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令和7年7月 朝坐禅会「指月の会」案内(7月28日朝6時半より)
2025年7月27日慕古真心 不離叢林 『宮崎禅師遺偈』
今月上旬、群馬の高崎で行われた青山俊董老師講演会に行ってきました。
青山老師は尼僧として愛知尼僧堂堂長を務め、また大本山永平寺西堂という重責も担っている生粋の禅僧です。
師家として、世俗に混じることなく仏道を行じてこられた老師の透徹した説法は、日々の檀務や雑務に忙殺されている私を叱り励ましてくれるような、正に叱咤激励をいただいた様な機会でした。
老師曰く、自分には二人、師と仰いできた人が居るとのことです。
昭和の禅僧、澤木興道老師と内山興正老師のお二人で、どちらもご縁と心当たりのある方です。
今回はこのお二人を紹介したいと思います。
澤木老師は明治生まれの禅僧で、清住通りの桂林寺で坐禅会を開き、
祥雲寺の先々代である私の祖父安藤裕之も参学していた方です。
お寺の住職として定住すること無く、本来無一物を実践され、宿無し興道とも呼ばれたそうです。
配布された冊子の方で澤木老師の言葉を紹介されていました。
「仏法がこの頃は傍観者の観念の遊戯となってしまった。
立ち見席で『何年にお釈迦さんが出てこういった』と、ことづけ仏法になってしまった。
先祖がいくら偉くたって、友人がいくら偉くたって、皆よそごと。
自分はどうじゃ。先祖の講釈。仏教の効能書きをいっているのを分別という。
効能書きをいくら読んでも、病気はなおらん」
とても耳に痛い言葉です。
私自身法話を考える時、お釈迦様はこう言った道元禅師はこうされた、等と言葉を引くと同時に、お偉い存在の権威を借りて後ろ盾を得たような気持ちになるからです。
しかし仏教は哲学ではありません。
観念を深掘りするばかりでなく、無常の道理、縁起という真理に即して生きる実践を重んじます。
答えを考えるのでは無く答えに生きるのが仏道を歩む禅僧である。
怠らず励みなさいと響いてくるような、古くとも色あせることの無い箴言です。
もうお一人、内山興正老師は大正生まれの澤木老師のお弟子で、以前お話ししたドイツ人の禅僧ネルケ無方師の修行した兵庫安泰寺の住職です。
内山老師については、以前戒名を考えるにあたり証道歌の「仏性の戒珠心地に印す」というお経の言葉を調べているときに老師のお言葉に出会いました。
「『正法眼蔵随聞記』にも「坐禅は自己の正体なり」という言葉がある。自己の正体とは正気の沙汰ということです。坐禅することがそのまま仏さまになることだというのは,坐禅することでのぼせが下がって正気の沙汰になるからです。だから何度も言うように坐禅しながら考えごとをするのは駄目です。これが一番いけない。この癖をつけたらもう救われようがない。むしろ坐禅して眠るほうがまだ罪が薄いのです。坐禅というのは,うっかりすると居眠りができるほど解放されて,しかもはっきり覚めているということが大切です。この覚めて生き生きしているのが仏性で,そういうのぼせの下がった生命になることを「受戒」という。」
常日頃、坐禅に感じているところをハッキリと言葉にして頂いた様な表現です。
学びと実践、それらが深いからこそ、自らの掘り下げと経典の説く真理が違える事なく言葉となるのでしょう。
素晴らしい先達が沢山の宝の様な輝く言葉の道しるべを残してくれている。
祖父が遺したお二人の本を、今年の課題図書にしたいと思っています。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は8月25日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和7年6月 朝坐禅会「指月の会」案内(6月23日朝6時半より)
2025年6月22日平常心是道 『無門関』
先月末、曹洞宗大本山永平寺へ参拝旅行をしてきました。
富山市内の新名所ガラス美術館を観光して福井永平寺の宿坊に宿泊。
翌日朝のお勤め朝課に参列して三方五湖を観光、小浜の海鮮を食べて観光し琵琶湖ホテルに宿泊。
三日目静岡でトヨタ自動車創業の豊田佐吉記念館を観光し、浜名湖のウナギを食べて帰宅の旅行となりました。
天気に恵まれたとは言えませんが、殆ど雨天とはならずに良い観光が出来、善いお参りが出来たと思っています。
福井県永平寺は曹洞宗を日本で開かれた道元禅師のお寺です。
祥雲寺ではもう一つの大本山總持寺と毎年交互にお参りの旅行をしてきましたが、近年は中の宿坊ではなく門前の宿泊施設に泊まる機会が多くなりました。
今回久しぶりに永平寺の中に宿泊し、旅行参加者に永平寺で行われている禅の修行をより見聞きし感じ取ってもらえる様組み立てた次第です。
夜の法話と早朝の説法を、幸運にも昔ご指導頂いた西田副監院にして頂けました。
夜は浦島太郎を題材としたお話、朝は道元禅師の和歌を題材にお話し頂き、心のアンテナを磨いて頂けたおもいです。
朝の説法の後朝課に参列しましたが、幾度となく勤めてきたのにかつて無く内心は生き生きとして臨めて、ありがたい法要の機会となりました。
大勢の修行僧らで作られるこの荘厳な場、そこに臨むのに感じるこの静かな高揚と開放感は何であるのか、小浜に向かうバスの中でぼんやり考えていました。
もう二十年ほど前、永平寺での修行を終えてもう一つの大本山總持寺で修行している際、正月の参拝者祈祷を担う一年目の私達に、六年目の古参和尚が
「祈祷は諸君の普段の修行で培われた禅定力で祈願され成されるものだ」と訓示してくれました。
当時は聞き流し気味で記憶に止めるのみでしたが、思い返すと肝心な所を教えてくれた言葉です。
禅の修行は坐禅が中心とはなりますが、清規と呼ばれる規則を身につけその生活の所作を覚え込むことが第一となります。
仏の真似を一日真似れば一日の仏、三日真似れば三日の仏、一生真似ればそれは本物。(宮崎禅師)
永平寺の修行とは歴代祖師の在り方生き方を、学び真似び自らの生き方としていくものなのです。
それは不自由なかび臭い、堅苦しい禁則ばかりの囚人の様なものであるのか。
私はそうは感じません。
欲望や自意識といった、重たく縛り悩み煩わせるもの「煩悩」から離れさせてくれる、拘りや囚われのない心で生きることができる在り方こそが仏の道「仏道」です。
この仏道に精進する大勢の修行僧が一様に勤めるのが朝の勤行、朝課です。
お経を読み上げる発声は周囲に合わせる必要はありますが、ただ「朗声」に読め、と言われます。
朗声、朗らかな声。技術に依るのではないその人の腹からの大きな声。
法要はテクニックで見せかけを作るものではなく、平常を仏の道にせんとする僧侶が一心に、或いは虚心に唱え勤め願い奉る、その様に供養の現成を見て感じるものなのでしょう。
永平寺は御詠歌では心の塵を払う場所、と詠み上げられるお寺です。
まさしくそのとおりの、世にも希な、言葉そのままに有り難い場所です。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は7月28日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和7年5月 朝坐禅会「指月の会」案内(5月19日朝6時半~)
2025年5月17日己こそ己の寄る辺、己をおいて誰に頼るのか
よく整えし己こそ、まこと得がたい寄る辺となる 「法句経」
先日、話題の映画「教皇選挙」を見てきました。
世間でもキリスト教ローマ教皇の選挙コンクラーベが話題となっていて、朝一の上映でしたがまずまずの客入りで、関心の高さがうかがえます。
私にとっては異教の話ですが、変化の早い現代社会の中での自身の信仰のあり方に悩む主人公の主席枢機卿の悩みは大いに共感できるところでした。
バチカンの壮麗な宗教建築やそこで働く(神に奉仕する?)人々の動きを映す場面も多く、資料映像としても見応えのあるものです。
映画としての大筋は教皇の死去から始まり、主人公となる老年の主席枢機卿が選挙コンクラーベを運営し、其の中で各立候補者の表と裏が露わになって、有力候補とされる自身の責任と信仰が試され続けていくものです。
パンフレットにありましたがイギリスの俳優はシェイクスピアの悲喜劇を体験することで感情表現に強い傾向があるそうで、主人公の重責と義務感、楽になりたいという思いがひしひしと伝わってきて、見応えのあるものでした。
パンフレットの解説やネットの感想を見るに、主人公の信仰への疑念、悩みの種は数々の騒動を経て解決へと落着したそうです。
他山の石、とはすこし違うでしょうが、枢機卿として集った各人の宗教者としての姿勢や真摯な者の言葉を見聞きする中に解決の道筋を見いだせたのでしょう。
私自身様々考えさせられ、記憶に残る作品となりました。
作中主人公は自らの信仰に悩んでいましたが、では翻って私の信仰とは何であるのか?
私はお寺に生まれ育ち、長男として跡を取らなくてはならないとの義務感から出家し福井永平寺に修行に上がりました。
仏教について駒澤大学で勉強し、字面での知識はあってもさしたる興味関心を持てず、決して発心して僧になったのでは無い私でしたが、永平寺での厳しい修行、12月の蝋八大摂心という大修行で仏心に見えることが出来ました。
坐禅とは疑いなく安楽の法門であり、仏道を行ずるならばどんな人であれ尊い仏様に同じく生きる事ができる事実を目の当たりにしました。
仏教とは修行とは、古くさい形ばかりのものではなく、人が生きる中であれこれ抱えてしまう悩み苦しみを解決できる力があるのではないだろうか。
そう思えて自分で参究しはじめたこの時から、私の本当の意味での出家修行が始まりました。
かつて花園大学の佐々木閑先生は、曹洞宗というのは鎌倉期の日本にあって、仏教の原点であるインドのお釈迦様の教えに立ち返ろうとして八割方成し得た宗派だ、と講義されていました。
我が宗祖道元禅師の信仰とは、歴代仏祖の生き方をそのまま自身の生き方とするものでした。
仏教とは、仏心に生きようとする道筋を説くもので、仏道とは修行とは仏の生き方を学び真似び、自らの生き方としていくことです。
仏心(ほとけごころ)というのは刑事ドラマで人情味たっぷりに使われる情け心なんかではなく、私の坐禅の師である板橋興宗禅師はこんな言葉で示されています。
「偏らない心、拘らない心、囚われない心、広く広くもっと広く、これがお釈迦様の心なり。」
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は6月23日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和7年4月 朝坐禅会「指月の会」案内(4月28日朝6時半より)
2025年4月26日この坐禅会も始まって十年となります。
当初は東京の研修会で聞きつけた「朝活」というものを
市街地隣接の祥雲寺なら坐禅会として行えるのでは、
また修業時代の朝に坐禅する習慣を維持するためにも大勢で行じるならば
無精な私でも楽に、楽しくも出来るはず、と続けてきました。
初心を思い返し、最初の文章を今年も再掲します。
お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。
誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、
誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、
という思いを抱いてはいないか。
その思いがすでに怨みであると知りなさい。
怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。
いっさいの怨みを棄てよ。
今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。
棄てれば、必ず軽くなる。
棄てて、かろやかに生きなさい。
― 『スッタニパータ』第一章 ―
静かな所で何をするでもなく落ち着いて瞑想をすることで心身の調子が整う、という事は昔から広く知られ、行われてきました。
近年では科学的分析により血圧が下がる、海馬の機能が促進され脳内の情報整理がされる、精神安定に重要な働きをするセロトニンの生成が促される、等の効果が確認されているそうです。
しかし坐禅は、これらの効果を内包しながらも、何も求めないで只ひたすらに坐る事こそ最上のものである、と伝えられてきました。
私はそれは、「軽くなる」からだと思います。
人間生きていれば百人百様、様々な想いやしがらみを背負っているはずです。
古人は人生を「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と形容したそうですが、時には荷を下ろし、わが身を見つめ直す時間こそ忙しい現代人に必要な物だと思います。
一人で行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝座禅会はそのような場となる様発起しました。
皆さんと行うこの坐禅の一時が、「軽やかな」時間となることを願います。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は本山参拝旅行の予定があるため第三週月曜日の5月19日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和七年三月 朝坐禅会「指月の会」案内(3月17日朝6時半より)
2025年3月16日諸行無常 「四法印」
月の頭から大分暖かくなって、でも翌週には雪マークが着くくらいに気温が下がって、三寒四温といっても大分極端な気温変化が続いています。
しかしこの寒さからの暖かさ、私は実はちょっと前に熱い地域に行っていたので少し身に覚えが残っているのです。
私は先月下旬、タイに行ってきました。
栃木の曹洞宗青年会、お寺の若手の集まりで、会長職に就いていた人のお疲れ様旅行に久しぶりに海外に出ようと盛り上がり、二泊三日の弾丸スケジュールでバンコク研修旅行をしてきました。
タイは東南アジアの中でも指折りの仏教国で、眺めた観光ガイドでは国民の九割以上が仏教徒の国だそうです。
バンコクでも礼拝のための仏様をお祀りしたお堂がそこかしこにあって、道行く車のフロントには小さな仏様が備えられていたりもしました。
日本と違って石造りの寺院や仏像が多いのは、産出され加工しやすい以上に地震が少ないからなのでしょう。
いつもお墓を新しくする石塔開眼の際にお話ししているのですが、私は石造りの墓や仏像というのは、何年経っても変わることのない石の不変性、長い時を超える永遠性に願いや祈りを託したいという想いから産まれるものだと思っています。
お墓であるなら石の変わり様の無さに故人の存在やご縁を託すことが出来る様に、仏像であるなら尊い方の姿や教えの素晴らしさ有り難さが表され、遠い未来までも変わりなく伝わるように、といった想いから文化や人種の違いなく世界共通に人々が行っていることなのでしょう。
石のような鉱物に対して私達は、あっという間に変化していく有機物の、肉の体に生きています。
私たちは皆、何某かの縁によって結ばれ連なり、生まれ育って、やがて老い枯れ朽ちていきます。
全ては変化していく、留まることはない、ならばそんな変わりゆき捉えることの出来ないものに心縛られ囚われる必要なんて何処にも無い、無いんだ。
仏教ではこれを諸行無常と呼んでいます。
私には、この諸行無常を違う視点で教えてくれた、ある小説を今もはっきりと憶えています。
学生時代の頃に読んだ作家村上龍の小説の中で、ウィルスの猛威に無力を感じる人に老生物学者が静かに語ります。
「我々の体を構成する分子は脆くて壊れやすい繋がり方で繋がっている。
だから化学反応が可能で、全体として信じられないような生体のシステムが生まれた。
強い結合で結ばれれば鉱物になってしまう、鉱物は何億年経っても殆ど変化がない。
人間は柔らかい生き物だ、その柔らかさ、脆さ、危うさが人間を人間たらしめている。」
私たちは変化するからこそ何事かを成すことが出来る。
変わるものと変わらないものの違い。
変わらないものには成し得ないことを私たちは成せる、無常という道理はこんな受け取り方も出来るのかと、多面的な捉え方や受け取り方の大切さを今でも考えさせてくれます。
今祥雲寺ではまさに石造りの仏様方である五百羅漢が彫り上げられ、今年五百体完成が目されているところです。
良い形で未来へ伝えてゆけるように年末の完成開眼法要に向けて準備をしていきたいと思います。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は4月28日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています