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令和8年1月 朝坐禅会「指月の会」案内(1月25日朝6時半より)
2026年1月25日門松は 冥土の旅の 一里塚
一休宗純 和尚
新年明けましておめでとうございます。
一月も下旬となりましたが、とにかく年末から寒い冬でした。
例年以上に気温の低い日が続いて、最高気温5~7度というのは近年になく冬らしい冬です。
また祥雲寺は境内東側に八幡山があるので日の出が一時間近く遅くて、今時分は7時半ころにならないと朝日が境内に差さないのです。
日が差して漸く凍り付いた屋根や境内の土が溶け始めて、息を吹き返すような心地で日の出を待ちわびる今日この頃です。
寒い日が続くと体調もそうですが気持ちも落ち込んだ調子になりやすいものです。
いつもの常套句なのかもですが、先日買い物先で会った檀家さんとの会話で
「オレまた一つ年くっちまったよ」
と言われました。
年配になると一歳年を取るごとに健康への愁いや体力の懸念等、追い立てられるような心持ちになるものなのでしょう。
上記の言葉はみんなご存じとんちの一休さんの元となった、室町時代の禅僧一休宗純和尚の言葉です。
身も蓋もない言葉で、正月の賑々しさを害するへそ曲がりに見えるものですが、人間どんなときでも時間は経過して自らは老いていくのだから、各々成すべき事を成すべく怠るな、との一休禅匠らしい警句なのでしょう。
年を取る、無常というものを感じる時でもあります。
誰しもが年を取る、時に悲しみを感じるそれは万人に平等で。
だからきっと、この事実を受け入れていく術は、自らが納得出来るよう日々を勤め励み、その納得の積み重ねの上にこそネガティブなばかりでなく蓄積や向上、レベルアップとでも受け入れられもするのでしょう。
無常というのは変わると言うことは、自らの努力によってある程度改められるということとセットなものです。
さりとてそのまま諸行無常、変化は道理なのだから受け入れなさい、受け入れられない自らの心の動きそれこそが執着なんだ苦しみの元なんだ、なんて言って聞く耳を持つ人ばかりなわけはありません。
理屈を言うより前に、塞いだ気持ちの人には同じ目線で近くに寄り添って、一人じゃないよ怖くないよと接する事が先のはずです。
だから私はこの檀家さんにはこう返しました。
「大丈夫、私も一緒に年食ってるよ。足腰痛んでやってられないですよねー」
年老いていくのは皆同じ。
「施無畏」、恐れることはないのだと教え諭し伝える慈悲の言葉とまでにはおよばずとも、ドイツの詩人の言葉にあるような、嬉しいことは二倍悲しみが半分になってくれるように、せめて一人じゃないよと思って貰えるように、一時でも言葉が届いてくれていればと願うばかりです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は2月23日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。 -
令和7年12月朝坐禅会「指月の会」案内(12月22日朝6時半より)
2025年12月21日「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
『正法眼蔵』 「現成公案」巻
今年も年末が近づいてきて、寒さも深まって感じられる所です。
しかし境内掃除で入り口の梅林の木を仰いでみれば、紅梅のつぼみが少しずつ膨らんできていて、寒い中でも春を迎える準備は進んでいるようです。
正月を迎春と呼称するのは旧暦の正月が二月であった事の名残りの様ですが、春を待ち遠しく思う身には気持ちばかりでも春を先取りして呼び込もうとする賑々しい言葉遣いに感じられます。
寒さ深まる年末ですが悪いばかりでもなく、大掃除や整理整頓が済んでくればお寺の用事も段々少なくもなってきて、時間が作りやすくなる時期でもあります。
夏以来評判になって長らく気に掛かっていた映画「国宝」を漸く見に行くことが出来ました。
大変に、良かったです。
6月以来のロングラン放映で朝一上映だから空いてるかと思いきや結構人が入っていて、客層見てると若い人やカップルもいて、これだけ評価高いと全年齢的になるようです。
