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令和6年3月 朝坐禅会「指月の会」案内(3月25日朝6時半より)
2024年3月24日智慧が輝き、慈悲が潤う 『パーリ相応部』
上記の言葉は大変古い仏教経典の言葉です。
智慧と慈悲、仏教の中心となる両輪であり、ご本尊、お釈迦様の両側には脇士として智慧を表す文殊菩薩、慈悲を表す普賢菩薩が控えているものです。
さて、先日読売新聞を見ていて「仏の教え AIが説く」という記事が出ていました。
京都大学の教授である浄土真宗の住職が経典を機械学習させて対話型AIを作成しているそうです。
曰く、現代の仏教は人々の悩みに答えられていない、誰でも仏の教えに接する事の出来るAIを開発したい。
少子化での社会の縮小に対してもネットを活用した、寺院や布教活動の存続は考えられる。
最新技術を用いて人の心の状態を解明し、安らぎや活力を増大させる社会の実現を目標とした計画も進んでいる。
仏教経典は八万四千の法門とも言われる膨大な量があるが、AIなら全てを網羅し真の理解に近づけるかもしれない。
とのこと。
技術の発展というのは様々な難関をクリアしていくもののようで、不可能を可能にする進歩とは晴れやかなものなのでしょう。
私も大学時代に、仏教学ゼミの提出物のために取り組んで挫折した原始経典の勉強も、これがあったなら話は違っていたかもしれないです。
ただ記事に書かれているような「ブッダボット」という呼び名は改めて欲しいものです。
敬意に欠ける呼び方に思えますし、商業的な扱いになればぞんざいにされてしまいそうと懸念します。
以前東京の勉強会に出ていたとき、山梨のお坊さんがこんなことを言っていました。
「葬祭業の展示会でペッパー君の様なロボットにお経を再生させ鐘と木魚を叩かせ、法話も過去の高僧の録音を流している。その内僧侶の仕事が奪われるのでは?」
私は別の見方をするべきではないかと思ったものです。
仏教は智慧の眼(まなこ)を開き、慈悲の心に生きる宗教です。
私たちの体は柔らかく脆く、だからこそ育ち働き、それが故に枯れて亡くなっていきます。
みんなみんな無常の道理の中で生きているんです。
同じ喜びと悲しみを背負うともがらだからこそ、同じ目線で慈しみ、無常の道理を受け入れていく言葉をかけてあげられるのが僧侶であるはずです。
ペッパー君やAIの再生する言葉にどれだけの人が共感できるというのでしょう。
そこを心配するのではなく、どんな言葉で故人と遺族に向き合うかの言葉を磨くことにまず取り組むべき、なんて思いながら聞いていました。
時代が進み技術が発展していく中、お寺のあり方や仏教への取り組み方も変わっていくのでしょう。
布教の試験の際、ある老師に使命感を持て、とハッパをかけられたことが記憶に焼き付いています。
お坊さんとしての使命を果たし、お寺を人々の良き仏縁の場として伝えていけるようこれからも取り組んでゆきます。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は4月22日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
3月 観音朝詣りのお知らせ
2024年3月24日歌は世に連れ人に連れ、といいます。
流行歌はその時々の庶民の心を表わしていて、振り返れば時代の貴重な証しです。
放映中のNHK朝ドラ「ブギウギ」を面白く見ています。
昭和20年代の流行歌手笠置シズ子をモデルにしたドラマですが、主演の趣里さんの歌唱と踊りがふんだんにちりばめられていて、それだけでも楽しい。
私の生まれた頃はこんな歌が流行っていたのかと思いました。
それと同時に、戦争を感じます。
ドラマ前半の戦前戦中分はもちろんですが、戦後分にも庶民の生活に戦争が色濃く影を落としています。
小学生や中学生の頃、大人から歳を聞かれて答えると、「昭和23年生まれか。少し楽になった頃だな」といわれたのを思い出します。
「リンゴの唄」と共に映し出される闇市、「星の流れに」に歌われた街娼たち、みんな戦争の傷跡を負いながら生き抜いてきました。
その時代の人にとって、ブギウギのような明るい曲はどんなにか癒やしになり、励ましになったことでしょう。
軍国主義、敗戦、民主主義、復興、大変化の時代に生きた人たち。
それは私からは親達であり、先輩である世代の人達ちですが、生まれた年によって見える景色も違っていたように思えます。
若者に限っても、小学校を卒業すると多くが生業に就くか奉公に出た世代から、義務教育化された中学校に通った世代の間にはいくらも年齢差はありません。
彼らは混沌の時代に日本の未来を託されました。ドラマでも歌われましたが「青い山脈」は、若者には新生の讃歌として迎えられたはずです。
ドラマに出てくる赤ちゃんは、まぎれもなく私の同世代です。
私たちには、戦争のない幸せな時代に生きてほしいという祈りが込められたと思います。平和な世界を造るために力を尽すのは、後期高齢者になっても私の世代の義務であると思っています。
令和6年3月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
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令和6年2月 朝坐禅会「指月の会」案内(2月26日6時半より)
2024年2月25日仏性の戒珠心地に印す 『証道歌』
二月に入ってから多忙になり、中々掃除もままならない日々が続いています。
なんとか春の彼岸迄には寺務関係の整理整頓を済まし、境内を整えていきたいところです。
先日お葬儀に際して戒名を考案する際に、上記の文言を引用して作成しました。
戒名というのは仏弟子となるにあたって授かるものです。
俗世間の道理の中から離れ、無垢清浄の仏道に生き方を改めるに際して、その名前から改めるのが戒名授与、そして仏の教えそのものである仏戒を授かる授戒となります。
お葬式とは、故人を仏として引導し、これからの道行きが清らかなることを願い祈る、授戒を行う儀礼です。
故に戒名とは仏と成るにあたって授かる新しい名前なのですから、決して疎かに用意されるものではありません。
故人の経歴、資質、徳行そして仏道をこれから歩む者への願い祈り、それらを勘案してつけられる宗教上の名前となります。
戒名を作成する際、経典や祖録を出典に準備することはよくあります。
上記の文章の出典である『証道歌』は中国禅宗の古いお経で、禅の心悟りの境地を数十の詩の形で歌い上げたものです。
祥雲寺では三十三回忌の供養収めの際に参列者と御一緒に読経し、また新住職の就任式である晋山式では、本堂前に立てる大塔婆に別の一節を書き記しました。
証道歌から用いようと内容の吟味検討に資料を漁っていたら、こんな解説に行き当たりました。
「のぼせが下がった生命。是が仏性です。
『正法眼蔵随聞記』にも「坐禅は自己の正体なり」という言葉がある。
自己の正体とは正気の沙汰ということです。
坐禅することがそのまま仏さまになることだというのは、坐禅することでのぼせが下がって正気の沙汰になるからです。
~中略~ 坐禅というのは、うっかりすると居眠りができるほど解放されて、しかもはっきり覚めているということが大切です。
この覚めて生き生きしているのが仏性で、そういうのぼせの下がった生命になることを「授戒」という。
戒といえはすぐ「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」と思いがちだが、そういうことではない。
~中略~ 戒律を授かるとは、仏さまから伝わっているほんとうの自己の正体、のぼせが下がった生命に目覚めるということです。
そういう達磨所伝の心、心地に落ち着くことがすなわち「仏性の戒珠心地に印す」です。」
この解説文は内山興正老師の『禅の心悟りのうたー証道歌を味わう』からの抜粋です。
昔の禅僧らしい、自己の到った見地を元に話されるので、自由闊達で地に足就いた、腑に落ちやすい説明です。
故人は若い頃のご苦労が良い仁徳に実り、裏表無く真心で接する徳を育まれ、だからなのか虚心坦懐に多くの人と交友していたことに由来して引用しました。
もって故人の冥福を祈る一助となれば幸いに思います。
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2月 観音朝詣りのご案内
2024年2月17日德あるは讃(ほ)むべし、德なきは憐(あは)れむべし
修證義第4章
道元禅師が、愛情のこもった言葉の大切さを説いた教えの一節です。
この言葉がある文章では、母親が赤児に対して抱くような深い愛情に裏打ちされた言葉が、天をもめぐらす力があるのだと禅師は仰っています。
ここで「あはれむ」という言葉の意味を正しく捉えることが大切になります。
この言葉には、弱い立場や逆境にある人に対して何とか救ってあげたいと思う「かわいそう」と繋がる感情が込められています。
そのことは良いのですが、私たちは弱い立場や逆境にある人に対して、自分より劣ったという差別の感情をかかえがちです。
その思いから発せられる憐れみの言葉は決して人を救う言葉とはなりません。
今年の大河ドラマの主人公紫式部が作者の源氏物語は、平安文化の結晶であり日本を代表し世界に誇る文学です。
その源氏物語の主題について、江戸時代の国学者本居宣長は「もののあはれ」であると言いました。
「あはれ」あわれ、哀れ、憐れ、という言葉はたいへん奥の深いものです。
本来、強い感動を示すときの言葉で、喜びにも、賛嘆にも使い、そしてかなしみの感情を伴います。
「あはれむ」は「あはれ」の動詞のかたちで、愛情、愛惜の思いを含む言葉です。
源氏物語は、時代を経て教理的な無常観や儒教の勧善懲悪の観点から読まれるようになりました。
それを本居宣長は王朝文学本来の読み方に戻したのです。
「もののあはれ」には、苦悩に満ちた王朝女性が折に触れて感じた、しみじみとした情趣や無常観的な哀愁が込められているといわれます。
道元禅師は、王朝文化の素養豊かな家に生まれ育たれた方です。
「德なきは憐れむべし」という言葉には、生きとし生けるものへの深い愛惜の思いがこもっていると思います。
令和6年2月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前9時から行います。
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令和6年1月 朝坐禅会「指月の会」案内(1月22日朝6時半より)
2024年1月21日いっさいの怨みを棄てよ。
今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。
棄てれば、必ず軽くなる。 『スッタニパータ』
先日ある方のお宅にお伺いしたとき、引きこもりになっている息子さんと少しお話をしました。
曰く、職場でいじめに近い扱いを受け、疲れてしまったのだと。
親御さんも当然心配されているので、どうにかならないかという期待の籠もった視線が感じられました。
私も東日本大震災でボランティアをしていた時等で傾聴活動の為避難所を廻ったりしていました。
お坊さんだからこその安心感をもって貰いやすいからとの要望が複数あったものです。
その時にまとめ役の方からよく言われたのが
「君たちが問題を解決しようとするものではない。
私たちがやるのはお話に真摯に耳を傾けること。
誰かに話したい、聞いて欲しい、そうした要望に丁寧に寄り添うことだ。
社会的な物は別にして、個人的ななやみや問題は結局は当人にしか解決は出来ない。
私たちに出来るのは自分で問題に向き合えるようにアシストすることなんだ」
今でも良く憶えています。
お話をご家族から聞く中で、お母さんから心に抱えてしまう物をどうやり過ごすのか、何か秘訣はないかと聞かれました。
若干悩んでしまう問いです。容易に答えられる物ではありません。
昔ある席で20年経っても怨みは無くならない、骨になって墓に入るまで消え去らない、と吐露されたこともありました。
それでも、胸に抱えた怒りや怨みは沢山の物を損なってゆきます。
抱えている限り、思いに焼かれて疲れてしまいます。
上記の言葉は、お釈迦様がスッタニパータという経典で説かれている言葉です。
お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。
誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、
誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、
という思いを抱いてはいないか。
その思いがすでに怨みであると知りなさい。
怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。
いっさいの怨みを棄てよ。
今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。
棄てれば、必ず軽くなる。
棄てて、かろやかに生きなさい。
どう捨てるのか、捨てる手法として、個人的には趣味の山歩きかサイクリングがありますが、お坊さんとしてお勧めするのはやはり坐禅です。
坐禅は、身を正し呼吸を正す、それだけに集中し没入していると、波風経っていた自分がいつしか正されて静かになっていきます。何もしない何も考えないことに没頭するのです。
私は坐禅は様々抱えてしまう物から自由になるものだと思っています。
今回の事はどうなるか解りませんが、機会が合えば、一緒に坐りませんかとお誘いしたいです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は2月26日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています