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令和6年6月 朝坐禅会「指月の会」案内(6月24日朝6時半より)
2024年6月23日衆生無辺誓願度 「四句誓願文」
祥雲寺海外仏跡参拝第三弾、インドネシアボロブドゥール仏跡参拝旅行に行ってきました。
大変楽しい旅となり、また違う文化圏違う宗教の国に行くというのは、これまでと違った見方を体験できる得がたい機会でもありました。
インドネシアはかつてはヒンズー教と仏教の国でしたが、現在ではイスラム教徒が八割の国で、仏教徒は人口の1%未満程だそうです。
戦後の頃に中国系インドネシア人の僧侶ジナラッキタ師を中心に仏教の復興運動が興りました。
ジナラッキタ師は観音信仰の家に育ち、長じて大乗と上座部両方の教えを受けられて、だからこそ
どんな形の仏教であれ、それが等しく釈尊の教えを受け継ぐものならば、必ず優れた思想を含んでいて、尊重することが大切であるとのスタンスをとり、宗派や人種など様々在る垣根を越えてイスラム教徒が大半の国に仏教の花を再び開かせました。
「純粋な仏教などあり得ない。仏教徒であることが第一に重用だ」という言葉に、師の姿勢が良く表れています。
最近『ブッダという男 初期仏典を読みとく』という本を読み、色々と考えさせられました。
曰く、仏教学を学び古典を紐解く者は釈尊を現代の価値観から見ても理想の人格者として強調する誘惑に常に駆られる。
今日の倫理道徳規準から見ても遜色の無い、先駆的な偉大な人物であると描き出す風潮がある。
著者は学者としてそこに疑義を唱え、可能な限り脚色を交えない、紀元前のインドに生きた一個の人間で在り、また様々な壁を乗り越えた特異な人物である釈尊を見いだそう、と挑戦する本でした。
私も講義の先生から釈尊は説教の際には弟子達に「友よ」と語りかけて上下の別無く交わられていたと聞いたりもして、思い当たる節が色々浮かんできます。
学問的研究の発展により、昔は釈尊の直言と言われていたお経が、後世の僧侶による創作「偽経」であると示される事など、根拠としていたものが曖昧になったり崩れたりする事はままあります。
であるならば、仏教は学術的に間違いの無いもののみで語られるべきものであるのか。
私はそうは思いません。
今日を生きる私たちが頂く仏教は、今の環境や社会の中で惑い悩み乱れる心の問題にどう対応するのか、が第一で無くてはなりません。
仏教は世界各地に伝わって、その土地の文化や環境に沿って柔軟に形を変え、適応してきました。
そこに生きる人々のあり方に適して応える教えとなるため、変わってきたのです。
時代風俗文化環境に合わせ、しかし仏の教えの根っこを失わない有り様こそが仏教なのです。
時折、原始仏教つまり釈尊の説いた教えそのもの以外を認めない、という言説の方を見かけますが、私はそれに賛同しません。
歴代の教えを伝えてきた祖師方は、今この土地に生きる人達に届く言葉を磨いて、だから今日の形となったのです。
私は、仏教とは、仏さまの様な心で生きる術を説く教えであると理解し納得しています。
この時代この地に生きる私たちがどうしたら仏心に生きる事が出来るのか、それは紀元前のインドで生まれた言葉や作法のままでは適用しきれません。
故に現代の僧である私の役割は、今にあわせた言葉で語る、意訳も交えた翻訳者だと思っています。
私は現代でこの教えの流れを引き継ぐ者として、大切なものを受け継ぎ育み伝えていけるよう、精進してゆきたいです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は7月22日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和6年5月 朝坐禅会「指月の会」案内(5月27日朝6時半より)
2024年5月26日花はただ咲く ただひたすらに
ただになれない 人間のわたし 「相田みつを」
上記は栃木県足利市の書家にして詩人、相田みつをの作品の一つです。
「つまづいたっていいじゃないか、人間だもの」の言葉は、きっと皆さんも聞いたことがあるかと思います。
今月20日で生誕百年を迎えたとのことで、下野新聞にも記事が載せられていました。
相田さんは足利で生まれ活動し、長く曹洞宗のお寺の坐禅会に通われていました。
ご自身でも深く勉強され、東京の相田みつを美術館では読み込みすぎてすり切れた正法眼蔵が展示されてもいました。
だからこそ、その作品の多くに色濃く禅の思想や道元禅師の影響が表れています。
感心するのは、経典の難しい言葉や思想を平易な、柔らかい、短い言葉で優しい文字でご自身の作品にされていることです。
深く理解し、ご自身の血肉とされているからこそここまで自由闊達な表現が出来るのでしょう。
私は東京に出て、ちょっと時間が空いたときには有楽町の国際フォーラム地下にあるあいだみつを美術館によく行っていました。
勉強ともなり、素晴らしい作品に感銘を受けながら一息付けるので貴重な落ち着ける場所でしたが、残念ながら今年一月で施設工事の為閉館となりました。
再開は未定とのことですが、是非ともまた開業してほしいものです。
尚、今年の生誕百年を記念して、故郷足利の美術館にて7月から8月で展覧会が催されるそうです。
私も行くつもりですが、興味を持った方には是非とも観覧してほしいものです。
さて、上記の言葉は相田さんの素晴らしい作品の中でも、とても強く感銘を受けた作品です。
出来るならば氏独特の字体で表現された原作をご覧頂きたいものですし、芸術表現は受け取る個々人の感想こそが正解なのですが、私なりに拙い感想を述べたいと思います。
人が自然や山野に生きる動物に時に感銘を受けるのはどうしてなのか。
作為も嘘偽りも無く有様そのままに生き生きとし、鎮座する曇り無さに感動するからではないでしょうか。
有るべくしてあるものは、ただそのままに素晴らしく、円かに調和して、時に美しい。
花はその命の有り様そのままに、力むことも心を費やすことも無くただ咲いてただ散る。
迷いやとらわれはからいを持ち込まない、命そのままにただ生きる、ただ美しく在ることの素晴らしさを万の言葉より雄弁に表現し尽くしている。
だから、花は「ただ」咲く ただひたすらに。
でも私たちは、その素晴らしさを知ったとしても、なかなか同じように生きられるものではない。
解っちゃいるけど、やめられない。
「ただ」になれない人間の私。
そんな人間の弱さや悲哀を穏やかに受け止めてくれる、共感の、慈しみの眼差しを、私はこの一文に感じるのです。
人の弱さに寄り添うように眼差しを向けてくれる、観音様とはこの様ではなかろうかと私は思っています。
心にゆとりを持ちにくい現代だからこそ、多くの人に知ってほしいと願う作品です。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は6月24日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和6年4月 朝坐禅会「指月の会」案内(4月22日月曜朝6時半より)
2024年4月20日入鄽(にってん)垂手(すいしゅ) 「十牛図」
遂に私も骨董趣味に手を出しそうになりました。
なんでも鑑定団に出てる趣味人の「ついついと~」をもう笑えませんね。
デパートの催事に出ていた骨董屋が十牛図の茶碗を出していました。
私は
「買ったとしても何に使うのか?」
「祖父の遺品で興味の薄い掛け軸や茶碗が押し入れ一杯に山になってるのに」
「文人趣味に耽溺するのはほどほどにするべき」
と煩悶して二時間行ったり来たりしてましたが、
「話の種にすればいいじゃないか」
と自分を納得させ売り場に行ってみれば買われて無くなっていました。
良かったのやら悪かったのやら。
十牛図というのは中国の禅僧が描いた、悟りに到ろうとする10の段階を示したものです。
曹洞宗ではあまり用いられるものではなく、私は京極夏彦の『鉄鼠の檻』を読んで初めて知りました。
悟りを牛に見立て、それを男が追い求める処から始まります。
1枚目から6枚目で牛を求め、辿り、見つけ、捕まえ、ならし、連れ帰る。
ここからが中々説明の付かないものですが、
7枚目では牛を捕まえてきたことを忘れて、牛も忘れ去られる。
8枚目では円相が描かれるのみとなり、ただ円かなるばかり。
9枚目では無何有の山河が描かれ、全てはあるがままに美しい。
10枚目では布袋様の様に福々しくなった男がまろやかな笑顔で人と接している。
駒澤大学の先生は悟りによって問題が解決され問題意識そのものが無くなってしまったから牛は消え失せていると説明されていました。
相対分別から脱け落ちてみれば全てはあるがままにまどかにある。
作為も無く、有るべくして有るものは、ただそのままに素晴らしい。
私は十枚目、入鄽垂手の絵を見る度に、我が坐禅の師、板橋禅師を思い出します。
板橋禅師は出家し修行に励まれ、納得を得られた後福井の一寺院の住職になられました。
しかし一人でいては怠け心が出てしまって修行にならないと、再び修行道場に戻られたのです。
本山で指導役に任じられ、長じて禅師にまでなられましたが、
本山の住職を退いても修行を離れることは無く、福井に御誕生寺を建立されて終生若い修行僧と共に修行生活に生きられました。
ある先輩が禅師様を三毒、人を悩み惑わす煩悩、貪り怒り愚かしさから離れた人だと言っていたことがあります。
禅師様は修行に臨む姿勢、その生涯その笑顔で、私に多くのことを教えてくださいました。
茶器は他の手に渡りましたが、お示しは記憶と朝の座禅の習慣に生きています。
スナフキンのように、物を持たない方が肩は軽いとうそぶくのも時には良いものでしょう。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は5月27日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和6年3月 朝坐禅会「指月の会」案内(3月25日朝6時半より)
2024年3月24日智慧が輝き、慈悲が潤う 『パーリ相応部』
上記の言葉は大変古い仏教経典の言葉です。
智慧と慈悲、仏教の中心となる両輪であり、ご本尊、お釈迦様の両側には脇士として智慧を表す文殊菩薩、慈悲を表す普賢菩薩が控えているものです。
さて、先日読売新聞を見ていて「仏の教え AIが説く」という記事が出ていました。
京都大学の教授である浄土真宗の住職が経典を機械学習させて対話型AIを作成しているそうです。
曰く、現代の仏教は人々の悩みに答えられていない、誰でも仏の教えに接する事の出来るAIを開発したい。
少子化での社会の縮小に対してもネットを活用した、寺院や布教活動の存続は考えられる。
最新技術を用いて人の心の状態を解明し、安らぎや活力を増大させる社会の実現を目標とした計画も進んでいる。
仏教経典は八万四千の法門とも言われる膨大な量があるが、AIなら全てを網羅し真の理解に近づけるかもしれない。
とのこと。
技術の発展というのは様々な難関をクリアしていくもののようで、不可能を可能にする進歩とは晴れやかなものなのでしょう。
私も大学時代に、仏教学ゼミの提出物のために取り組んで挫折した原始経典の勉強も、これがあったなら話は違っていたかもしれないです。
ただ記事に書かれているような「ブッダボット」という呼び名は改めて欲しいものです。
敬意に欠ける呼び方に思えますし、商業的な扱いになればぞんざいにされてしまいそうと懸念します。
以前東京の勉強会に出ていたとき、山梨のお坊さんがこんなことを言っていました。
「葬祭業の展示会でペッパー君の様なロボットにお経を再生させ鐘と木魚を叩かせ、法話も過去の高僧の録音を流している。その内僧侶の仕事が奪われるのでは?」
私は別の見方をするべきではないかと思ったものです。
仏教は智慧の眼(まなこ)を開き、慈悲の心に生きる宗教です。
私たちの体は柔らかく脆く、だからこそ育ち働き、それが故に枯れて亡くなっていきます。
みんなみんな無常の道理の中で生きているんです。
同じ喜びと悲しみを背負うともがらだからこそ、同じ目線で慈しみ、無常の道理を受け入れていく言葉をかけてあげられるのが僧侶であるはずです。
ペッパー君やAIの再生する言葉にどれだけの人が共感できるというのでしょう。
そこを心配するのではなく、どんな言葉で故人と遺族に向き合うかの言葉を磨くことにまず取り組むべき、なんて思いながら聞いていました。
時代が進み技術が発展していく中、お寺のあり方や仏教への取り組み方も変わっていくのでしょう。
布教の試験の際、ある老師に使命感を持て、とハッパをかけられたことが記憶に焼き付いています。
お坊さんとしての使命を果たし、お寺を人々の良き仏縁の場として伝えていけるようこれからも取り組んでゆきます。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は4月22日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和6年2月 朝坐禅会「指月の会」案内(2月26日6時半より)
2024年2月25日仏性の戒珠心地に印す 『証道歌』
二月に入ってから多忙になり、中々掃除もままならない日々が続いています。
なんとか春の彼岸迄には寺務関係の整理整頓を済まし、境内を整えていきたいところです。
先日お葬儀に際して戒名を考案する際に、上記の文言を引用して作成しました。
戒名というのは仏弟子となるにあたって授かるものです。
俗世間の道理の中から離れ、無垢清浄の仏道に生き方を改めるに際して、その名前から改めるのが戒名授与、そして仏の教えそのものである仏戒を授かる授戒となります。
お葬式とは、故人を仏として引導し、これからの道行きが清らかなることを願い祈る、授戒を行う儀礼です。
故に戒名とは仏と成るにあたって授かる新しい名前なのですから、決して疎かに用意されるものではありません。
故人の経歴、資質、徳行そして仏道をこれから歩む者への願い祈り、それらを勘案してつけられる宗教上の名前となります。
戒名を作成する際、経典や祖録を出典に準備することはよくあります。
上記の文章の出典である『証道歌』は中国禅宗の古いお経で、禅の心悟りの境地を数十の詩の形で歌い上げたものです。
祥雲寺では三十三回忌の供養収めの際に参列者と御一緒に読経し、また新住職の就任式である晋山式では、本堂前に立てる大塔婆に別の一節を書き記しました。
証道歌から用いようと内容の吟味検討に資料を漁っていたら、こんな解説に行き当たりました。
「のぼせが下がった生命。是が仏性です。
『正法眼蔵随聞記』にも「坐禅は自己の正体なり」という言葉がある。
自己の正体とは正気の沙汰ということです。
坐禅することがそのまま仏さまになることだというのは、坐禅することでのぼせが下がって正気の沙汰になるからです。
~中略~ 坐禅というのは、うっかりすると居眠りができるほど解放されて、しかもはっきり覚めているということが大切です。
この覚めて生き生きしているのが仏性で、そういうのぼせの下がった生命になることを「授戒」という。
戒といえはすぐ「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」と思いがちだが、そういうことではない。
~中略~ 戒律を授かるとは、仏さまから伝わっているほんとうの自己の正体、のぼせが下がった生命に目覚めるということです。
そういう達磨所伝の心、心地に落ち着くことがすなわち「仏性の戒珠心地に印す」です。」
この解説文は内山興正老師の『禅の心悟りのうたー証道歌を味わう』からの抜粋です。
昔の禅僧らしい、自己の到った見地を元に話されるので、自由闊達で地に足就いた、腑に落ちやすい説明です。
故人は若い頃のご苦労が良い仁徳に実り、裏表無く真心で接する徳を育まれ、だからなのか虚心坦懐に多くの人と交友していたことに由来して引用しました。
もって故人の冥福を祈る一助となれば幸いに思います。