余談ながら見てきた話をマダム層の多いヨガ教室でしたら皆さん一気に涌いて、私は二回見てきた私は三回よ、とリピーターが多いというのも納得できる反応でした。
「国宝」の筋立ては大まかに言うなら、昭和中期の極道の跡取りが見込まれて歌舞伎の名門に弟子入りし、そこの御曹司と切磋琢磨しながら役者として成長し、もがき苦しみながら芸道の高みへと上り詰める波瀾万丈のストーリーです。
徹頭徹尾美とは何か、「きれい」を追究し続ける軸が通っているのが見やすさの秘訣なのでしょう。
「国宝」の良かった所語りたい所は沢山あるのですが、私に強く刺さったのは先駆者として出てくる人間国宝万菊師匠の台詞です。
出奔した主人公の相方であった御曹司が戻ってきて、万菊師匠が指導しているときの言葉。
「あなた歌舞伎が憎くて憎くてしょうがないんでしょ。でもそれでいいの。それでもやるの。それでも毎日舞台に立つのがあたしたち役者なんでしょうよ」
技芸の道に錬磨した先達の目の確かさ、柔らかな肯定と飲み込めと促す発破がけ、実践してきた人間だろうからの説得力。
語りたいことの多い部分ですが、これは多くの研鑽を要する「道」に共通するものだと思うのです。
綺麗事で語れるのは初等の頃ばかりで、深まるほどに軋轢としがらみは増し、純粋純一でなくなり窮屈に重苦しくなって、いつしか最初の輝きを見失っていく。
それでも歩む、その先にあるものを信じて。
それが道、ってものなのでしょう。
上記の言葉は我が宗門の祖、道元禅師の遺された言葉でおそらく最も有名なものでしょう。
ふつつか乍ら私なりに意訳するならば
仏教を学び実践するということは自己の存在を定義することでもある。
だが仏道を歩む中でいつしか我(自分中心に物事を見て思考する世界観)は薄く小さくなっていく。
我を起点としなければ縁起の道理、お陰様に私は生きて生かされている「事実」に「証せられる」
自他の関係性の中で構築され定義される身と心から脱げ落ちていくのである。
仏道も又長い道のりを歩み、生涯をかけて取り組むものです。
多くの立派な先達のお姿を信じ、国宝主人公の激しさには及ばず乍らもこの道を歩いて行きます。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は1月26日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。 -
令和七年十一月 朝坐禅会「指月の会」案内(11月24日朝6時半より)
2025年11月22日諸漏已尽、無復煩悩、逮得己利、尽諸有結、心得自在
「もろもろの煩悩既に無く、また心に煩いなく、よく自己の利をとらえて、
もろもろの束縛をなくしたれば、心は自在なることを得たり」
『正法眼蔵・阿羅漢』道元禅師
いよいよ今年も年の瀬が近くなり、12月1日年末大行事の無縁供養水子地蔵尊例祭、そして併せて行われる五百羅漢完成式典の日が近くなってきました。
準備も大詰めを迎えましたが、盛大に行えるよう頑張りたいです。
祥雲寺羅漢渓に祀られた五百羅漢は平成九年から掘り始められました。
元々はテレビで放送された余所のお寺での石仏彫りの取り組みを、生涯学習の一環として祥雲寺で出来ないか、とお檀家さんから声をかけられたところから始まりました。
爾来三十年近く、祥雲寺駐車場の作事場で羅漢の会会員の方々が力を尽くし、本年12月をもって503体が納められる所まできました。
五百羅漢というのはインドの昔、お釈迦様在世の時のお弟子方を言い、より厳密に言うならばお釈迦様の死後お経を編纂するために集った方達を顕す言葉です。
当時インドは紙に書き記して記録を残す文化はなく、教えは記憶頼りの口伝えであったそうです。
だからこそ教えが失われず間違われず伝わるように、大勢集って確認をしながら残していく必要があったわけです。
その為古いお経は冒頭に、如是我聞「かくのごとく我聞けり」との一文が付いているわけです。
筆記などで記録するよりも記憶することを重視するインドの伝統は近年まであったようで、昭和の老師がインドで聖者の説法を録音しようとしたら「尊い言葉を狭い箱に押し込めるべきではない」等と窘められた事があったそうです。
また集ったお弟子方が正確に五百人であったかは定かではなく、大体五百人と形容出来る様な大人数であった位の表現だそうですので、正確に五百でなくてはならないという厳密なものではないそうです。
羅漢の会では桜通りの金野石材店、金野敏明さんにご指導いただき、毎週土曜午後に集って石彫りをおこないます。
利明さんは石工として大変腕が立ち、羅漢渓の大釈迦像も彫り上げた方です。
日本では珍しい触地印、悟りを開いた際に大地の確かさに親しんだお姿のお釈迦様で、一頃海外の方がよくお参りに来られてもいました。
皆最初は素人乍らに鑿を振るって彫り始め、1年以上かけて一体を彫り上げる方もいれば、一人で何体も彫る方、家や会社に置くんだと石仏以外を彫る方もいました。
はじめては定型に沿ってらしく彫ろうとされるようですが、段々数を彫る内にバリエーションに困るようで、身近な方や記憶の中にある方をモチーフにされるようです。
羅漢さんを見た感想に、親しみやすいお姿とか懐かしいあたたかい印象をおぼえたと言われることが多いのは、彫った方のおもいが表れているからなのでしょう。
禅宗では、五百羅漢の事を「正法護持の衆」とも表現します。
尊いほとけさまの教え、迷い悩み苦しみから離れる清浄無為の妙法も、信じて守り実践する人がいればこそ今日の私達に、教えを求める人へと届くものです。
祥雲寺に集って鑿を振るった羅漢の会会員諸氏、現代の羅漢さん達の彫り上げた五百羅漢像が、今日立派な姿で完成しました。
石の普遍性永遠性に託された姿とおもいが、末永くお参りする人々の心に響き、静けさと安らぎの仏の道に親しまれることを願います。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は12月22日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和七年十月 朝坐禅会「指月の会」案内(10月27日朝6時半より)
2025年10月26日独存無倚(どくそんむい)、脱落(だつらく)全(ぜん)真(しん)。
混然として万象の中に明歴歴たり、卓爾として不疑の地に活鱍鱍たり。
『永平広録』道元禅師
先日、修行仲間と勉強会仲間の晋山結制無事円成を聞き、嬉しく思っています。
晋山結制はお寺の一世一代の大行事、全身全霊で勤めるものですから、さぞ疲れたことと思います。
しっかり休んで体を労ってほしいものです。
思い返せば私も二年前の11月、祥雲寺二十九代目住職として代替わりのお披露目式、晋山結制を修行しました。
寺院の住職は就任に当たっての着任お披露目として晋山式を行うもので、これは殆どの宗派で共通しています。
曹洞宗の場合、この晋山式に結制という修行会を併せて行うのが一般的です。
結制は一山の住職として十分な力量を備えているかを証明する為本尊様を祀る須弥壇に登り、参集した僧侶の問答に答えて見せ法を説き示す、衆目に試される上堂という式を行います。
上記の文章は、我が宗祖道元禅師が上堂の際に説いた記録集から引いた一文です。
私の上堂の問答終わっての法の説示、堤綱の際に冒頭に引用しました。
仏法を会得したものは何ものにも依存せず、一切の執われを脱して完全に真実である
かれは、あらゆるものと渾然と一つでありながら、ものとははっきり別であり、しっかりと揺るぎない境地に立ちながら、生き生きと動いている
その後はこんな内容を続けました。
私、淳之は出家する覚悟も覚束ない乍ら、家業を継がねばならないというおもいのままに大本山永平寺に修行に飛び込み、12月の大修行、蝋八大摂心の大業の中で「ほとけごころ」に見えることが出来た。
仏の道を歩み修行する仏道というものは「ほとけごころ」に生きることであると納得出来た。
「ほとけごころ」とは坐禅を中心とした日常底の精進、雑念の無い生き方にあるものだと悟ることが出来た。
「ほとけごころ」とは如何なるものであるのか。
私の坐禅の師匠、福井の板橋禅師はこのように説かれた。
「偏らない心、拘りない心、囚われない心、広く広くもっとひろく、これがお釈迦様の心なり」
ほとけごころに見える、というのは私なりの表現です。
弘法大師空海も唯一度、「明星来影す」と神秘的な表現で大悟を示した事になぞらえてみました。
蝋八大摂心、1週間の坐禅修行の中で、どんな人であっても仏様の様にありがたい姿で、仏様の様な心に生きる事が出来るのだと目の当たりに知ることが出来ました。
自分というものにあまり拘らない、「私」の都合に繋縛されない禅の生き方は、ほとけごころに生きるという安心をもたらしてくれるものなのだとはっきりと理解できました。
これが、私のお坊さんとして生きる根っこです。
この法を社会に生きる人々の苦難に活かしてもらいたい、それが私のライフワークです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は11月24日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和7年9月 朝坐禅会「指月の会」案内(9月22日朝6時半より)
2025年9月21日他は是我に非ず 『典座教訓』道元禅師
夏も終わり、暑さも残りつつも息をつける程度に落ち着いてきて、漸く身の回りの整理や次の行事の準備に取りかかれるようになりました。
秋の西国三十三番観音霊場巡礼や来年計画のアンコールワット参拝旅行、本山参拝計画、冬の無縁供養と羅漢像完成記念式典の用意等準備は沢山必要です。
夏の疲れを癒やしつつ、ぼちぼち進めていきたいです。
猛暑の8月が終わって、羅漢石仏像作成の羅漢の会も活動を再開しました。
月初めの土曜日は午後より本堂横の十六羅漢に皆でお参りの声明(しょうみょう)をお唱えする羅漢拝を行っています。
まだ日差しの強い中30分程度のお勤めなのですが、普段と違っていて大変緊張しました。
NHKのカメラが撮影に入っていたのです。
五百羅漢が今年完成するので取材したいと言うことで、許可はしましたが実際にカメラを向けられるといろんな所に力みが入って疲れるものです。
お参りのお唱えをしながら、終わったときに何を話すか失念していたことに気付きました。
カメラの前だし無難に挨拶だけでも良いのですが、いつも時事ネタを交えて即興ミニ法話としていたのを崩したくもないので、恥を掻きたくないなぁと思いつつも挑戦してみました。
「先日羅漢の会の方から昨今流行のAI、チャットgptで作成した羅漢とは何か?の纏めた文章を頂きました。
軽く目を通しましたが、私が同じものを用意しようとすると2~3日は欲しくなるような作業をものの数分で見られる形に作成できるというのは時代の進歩を感じます。
私個人の頭で考えてては出てこないような表現麗句も散見され、集合知の活用というのはつくづく便利なものです。
幾つかハッキリ誤っている箇所や脈絡の怪しいところはありますが、そうした穴も更なる技術発展で無くなっていくのでしょうし、今でも十分参考に出来ます。
しかし参考には出来ても、やはりこれは私には使えるものではありません。
私自身の積み重ねてきたものから出てくる言葉でなくては、活きて響く言葉とはならず空疎な措辞、絵空事に堕してしまうと思うからです。
丁度先々月にも昭和の禅僧澤木興道老師の言葉を引きました。
「仏法がこの頃は傍観者の観念の遊戯となってしまった。
立ち見席で『何年にお釈迦さんが出てこういった』と、ことづけ仏法になってしまった。
先祖がいくら偉くたって、友人がいくら偉くたって、皆よそごと。
自分はどうじゃ。先祖の講釈。仏教の効能書きをいっているのを分別という。
効能書きをいくら読んでも、病気はなおらん」
また我が宗祖道元禅師は中国に渡った際に老典座から言われた「他は是我に非ず」(人にやって貰った事は自分の修行となることは無い)を大切な箴言として書き留められています。
仏道修行とは、自らの中に宝を掘り起こす様なものです。
それを気付きや悟りと表現する人も居ますが、ここでは体験経験生き方が自らの指針や軸となる、宝となると表現しましょう。
羅漢の会の活動、この精進の時間が私達皆の宝を掘り出す機会となることを願うばかりです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は10月27日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています







