ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

新着ブログ

  • 平成30年6月 観音朝詣りのお知らせ

    2018年6月18日

    琵琶湖畔、渡岸寺

    露に濡れる新緑の中の参拝となりました。

     

     本年の本山参拝、永平寺参拝の帰りに、滋賀県長浜市渡岸寺の十一面観世音菩薩を拝んできました。

     平安時代初期、貞観年間の頃制作されたと推測される国宝の観音像で、日本彫刻史上最高傑作であるという人もいます。

    それは、この観音様がただ美しいだけではなく、人間の持っている様々な心性に対応して仏様の世界に導く力を像の中に秘めているからです。

    頭上に戴く渋面のうち七面が、怒りをあらわす表情で、人間の悪心を滅することを表しています。

    とくに真後ろにある暴悪大笑面は、悪を笑って仏の道に入らしめるはたらきを示すものですが薄気味悪く、まるで悪魔の表情です。

     

     白洲正子さんは、名著『十一面観音巡礼』の中で、これらの表情は、この仏像の製作者が自ら体験したものから生まれたのだと想像しています。

    この時代の仏師は仏像を造ることが修行であり信仰の証しであって、仏像は、仏法という共通の目的をめざして、一人一人が造りあげた精神の結晶だというのです。

    傾聴すべき言葉と思います。

     

     芸術家によるものであれ、職人によるものであれ、才能と修練の技を持って精魂を傾けて造りあげられたものは人の心を打ちます。

    仏像がそれらの芸術品、美術品とちがうのは、それが俗世間を超越したものであるという信仰によって拝まれるものであるということです。

     

     私は、東京国立博物館で仏像の展覧会があると、必ずといっていいほど見に行きます。

    そのときにどうしても感じてしまうことがあります。

    それは、これらの仏様が、美術品鑑賞の眼にさらされるものではないということです。

    正面だけでなくあらゆる角度から見ることが出来るように展示された御像は、美術品の鑑賞としてうってつけです。

    私も鑑賞の眼になってしまいます。

    しかし、仏様は拝むものです。

     

     渡岸寺の観音像は、姉川の合戦の時には、村人によって地中に埋められて破壊を免れました。

    信仰を伝えて来た地で拝むことが出来てよかったと思います。

     

    平成30年6月15日

                                  祥雲寺住職 安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 30年5月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

    2018年5月27日

     

    五月晴れの境内

     

    正に良薬を事とすることは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。

     

    五観の偈

     

    先月に二つの仏教研修会に参加しましたが、そのどちらでも強調されていたのが「仏教は禁欲ではなく制欲、欲を制御していく」という点でした。

     

    欲は人を惑わすものですが、人を生かしているのもまた欲です。

    故に欲を程々に抑え、過度の欲に惑わされない習慣を身に着けていくのが仏教の修行となります。

    上記の「五観の偈」は食事の際の心得を5か条であらわしたもので、その内の4番目になります。

    生き物は皆、食べなければ弱り、死んでしまいます。

    それを病とみなし、死を「形が枯れる」形枯と形容して、食事を病に対する薬と心得ていただくように、と書いています。

    それは、食欲こそが他のあらゆる欲求の起点となる欲であるからこそです。

    故にこそ、過度の貪りに陥ることが無いよう、薬と心得て用法容量を考えることの大切さを説いています。

     

    私が20代のころにこの言葉を聞いても、さほどの感銘を受けることはありませんでした。

    しかし、30も半ばを過ぎた今になってみると、以前よりも重くこの言葉が響くようになりました。

    それは、若さに由来する驕りが抜けてきて、薬の大切さが身に沁みる年代になったことも大きく関係しているのでしょう。

    ですが何より一番の要因は、形枯つまり枯れていくことを意識するようになったからです。

    人は皆生まれ育ち、枯れて死んでいく。それは避けられないものなのだから、ならばこの形枯、老いに真摯に向き合わなくてはならない。

    そう思い、良薬を事としなくてはと考えてみると、過食の欲求はいささか遠くに感じるようになりました。

     

    今の時点でこのような感想なわけですから、40代になってみるとまた違う感想になるのかもしれません。

    願わくはこの5か条の5にあるように、仏道を成ずる為に食を戴く、という心境に近づけるよう、今日も精進を心掛けたいです。

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。

    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。

    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。

    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

     

    日時:5月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

       6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

       7時20分~8時(二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

     

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

     

  • 平成30年5月 観音朝詣りのお知らせ

    2018年5月17日

     

    茶道教室のお茶会

     

    こちらは椅子席でのお点前

     

    対馬に行きました。

    朝鮮半島から直線で50キロほど、邪馬台国の時代から日本の入り口に当たる島です。

     

    由緒ある神社が多く、平安時代初めの延喜式には29座もの社の名が挙げられていて「神々の島」と云われます。

     

    お寺もたくさんあります。

    室町時代以降に開かれた曹洞宗寺院だけで51カ寺もあります。

    対馬や隣の壱岐からは、私の尊敬する高僧が何人も出ているので、それらの方々が息をした空気に触れたいという思いもありました。

     

    南北厄80キロにわたる島は、全体に山が連なり、平地はほとんどありません。

    入り江が入り組んだ複雑な海岸線と山の緑が相まって、澄み切った美しい景色を造っています。

     

    行ってみて、改めて思い起こされたことがあります。

    それはこの島が防人の島であったことです。

     

    飛鳥、奈良時代に国境警備のために東国から防人が徴発されました。

    役務は三年。

    集合地の難波津より東の行き帰りの旅は自費でしなければならなかったため、行き倒れになる人も多かったと伝えられます。

    九州から洋上130キロ余り、はるばる赴いたこの島での故郷への思いはいかばかりであったでしょう。

     

    万葉集には防人の歌が100首ほど載せられています。

     

    旅行(たびゆき)に 行くと知らずて 母父に

    言(こと)申さずて 今ぞ悔しけ  (下野の防人の歌)

     

    親に告げることもできずに旅立ち、任地に来て、明日をも知れぬ今日の身を思い、悔やんでいる兵士の歌です。

     

    唐衣(からころも) 裾(すそ)に取りつき 泣く子らを

    置きてぞ来のや 母なしにして  (信濃の防人の歌)

     

    妻を亡くし、育てていた幼き子供たちを置いて兵役に就かざるを得なかった父親の歌。

    悲痛この上ありません。

    歴史の島は、いにしえ人の息づかいを今に伝えてくれます。

     

    平成30年5月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の朝詣りは午前6時から行います。

     

  • 30年4月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

    2018年4月21日

     

    今年は暖かい日が続いたので

    例年より藤の花も早く咲き始めています。

     

    本堂前のツツジも色鮮やかに咲き始めました

     

     

    四諦「苦集滅道」

     

    お釈迦様は出家をされ、最初は苦行の世界に道を求めました。

     

    当時インドでは、肉体を不浄なものとして痛めつけることで清らかなるを目指す、という考え方のもと、多くの修行者が苦行に励んでいたようです。

    その中でお釈迦様は6年間苦行に明け暮れますが、肉体を苦しめる道に答えを見出すことは出来ないとして苦行をやめ、菩提樹の下での坐禅に臨み悟りをひらかれました。

     

    お釈迦様の悟りとは、この世が無常であるということです。

    すべてのものは変化していきそのままであることはなく、だから思い通りになるはずもない。

     

    そんな中で私たちはどうやって生きたら、どうしたら安心を得ることが出来るのか。

    それを説かれたのが四つの真理、四諦という教えです。

     

    世に苦しみ(苦)がある。心を悩ますことがある。

    それはこの世の全てはつながり、縁起によって集まって存在している(集)から確固とした永遠不滅のものはなく、故に望むままには生きられない。

    そんな中でどうしたら苦しまずに生きられるのか、望ましい状態になれるのか、苦しみから離れる(滅)ことができるのか。

    それには中道(道)を歩むことだ。偏らない、拘らない、捉われない生き方をすることだ。

     

    欲に振り回されることで執着が生まれ、迷い惑い苦しむことになります。

    だから欲に振り回されない人間になるように、生活を正し、正しい習慣を身に着けていく。習慣づけていく中で心が正され、それが心の平安「平常心」へとつながるのです。

     

    仏道修行とは日常生活でいかに己を律し、正しい習慣を身に着けて生活できるようにするか、なのです。

    それを説き、実践する道場としてお寺が有れる様、今日も精進を心掛けたいです。

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。

    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。

    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。

    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

     

    日時:4月23日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

       6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

       7時20分~8時(二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

     

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

     

  • 平成30年4月 観音朝詣りのお知らせ

    2018年4月17日

     

    坐禅堂の聖僧さま。坐禅をする文殊さまをお祀りします。

     

    私は美術品、芸術品を見るのが大好きです。

    とはいっても骨董収集の趣味はまるっきりなくて、もっぱら美術館、博物館、展覧会での鑑賞です。

     

    高校の修学旅行で出会った京都の太秦広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像。

    頬に寄せた指先から魂がすくい上げられていく思いがした感動は今も残っています。

     

    40年近く前、池袋の東武美術館で見た高麗青磁器の数々も忘れません。

    青く美しく深みのある色は、人間が作り出した宝石だと思いました。

     

    台湾の故宮博物館の中国明代の磁器も素晴らしかった。

    黄、赤、青など鮮やかな色どりで飾られた寸部の隙もない造形の壺や皿はまさに完璧と言っていいものでした。

     

    年齢を重ねるに従って惹かれてきたものもあります。

    侘(わ)び、寂(さ)という表現で表される芸術品です。

    これは、日本人が培ってきた精神風土のなかから生まれたものです。

     

    備前焼や信楽焼など、本来は日用雑貨であるものに芸術的な意味合いを見出した人達がいました。

    見方によっては、完成された美しさをもった中国の磁器と比べるとガラクタです。

    ゆがんだ形や、割れて釘止めした器にも風情を見いだしました。

     

    破袋(やぶれぶくろ)という銘の水差しを見たときにはびっくりしました。

    水入れなのに胴の表面は大きなひびが入っていて形もゆがんでいる。

    全くの失敗作のようですが、差し口は大きく重厚さに満ちている。

    まるで土が自らをこね上げて創り出したようで、まことに雄渾なおもむきです。

     

    調和のとれた美しさに心洗われるのも人間、ゆがみや破れなど調和の対極に心をゆすぶられ力づけられるのも人間。

    そして調和も不条理もこの世界、宇宙、天地万物の中にあるものであり、人間も、その精神もここから生まれたものです。

     

    この世界の持っているものと人間の精神が感応して、人間にとって意味あるものとして現れ出でたのが芸術であり、それを生み

    出すのが芸術家であるといえましょう。

     

    平成30年4月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の朝詣りは午前6時から行います。

     

祥雲寺行事案内

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