-
令和七年十月 朝坐禅会「指月の会」案内(10月27日朝6時半より)
2025年10月26日独存無倚(どくそんむい)、脱落(だつらく)全(ぜん)真(しん)。
混然として万象の中に明歴歴たり、卓爾として不疑の地に活鱍鱍たり。
『永平広録』道元禅師
先日、修行仲間と勉強会仲間の晋山結制無事円成を聞き、嬉しく思っています。
晋山結制はお寺の一世一代の大行事、全身全霊で勤めるものですから、さぞ疲れたことと思います。
しっかり休んで体を労ってほしいものです。
思い返せば私も二年前の11月、祥雲寺二十九代目住職として代替わりのお披露目式、晋山結制を修行しました。
寺院の住職は就任に当たっての着任お披露目として晋山式を行うもので、これは殆どの宗派で共通しています。
曹洞宗の場合、この晋山式に結制という修行会を併せて行うのが一般的です。
結制は一山の住職として十分な力量を備えているかを証明する為本尊様を祀る須弥壇に登り、参集した僧侶の問答に答えて見せ法を説き示す、衆目に試される上堂という式を行います。
上記の文章は、我が宗祖道元禅師が上堂の際に説いた記録集から引いた一文です。
私の上堂の問答終わっての法の説示、堤綱の際に冒頭に引用しました。
仏法を会得したものは何ものにも依存せず、一切の執われを脱して完全に真実である
かれは、あらゆるものと渾然と一つでありながら、ものとははっきり別であり、しっかりと揺るぎない境地に立ちながら、生き生きと動いている
その後はこんな内容を続けました。
私、淳之は出家する覚悟も覚束ない乍ら、家業を継がねばならないというおもいのままに大本山永平寺に修行に飛び込み、12月の大修行、蝋八大摂心の大業の中で「ほとけごころ」に見えることが出来た。
仏の道を歩み修行する仏道というものは「ほとけごころ」に生きることであると納得出来た。
「ほとけごころ」とは坐禅を中心とした日常底の精進、雑念の無い生き方にあるものだと悟ることが出来た。
「ほとけごころ」とは如何なるものであるのか。
私の坐禅の師匠、福井の板橋禅師はこのように説かれた。
「偏らない心、拘りない心、囚われない心、広く広くもっとひろく、これがお釈迦様の心なり」
ほとけごころに見える、というのは私なりの表現です。
弘法大師空海も唯一度、「明星来影す」と神秘的な表現で大悟を示した事になぞらえてみました。
蝋八大摂心、1週間の坐禅修行の中で、どんな人であっても仏様の様にありがたい姿で、仏様の様な心に生きる事が出来るのだと目の当たりに知ることが出来ました。
自分というものにあまり拘らない、「私」の都合に繋縛されない禅の生き方は、ほとけごころに生きるという安心をもたらしてくれるものなのだとはっきりと理解できました。
これが、私のお坊さんとして生きる根っこです。
この法を社会に生きる人々の苦難に活かしてもらいたい、それが私のライフワークです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は11月24日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和7年9月 朝坐禅会「指月の会」案内(9月22日朝6時半より)
2025年9月21日他は是我に非ず 『典座教訓』道元禅師
夏も終わり、暑さも残りつつも息をつける程度に落ち着いてきて、漸く身の回りの整理や次の行事の準備に取りかかれるようになりました。
秋の西国三十三番観音霊場巡礼や来年計画のアンコールワット参拝旅行、本山参拝計画、冬の無縁供養と羅漢像完成記念式典の用意等準備は沢山必要です。
夏の疲れを癒やしつつ、ぼちぼち進めていきたいです。
猛暑の8月が終わって、羅漢石仏像作成の羅漢の会も活動を再開しました。
月初めの土曜日は午後より本堂横の十六羅漢に皆でお参りの声明(しょうみょう)をお唱えする羅漢拝を行っています。
まだ日差しの強い中30分程度のお勤めなのですが、普段と違っていて大変緊張しました。
NHKのカメラが撮影に入っていたのです。
五百羅漢が今年完成するので取材したいと言うことで、許可はしましたが実際にカメラを向けられるといろんな所に力みが入って疲れるものです。
お参りのお唱えをしながら、終わったときに何を話すか失念していたことに気付きました。
