。
人間の苦しみは、人間が自分(自己)というものを持ち、それに囚われていることから生まれます。
諸行無常の現実は、自分がかくありたいと願うことを次から次へと壊してしまいます。
結局自分の思い通りになるものは何も無いのです。
ですからお釈迦様は、苦しみから解放されて生きていくために、自己への囚われを無くすことを説かれたのです。
仏教は人間が幸せに生きるための教えです。
ところで生きるためのエネルギーは欲です。
欲が無ければ生きることは出来ません。
欲を否定することは出来ないのですが、欲は囚われの素となり煩悩ともなります。
仏教は欲を否定するのではなく、それをよくコントロールしていく道を示しているのです。
お釈迦様は遺言の教え「遺教経」で無欲ではなく少欲を説いていらっしゃいます。
自己中心で欲を抱えた人間が、千変万化の諸行無常の世界との関わりの中で生まれてくるおのれへの囚われには無限のケースがあります。
経論にたくさんの教えが説かれているのはそのためです。
忘れてならないのは、常に現実に即している教えであり導きであるということです。
諸行無常の教えとは、世の無常を観じて諦(あきら)めることだと思われがちですが、徹底的に現実に即し、その変化に応じ、生きる道を明らかにしていくことでもあるのです。
諦(あきら)めは、ものごとを投げ出すことではなく、明らかにして積極的に生きることなのです。
令和6年6月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
-
5月 観音朝詣りのお知らせ
2024年5月18日昨年、退任記念に自費出版した「守拙」を差し上げた方から、内容についての感想の手紙をいただきました。
その中に、自然と調和して生きることが仏教の教えとの私の言葉にうなずき、感謝こそが人倫の基との考えに共感しましたと記されてありました。
この方は、「守拙」を通して私が言いたかったことの本線をきちんと捉えていらっしゃいます。
とても嬉しく思いました。
哲学、宗教はその対象が人間と人間の生きるこの世界です。仏教、キリスト教、イスラム教など世界宗教と言われる宗教は信仰を核として、ありとあらゆるものに考察をめぐらします。
それを教理といいますが、必然的にその内容は広汎で複雑なものになります。
仏教の場合、因縁、空、中道、唯識など専門用語で表わされる教えの一つ一つに膨大な教理があります。仏教を学ぶ者はこの膨大な教理の森に分け入らなければなりませんが、一般の人にそのことを求めることは出来ません。
教理に基づいたわかりやすい道を伝え、仏教を理解し信じてもらい、幸せになってもらいたいというのが仏教を学んだ者の願いであり祈りであるべきです。
「守拙」はそのような意図を持って編集しました。
テーマは「生きる」ことです。
人間は発達した頭脳を持つゆえに、自と他を区別します。
自らの生を問い、悩みもし、苦しみもします。自我を持っていることが人間の特質です。
その点が他の生物とは異なるのですがこの世界に生きるものであることに変わりはなく天地万物と隔絶したものでもありません。
天地万物、即ち自然の中に生きるには、自我から生まれるもろもろの計らいを捨てていくことです。計らいを捨てて、自然と調和して生きる中に真の自己が生き生きと現れてくるという教えが、特に禅宗の説くところだと私は思います。
悩み、苦しみを抱えながら生きることは人間として避けられないことです。それでもこの世界に生かされている我が身をありがたいと思える時、感謝の念が自然に湧き上がってきます。
それが人倫、すなわち人のみちだと信じています。
令和6年5月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。 -
4月 観音朝詣りのお知らせ
2024年4月20日今年は大本山總持寺御開山瑩山禅師の700回大遠忌に当ります。
4月1日から21日迄は本法要に当たり、私は鶴見の大本山に詰めてお経を上げて報恩の供養を勤めています。
50年前の650回の大遠忌の時は修行僧として安居していましたので2度目のお勤めとなります。
法要のほとんど全ては、總持寺の本堂に当る大祖堂で行なわれます。
一つ一つの法要の開始を告げるのは大祖堂の中の鐘鼓楼に下げられた殿鐘です。大きな鐘ですが柔らかくて澄んだ音色を響かせています。
僧堂では、鳴らしものといって、声を出さずに鐘、太鼓、木版等の楽器によって行事の伝達がされます。
新参の僧は、鐘司という役を与えられ鳴らしものを担当します。
鳴らしものを覚えなければ修行生活が送れないのですから、必死です。
その中でも大祖堂の鐘を鳴らすのは最も責任の重い役目ですから緊張と責任感をもって務めます。
大祖堂の鐘は總持寺での修行の象徴といってもよいものです。
この鐘は、昭和40年に現在の大祖堂が新築された時に祥雲寺によって寄進されました。
梵鐘の大きさで殿鐘に求められる高い音色を出すことは困難なのですが、日本一の梵鐘鋳造所富山県高岡市の老子製作所の主人老子次右衛門が人間国宝鋳物師香取正彦の協力を得て鋳造しました。
その時に大きさを変えて試作した鐘が、現在祥雲寺本堂にある殿鐘です。このお二人は後に広島平和の鐘を製作しました。
このような鐘を寄進するのはたいへん名誉なことです。
これについては、祥雲寺26世白巌器之和尚が、大本山總持寺の能登から横浜への移転に当って先ずなされた仏殿の建立事業で、現場の庶務を務めて、裏方として並々ならぬ功績があったことを、当時を知る人が覚えていて認められたとのことです。
殿鐘には、その時寄付に応じてくださった100余人の檀家の方々の名が刻まれています。
これらの方々の信心があって、寄進することができました。ありがたいことです。
令和6年4月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
-
3月 観音朝詣りのお知らせ
2024年3月24日歌は世に連れ人に連れ、といいます。
流行歌はその時々の庶民の心を表わしていて、振り返れば時代の貴重な証しです。
放映中のNHK朝ドラ「ブギウギ」を面白く見ています。
昭和20年代の流行歌手笠置シズ子をモデルにしたドラマですが、主演の趣里さんの歌唱と踊りがふんだんにちりばめられていて、それだけでも楽しい。
私の生まれた頃はこんな歌が流行っていたのかと思いました。
それと同時に、戦争を感じます。
ドラマ前半の戦前戦中分はもちろんですが、戦後分にも庶民の生活に戦争が色濃く影を落としています。
小学生や中学生の頃、大人から歳を聞かれて答えると、「昭和23年生まれか。少し楽になった頃だな」といわれたのを思い出します。
「リンゴの唄」と共に映し出される闇市、「星の流れに」に歌われた街娼たち、みんな戦争の傷跡を負いながら生き抜いてきました。
その時代の人にとって、ブギウギのような明るい曲はどんなにか癒やしになり、励ましになったことでしょう。
軍国主義、敗戦、民主主義、復興、大変化の時代に生きた人たち。
それは私からは親達であり、先輩である世代の人達ちですが、生まれた年によって見える景色も違っていたように思えます。
若者に限っても、小学校を卒業すると多くが生業に就くか奉公に出た世代から、義務教育化された中学校に通った世代の間にはいくらも年齢差はありません。
彼らは混沌の時代に日本の未来を託されました。ドラマでも歌われましたが「青い山脈」は、若者には新生の讃歌として迎えられたはずです。
ドラマに出てくる赤ちゃんは、まぎれもなく私の同世代です。
私たちには、戦争のない幸せな時代に生きてほしいという祈りが込められたと思います。平和な世界を造るために力を尽すのは、後期高齢者になっても私の世代の義務であると思っています。
令和6年3月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
-
2月 観音朝詣りのご案内
2024年2月17日德あるは讃(ほ)むべし、德なきは憐(あは)れむべし
修證義第4章
道元禅師が、愛情のこもった言葉の大切さを説いた教えの一節です。
この言葉がある文章では、母親が赤児に対して抱くような深い愛情に裏打ちされた言葉が、天をもめぐらす力があるのだと禅師は仰っています。
ここで「あはれむ」という言葉の意味を正しく捉えることが大切になります。
この言葉には、弱い立場や逆境にある人に対して何とか救ってあげたいと思う「かわいそう」と繋がる感情が込められています。
そのことは良いのですが、私たちは弱い立場や逆境にある人に対して、自分より劣ったという差別の感情をかかえがちです。
その思いから発せられる憐れみの言葉は決して人を救う言葉とはなりません。
今年の大河ドラマの主人公紫式部が作者の源氏物語は、平安文化の結晶であり日本を代表し世界に誇る文学です。
その源氏物語の主題について、江戸時代の国学者本居宣長は「もののあはれ」であると言いました。
「あはれ」あわれ、哀れ、憐れ、という言葉はたいへん奥の深いものです。
本来、強い感動を示すときの言葉で、喜びにも、賛嘆にも使い、そしてかなしみの感情を伴います。
「あはれむ」は「あはれ」の動詞のかたちで、愛情、愛惜の思いを含む言葉です。
源氏物語は、時代を経て教理的な無常観や儒教の勧善懲悪の観点から読まれるようになりました。
それを本居宣長は王朝文学本来の読み方に戻したのです。
「もののあはれ」には、苦悩に満ちた王朝女性が折に触れて感じた、しみじみとした情趣や無常観的な哀愁が込められているといわれます。
道元禅師は、王朝文化の素養豊かな家に生まれ育たれた方です。
「德なきは憐れむべし」という言葉には、生きとし生けるものへの深い愛惜の思いがこもっていると思います。
令和6年2月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前9時から行います。