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1月観音朝詣りの案内
2024年1月21日新春が能登半島地震という大災害で明けました。
毎日伝えられる被災地の惨状に心が痛みます。
倒壊した家屋群。
家屋を押しつぶし道路を寸断する土砂崩れ。
避難所の過酷な生活環境。
一昨年の本山参拝は、平成19年の能登地震からの復興を遂げた大本山總持寺祖院に参拝し奥能登を観光しました。
その時の美しい風景と、輪島朝市などで接した地元の人たちの人情が思い起こされます。
能登は曹洞宗にとっては特別な場所です。
故郷と言ってもよい。
瑩山禅師、峨山禅師と相続された能登總持寺に全国から傑出した修行僧が集まり、曹洞教団が生まれることによって、道元禅師の教えが民衆に伝えられるものとなりました。
修行道場を支えたのは能登の人であり能登の風土です。
歴史の変転はあっても、曹洞宗の僧として私は能登に縁を感じ、特別な思いを持っています。
この度の震災への支援は、現段階では国を始めとする行政、自衛隊など専門性の高い機関が行なっています。
しかし、間もなく国民全体の力が必要な段階になります。
その時のために、私たち一人一人が何かの役に立っていこうという覚悟を持たねばなりません。
祥雲寺では受付に義援の募金箱を設置しました。
集まったお金は、お賽銭などと合わせてシャンティボランティア協会(SVA)に寄付します。
皆様の周りにも、募金に限らずいろいろな支援の窓口があると思います。
それぞれの立場で、ささやかでも何か行動を起こしてください。
他人事ではありません。いつか必ず来る南海トラフ地震に備えても。
日本は必ず起こる天災を助け合いで乗り越えてきた国です。
SVAは、曹洞宗から生まれた国際ボランティア団体で、カンボジア、ミャンマー等で難民支援を行なっています。
阪神大震災、東日本大震災などでは海外で培われた非常時への対応力で効果ある支援活動を行ないました。
それだけでなく非常事態を過ぎた後のお年寄り、子供達への精神的なケアを長期間行ないました。
団体の活動、実績、運営等の詳細はネットで常時公表されています。
令和6年1月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前9時から行います。
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12月観音朝詣りのお知らせ
2023年12月24日同事といふは不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり
道元禅師「正法眼蔵」
「同事」の教えは自他を区別しないことである。
仏 教には菩薩の理想的な生き方を示した四攝法という教えがあります。
布施、愛語、利行、同事という教えです。最後の「同事」は、文字からだけでは意味することの見当がつきません。
私は毎月のこのお便りで、その一つ一つについてたびたび取り上げてきました。
「同事」については、退任記念文集「守拙」に「いつもニコニコ」と言う題を付けて採り入れた一文の中で、仏教辞典にある「協同」という訳語を紹介し「信頼」と訳してもよいのではないかと記しました。
これについて足利市長林寺住職矢島道彦先生からご教示を受け、私の「同事」の教えについてのとらえ方が不十分であり誤りもあることに気づきました。
そこで、改めて私なりに説明いたします。矢島先生の著書を踏まえたものです。
「同事」の本来の意味は「同自己」とも訳するもの、即ち他人が自分と同じ存在であることを自分の心の内に認めて自他を分けへだてしないことを意味します。
そうするとどのようなことが起きるのか。
私たちは生きることを願い、死を恐れています。
楽しいことを願い、苦しみなかれと願ってもいます。
そういう自分の身に引き比べて、他人の喜び悲しみ苦しみも同じであることを認め、深く共感して共に生きていく道を歩むことになります。
このような生き方からは差別は起こりません。
力を合わせて生きとし生けるものが皆幸せである世界を作っていこうとする行ないの源となる思想です。
「同事」は、仏教の慈悲の根本を表わす教えでした。
令和5年12月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時半から行います。
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9月観音朝詣りのお知らせ
2023年9月23日インターネットは、益々国民の生活に定着してきました。
いろいろな情報を受け取るにも、年代が若くなればなるほどテレビや新聞よりもネットを利用する人が多くなっているようです。
そうした中で「炎上」という言葉を多く目にするようになりました。
ある人の発言や行動に対して、たくさんの人からネット上で非難の言葉が投げつけられる状態です。元になる発言や行動が、暴言であったり、時には破廉恥なものであったりする場合が多いのですが、発言が一理あっても社会通念と異なるものだった場合もあります。
ともかく、非難の発信者は姓名を隠しています。
それがネットの特質であるとも言えるのでしょうが、これはずいぶん不公平な意見交換のあり方です。
もっといえばおのれを隠して人を誹謗中傷するのは卑怯です。
仏教では人間の為す悪行を十挙げています。
その中で言葉に関わるものは四つ、妄語(偽り)悪口(粗暴な言葉)綺語(ざれ言)両舌(かげぐち)です。誹謗中傷は両舌に分類されます。
人に過ちがあると思えば、堂々と自分の姓名を名乗って批判すればよい。
その言葉が激しくて非難になるのは感心したことではないがまだ許せる。
それは相手から反論、非難される危険を自らに負わせているからです。
発言の責任を最低限取っていると言えます。
例外はあります。
相手が強大な力を持っていて、名を名乗ることによって発言者が危険や不利益にさらされる場合です。
政治的信条に関わることや組織の内部告発など公平な社会の実現のために匿名が許される場合もあります。
しかし「炎上」とは別のものです。
おのれの安全を確かめて人を誹謗中傷する人が、世のためになる意見を言えるとはとても思えません。
というよりも、自らの人間性をおとしめていく行為であり、特にこれからの世を造っていく若者には、是非やめてもらいたいと思います。
令和5年9月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
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7月観音朝詣りのお知らせ
2023年8月27日安倍元首相が亡くなってから一年が経ちました。
事件後に報道された襲撃犯の動機は、国民にとって思いもよらないものでした。
そこから明らかになったのは、元首相と旧統一教会とのつながりであり、それが極めて多くの保守政治家に及んでいるということでした。
先日、TBSテレビの報道検証番組で、統一教会の現教祖が日本の幹部達に、日本からの献金をもっと増やせと叱りつけている内部映像が放映されました。
事件後一年間に起こった同協会に対する日本での批判を考えると、信憑性すら疑いたくなる画面でした。
そこでの彼女の主張は、韓国を父の国、日本を母の国とし、日本は戦犯国として歴史の中で悪行をなしたのだから、父の国に貢ぎ続けねばならないのだという支離滅裂なものです。
しかしこれは教会が以前から説いてきたことであり、何一つ変わっていないことを示すものでもあります。
私が腹立たしく思うのは、日本の政治家達のこの問題に対する姿勢です。
韓国から繰り返し出される日韓併合時の補償要求に対し批判的な立場をあらわにしてきたのは保守政治家であり、それは多くの国民から支持されてもきました。
教会の主張と行動がそれに全く反するものであり、反社会性さえ持つ経歴があるのですから、断固たる措置を講じようとするのが普通です。
しかし、当初の教会と縁を切るというのは掛け声だけの感があり、癒着が疑われる政治家は堂々と政権獲得に意欲を燃やす始末です。
想像されるのは、教会による選挙協力が政治家達の当選に必要不可欠になっているのではないかということです。
落選すれば政治家ではない。
選挙協力を受け容れるのは法律に違反するものでもない。
それが政治家としての信義にもとるものであってもみんなでやれば言い訳も立つ。
彼らの考えは、こんなところでしょうか。
議員である前に、筋の通った政治姿勢を保たねばならない。
垣間見えるのは世に対するへつらいです
。保守、革新に関わらず、政治家にはしっかりしてもらいたいものです。
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
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6月観音朝詣り
2023年6月24日一切の生きとし生けるものは幸福であれ。
スッタニパータ145偈 中村元訳
生きとし生けるもの。なんと美しい言葉でしょう。
私がこの言葉を初めて目にしたのは、古今和歌集の序文です。
紀貫之の仮名序は「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」に始まり、「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」と人が感動を言葉にし、歌にすることを述べています。この世にある天地万物と吾(われ)が一体となっているという共感から生まれた感動であり、生きとし生けるものという言葉にはこの世界に生きるものへの限りない愛おしさが込められています。
この言葉を知ってまもなく、岩波文庫の「ブッダのことば-スッタニパータ」を読んでいた時に目にしたのが冒頭の言葉です。
スッタニパータは、最も早くに編まれた経であり、お釈迦様の肉声をそのままに伝えるものがあるといわれています。
特に、143偈から152偈までの10の詩は慈しみの経といわれ、タイやスリランカの仏教徒は毎日となえているそうです。
中村博士がいのちあるものの訳に生きとし生けるものということばを当てたことも素晴らしいと思います。
さすがお釈迦様の教えに最も精通した大仏教学者です。
冒頭の言葉の全文を記します。
一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも悉く、長いものでも、大なるものでも、中位のものでも、短いものでも、微細または粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに或いは近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは幸福であれ。
お釈迦様の慈しみであり、憐れみです。それはそのまま仏教徒の祈りです。
令和5年6月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います