カメラの前だし無難に挨拶だけでも良いのですが、いつも時事ネタを交えて即興ミニ法話としていたのを崩したくもないので、恥を掻きたくないなぁと思いつつも挑戦してみました。
「先日羅漢の会の方から昨今流行のAI、チャットgptで作成した羅漢とは何か?の纏めた文章を頂きました。
軽く目を通しましたが、私が同じものを用意しようとすると2~3日は欲しくなるような作業をものの数分で見られる形に作成できるというのは時代の進歩を感じます。
私個人の頭で考えてては出てこないような表現麗句も散見され、集合知の活用というのはつくづく便利なものです。
幾つかハッキリ誤っている箇所や脈絡の怪しいところはありますが、そうした穴も更なる技術発展で無くなっていくのでしょうし、今でも十分参考に出来ます。
しかし参考には出来ても、やはりこれは私には使えるものではありません。
私自身の積み重ねてきたものから出てくる言葉でなくては、活きて響く言葉とはならず空疎な措辞、絵空事に堕してしまうと思うからです。
丁度先々月にも昭和の禅僧澤木興道老師の言葉を引きました。
「仏法がこの頃は傍観者の観念の遊戯となってしまった。
立ち見席で『何年にお釈迦さんが出てこういった』と、ことづけ仏法になってしまった。
先祖がいくら偉くたって、友人がいくら偉くたって、皆よそごと。
自分はどうじゃ。先祖の講釈。仏教の効能書きをいっているのを分別という。
効能書きをいくら読んでも、病気はなおらん」
また我が宗祖道元禅師は中国に渡った際に老典座から言われた「他は是我に非ず」(人にやって貰った事は自分の修行となることは無い)を大切な箴言として書き留められています。
仏道修行とは、自らの中に宝を掘り起こす様なものです。
それを気付きや悟りと表現する人も居ますが、ここでは体験経験生き方が自らの指針や軸となる、宝となると表現しましょう。
羅漢の会の活動、この精進の時間が私達皆の宝を掘り出す機会となることを願うばかりです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は10月27日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和7年8月 朝坐禅会「指月の会」案内(8月25日朝6時半~)
2025年8月24日悲体戒雷震 慈意妙大雲 澍甘露法雨 滅除煩惱焔
憐れみの体は戒雷に震え、慈しみの心は妙なる大雲の如し。甘露の教えの雨は、人々の煩悩の炎を消す。
『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』
八月は言ってしまえばお寺の繁忙期です。
お盆は殆どのお寺が忙しくなりますし、先祖供養の行事や余所への手伝いが拍車をかけます。
祥雲寺も又8月7日の初盆施餓鬼会、13日から16日の盂蘭盆会、29日に年間最大行事となる全檀家先祖供養の大施餓鬼会と慌ただしいです。
一番体力勝負となるのはお盆の時期です。
13日は朝5時にはお参りの人が来るので4時台に起床して客殿を開け、日が強く照る前にご先祖さんが帰ってくるお墓に鉢を鳴らしてお経を上げて廻る「墓経」を行い、日中はお参りに来る檀家さんの応対となります。
14,15日はお盆のお参り「棚経」の日です。
14日は今年初盆の方のお宅を訪ね、初盆の盆棚にお経をあげて巡ります。
15日は祥雲寺近所の檀家さん宅を巡ります。
朝8時から40件ほどを廻るのですが、昨今の炎天下の中歩いて廻るのが年々難儀になっています。
昨年は午後3時過ぎに熱中症気味になってしまい、先代に残り数件を頼むことになりました。
今年は暑さ対策を準備して臨みましたが、今度は逆に汗が抑えられて方々で出して頂くお茶でトイレが近くなって困ってしまいました。
一年で一番時間に余裕の無い日ではありますが、久しぶりに会う人とお話出来たりする日でもあります。
あるお家に伺いお経をあげての茶飲み話中に、おばあちゃんにこんなことを言われました。
「孫たちが訪ねてきて盆棚にお参りさせたけど、盆棚は行き場の無いご先祖以外の人も迎える場所だと話したら知らない人を迎える必要なんて無いでしょ、と言われて私は慈悲だよ、と答えた。
どう返事したら良かったのかねぇ。」
私はこんな答えをしました。
「まさにそのお答えですよ、慈悲です。
初盆の方にお渡しして盆棚に祀る小さい塔婆にはあらゆる方に施しをする、と書かれています。
それはとても功徳のある供養であるとされていますが、その根底の精神は慈悲からくるものです。
慈悲について考える時、私はいつも思い出すものがあります。
十年ほど前テレビを付けていたら海外の都市を旅する紀行番組が流れていて、東南アジアの仏教国の古都が映されていました。
道行く女性にマイクが向けられて、この町はどんな町ですか、とリポーターが声をかけると、その女性は「困っている人を助けてあげる町ですよ」と答えました。
これはなかなか出てこない言葉では無いでしょうか。
私はそれだけでもその町に興味を持ちましたし、行ってみたいと思いました。
仏教の精神、慈悲の心が深く根ざしているからの言葉なのでしょう。
慈悲の実践の時、正にその人は観音さまの様な広く清らかな心ばえに生きています。
お盆はそうした心掛けで皆さんを迎える時なのですよ。」
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は9月22日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和7年7月 朝坐禅会「指月の会」案内(7月28日朝6時半より)
2025年7月27日慕古真心 不離叢林 『宮崎禅師遺偈』
今月上旬、群馬の高崎で行われた青山俊董老師講演会に行ってきました。
青山老師は尼僧として愛知尼僧堂堂長を務め、また大本山永平寺西堂という重責も担っている生粋の禅僧です。
師家として、世俗に混じることなく仏道を行じてこられた老師の透徹した説法は、日々の檀務や雑務に忙殺されている私を叱り励ましてくれるような、正に叱咤激励をいただいた様な機会でした。
老師曰く、自分には二人、師と仰いできた人が居るとのことです。
昭和の禅僧、澤木興道老師と内山興正老師のお二人で、どちらもご縁と心当たりのある方です。
今回はこのお二人を紹介したいと思います。
澤木老師は明治生まれの禅僧で、清住通りの桂林寺で坐禅会を開き、
祥雲寺の先々代である私の祖父安藤裕之も参学していた方です。
お寺の住職として定住すること無く、本来無一物を実践され、宿無し興道とも呼ばれたそうです。
配布された冊子の方で澤木老師の言葉を紹介されていました。
「仏法がこの頃は傍観者の観念の遊戯となってしまった。
立ち見席で『何年にお釈迦さんが出てこういった』と、ことづけ仏法になってしまった。
先祖がいくら偉くたって、友人がいくら偉くたって、皆よそごと。
自分はどうじゃ。先祖の講釈。仏教の効能書きをいっているのを分別という。
効能書きをいくら読んでも、病気はなおらん」
とても耳に痛い言葉です。
私自身法話を考える時、お釈迦様はこう言った道元禅師はこうされた、等と言葉を引くと同時に、お偉い存在の権威を借りて後ろ盾を得たような気持ちになるからです。
しかし仏教は哲学ではありません。
観念を深掘りするばかりでなく、無常の道理、縁起という真理に即して生きる実践を重んじます。
答えを考えるのでは無く答えに生きるのが仏道を歩む禅僧である。
怠らず励みなさいと響いてくるような、古くとも色あせることの無い箴言です。
もうお一人、内山興正老師は大正生まれの澤木老師のお弟子で、以前お話ししたドイツ人の禅僧ネルケ無方師の修行した兵庫安泰寺の住職です。
内山老師については、以前戒名を考えるにあたり証道歌の「仏性の戒珠心地に印す」というお経の言葉を調べているときに老師のお言葉に出会いました。
「『正法眼蔵随聞記』にも「坐禅は自己の正体なり」という言葉がある。自己の正体とは正気の沙汰ということです。坐禅することがそのまま仏さまになることだというのは,坐禅することでのぼせが下がって正気の沙汰になるからです。だから何度も言うように坐禅しながら考えごとをするのは駄目です。これが一番いけない。この癖をつけたらもう救われようがない。むしろ坐禅して眠るほうがまだ罪が薄いのです。坐禅というのは,うっかりすると居眠りができるほど解放されて,しかもはっきり覚めているということが大切です。この覚めて生き生きしているのが仏性で,そういうのぼせの下がった生命になることを「受戒」という。」
常日頃、坐禅に感じているところをハッキリと言葉にして頂いた様な表現です。
学びと実践、それらが深いからこそ、自らの掘り下げと経典の説く真理が違える事なく言葉となるのでしょう。
素晴らしい先達が沢山の宝の様な輝く言葉の道しるべを残してくれている。
祖父が遺したお二人の本を、今年の課題図書にしたいと思っています。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は8月25日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和7年6月 朝坐禅会「指月の会」案内(6月23日朝6時半より)
2025年6月22日平常心是道 『無門関』
先月末、曹洞宗大本山永平寺へ参拝旅行をしてきました。
富山市内の新名所ガラス美術館を観光して福井永平寺の宿坊に宿泊。
翌日朝のお勤め朝課に参列して三方五湖を観光、小浜の海鮮を食べて観光し琵琶湖ホテルに宿泊。
三日目静岡でトヨタ自動車創業の豊田佐吉記念館を観光し、浜名湖のウナギを食べて帰宅の旅行となりました。
天気に恵まれたとは言えませんが、殆ど雨天とはならずに良い観光が出来、善いお参りが出来たと思っています。
福井県永平寺は曹洞宗を日本で開かれた道元禅師のお寺です。
祥雲寺ではもう一つの大本山總持寺と毎年交互にお参りの旅行をしてきましたが、近年は中の宿坊ではなく門前の宿泊施設に泊まる機会が多くなりました。
今回久しぶりに永平寺の中に宿泊し、旅行参加者に永平寺で行われている禅の修行をより見聞きし感じ取ってもらえる様組み立てた次第です。
夜の法話と早朝の説法を、幸運にも昔ご指導頂いた西田副監院にして頂けました。
夜は浦島太郎を題材としたお話、朝は道元禅師の和歌を題材にお話し頂き、心のアンテナを磨いて頂けたおもいです。
朝の説法の後朝課に参列しましたが、幾度となく勤めてきたのにかつて無く内心は生き生きとして臨めて、ありがたい法要の機会となりました。
大勢の修行僧らで作られるこの荘厳な場、そこに臨むのに感じるこの静かな高揚と開放感は何であるのか、小浜に向かうバスの中でぼんやり考えていました。
もう二十年ほど前、永平寺での修行を終えてもう一つの大本山總持寺で修行している際、正月の参拝者祈祷を担う一年目の私達に、六年目の古参和尚が
「祈祷は諸君の普段の修行で培われた禅定力で祈願され成されるものだ」と訓示してくれました。
当時は聞き流し気味で記憶に止めるのみでしたが、思い返すと肝心な所を教えてくれた言葉です。
禅の修行は坐禅が中心とはなりますが、清規と呼ばれる規則を身につけその生活の所作を覚え込むことが第一となります。
仏の真似を一日真似れば一日の仏、三日真似れば三日の仏、一生真似ればそれは本物。(宮崎禅師)
永平寺の修行とは歴代祖師の在り方生き方を、学び真似び自らの生き方としていくものなのです。
それは不自由なかび臭い、堅苦しい禁則ばかりの囚人の様なものであるのか。
私はそうは感じません。
欲望や自意識といった、重たく縛り悩み煩わせるもの「煩悩」から離れさせてくれる、拘りや囚われのない心で生きることができる在り方こそが仏の道「仏道」です。
この仏道に精進する大勢の修行僧が一様に勤めるのが朝の勤行、朝課です。
お経を読み上げる発声は周囲に合わせる必要はありますが、ただ「朗声」に読め、と言われます。
朗声、朗らかな声。技術に依るのではないその人の腹からの大きな声。
法要はテクニックで見せかけを作るものではなく、平常を仏の道にせんとする僧侶が一心に、或いは虚心に唱え勤め願い奉る、その様に供養の現成を見て感じるものなのでしょう。
永平寺は御詠歌では心の塵を払う場所、と詠み上げられるお寺です。
まさしくそのとおりの、世にも希な、言葉そのままに有り難い場所です。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は7月28日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています




