ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

座禅会 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

座禅会の記事

  • 令和5年3月 朝坐禅会「指月の会」案内(27日朝6時半より)

    2023年3月24日

    22日水曜日、ほぼ満開となりました。

     

    花は ただ 咲く

    ただ ひたすらに  

    ただになれない

    人間のわたし

           『相田みつをの言葉』

     

     今年も早三月となり、桜咲く春の季節を迎えました。

    年末から慌ただしくしていたらいつの間にか月日は流れ、早咲きで楽しませてくれる天然記念物に指定の祥雲寺しだれ桜もいつの間にか満開を迎えました。

    桜は良いものです。

    春の日差しの中青空と桜を見上げているだけでも、乱れ浮ついていた気持ちが落ち着いてくるようです。

     

     祥雲寺のしだれ桜は、昔はおばけ桜と言われるほどに大きかったそうです。

    江戸初期の本堂改修の記念樹として植えたそうで、昔の写真には大変立派な姿が残っています。

    昭和23年にもらい火で本堂が焼け落ち、しだれ桜も共に焼けてしまいました。

    そのまま枯れるかと思われましたが、樹勢が強く蘇るかもしれないからと治療を続け、枝を伸ばし花を咲かせるところまで来ました。

    しかし樹皮の下に病気が入ってしまい、残った幹を切り詰めなくてはならなくなり、残念なことに現存するのは昔の土台部分の幹のみとなりました。

    またその幹も、病気で悪くなった部分を切除したため、中は空洞になっています。

    人間で言うならこの桜は全身やけど内蔵損失の、重篤な状態のまま生き延びているのです。

     

     上記の言葉は、相田さんの作品です。

    花は人に見られようが見られまいが、どんな環境にあっても命の働きのままに花開き美しく咲こうとする。

    大自然に或るものは、ただ生命のあるがままにありなるようになるのが正しいのだと示してくれている。

    そんな迷いも作為も無い美しいあり方に、成り切れないのが人間の私。

    この言葉は、迷い悩みの世界から中々離れることのできない人間の弱さ悲しさを表現しているのでしょう。

    正しく生きようとしてもそうできない、そんな私たちへの労りと慈しみの眼差しを感じる言葉でもあります。

    弱く、脆く、儚いのが人間だと知るからこそ、皆同じ悲しみを背負っているのだと思えばこそ生まれてくる共感の心。

    私はそれこそ、観音様の慈悲心だと思っています。

     

     段々小さくなりながらも花咲かせてくれたあのしだれ桜の様に生きる事はなかなか出来ないです。

    でもそんな弱い私でも、及ばなくても積み重ねていくことくらいは出来るはず。

    いつの日にか小さくとも花開かせることができる様、上を向いて歩きたいです。

     

                                  祥雲寺副住職 安藤淳之

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    次回開催は4月24日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和5年2月 朝坐禅会「指月の会」案内(2月の開催は27日となります)

    2023年2月26日

     

    良や愚の如く、道、うたた寛(ひろ)し。騰々(とうとう)運に任せ、誰か看ることを得ん。

    ために付す、山形(さんけい)爛(らん)藤(とう)の杖。至る処の壁間、午睡(ごすい)閑(かん)なり。

                                    国仙和尚 良寛印可の偈

    (良寛は愚人のようであるが、その仏道の精神は広々としている。

    その輝きの力は、生き生きとしていて仏縁に任せてなりきっているので、その心は誰にも理解できない。

    だから、山のようにゴツゴツした藤蔓の枝を付与して悟りの証明にしよう。

    どこに行っても壁に掛けて、いつもの君のようにゆったりと昼寝をしたまえ)

     

     

     最近本屋さんで書棚を眺めていて、NHK100分で名著の過去作に

    良寛さんの本『「どん底目線」で生きる』を見つけました。

    良寛さんは江戸時代の曹洞宗の禅僧で今なお慕う方も多く、私の坐禅の師匠である福井御誕生寺の板橋禅師様も大きな銅像を本堂の中に設えて手を合わせられていました。

    しかも書かれているのは曹洞宗の講演会で度々お世話になっている中野東禅先生。

    たくさんのご縁を感じて購入し、ただいま読んでいます。

     

     良寛さんは新潟の名主の家出身です。

    生家は手広く商売をする栄えた家だったそうですが、生業が性に合わなかったのか18の頃に出家を決意したといいます。

    以来十数年の修行に臨み、三十三歳の時に師匠となる国仙和尚から「修行を成就した」と認められ、

    上記の印可の偈と杖を授けられたそうです。

    この後は諸国行脚をして故郷に戻り、小さな庵で清貧そのものの生活をしながら、地域の人々や子供との交流を楽しんで過ごされました。

     

     伝手も経歴もあり立身出世も望めただろう良寛さんですが、

    その生涯は徹底して「持たない」生き方を徹されました。

    それは修行の中で、清貧な生き方こそが、世間の苦悩や哀しみのもととなる欲望を超える道なのだと悟られたからなのでしょう。

    私個人の主観も入る話ですが、仏道修行とは、本来融通無碍な心を閉ざしてしまう我という塞を取り払っていくことだと思っています。

    またある老師は、出家修行とは出世間であると説かれました。

    世間の、当たり前にあるもの差しや基準価値観から脱却する。

    世俗の価値観の中にいては欲得と比べ合いの習慣から離れることは出来ない。苦悩や哀しみが尽きることはない。

    だからこそ出世間、世俗から出ることが肝心なのだと。

     

     本当に道を修め徹底した人は、時に孤高の人ともなります。

    上記の国仙和尚の偈は、世俗にはなじめない、けれど真摯に生きようとされる良寛さんをある種祝福し讃える慈しみの視線が感じられるものです。

    いついかなる所であっても君らしい囚われない大きな心でおおらかに生きなさい。

    そしてまさにその通りに生きられたからこそ、今もなお慕う人が絶えないのでしょう。

    そんな読書感想の話でした。

     

            祥雲寺副住職 安藤淳之

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    次回開催は3月27日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和5年1月 朝坐禅会「指月の会」案内(1月の開催は23日となります)

    2023年1月22日

    元朝祈祷。

     

     

     第四不妄語。法輪は本より転ずれば、剰ることも無く、欠くることも無し。甘露は一潤せば、実を得、真を得るなり。『教授戒文』

     

     先日NHKを視聴していて、ちこちゃんに叱られるを聞いていましたら、

    「人はなぜ嘘をつくようになるのか」

    という問いかけがありました。

    回答としては「自分と他人の心の中は違うと分かるようになるから」

    児童心理学の見地から、子どもが4~5歳になってくると

    経験や体験から心の理論が発達していって

    自分と他人の心は違うものであり、各々の気持ちや考えによって行動するものであると

    理解できるようになるそうです。

    意図的な嘘がつけるようになるのは成長の証でもありそれほど気にするものではない。

    他人に罪を着せるような嘘はきちんとたしなめ、そして嘘をついたことを責めるよりも本当のことを言ったときに褒めてあげるようにと締めていました。

    この最後のところのまとめが、上記の文章に一脈通じるかも、と思った次第です。

     

    上記は十戒。仏教徒がしないよう注意する十種ある戒律の一つです。

    よくある誤解として、戒というのは「してはならない」ではなく「しないことを誓う」ものです。

    絶対しない、という枷をはめるようなものではなく、選択の際にしないと選ぶことができる自分に育て整えていこうとするものです。

    第一に不殺生殺さない、第二に不偸盗盗まない、第三に不貪淫性を貪らないと続いて第四に不妄語戒と続きます。

    字義そのままなら、嘘をつかないことを誓う、という意のものです。

    嘘をつくのはいけないこと、それは誰でも知っていることです。

    社会的には言葉の信用度を下げ周囲の信頼を失うもの、刑罰に問われかねないものとなるでしょう。

    仏教的には自身の心の問題としてこの不妄語を説きます。

    昔の禅僧にあるお殿様が言いました。

    極楽とはどこにある?

    禅僧は、そんなこともわからないのかこの馬鹿殿が、と罵倒しました。

    お殿様は怒ってこの坊主め、たたき切ってくれるわ、と刀を抜きました。

    禅僧は、ここが地獄じゃ、その心持こそが地獄なのじゃ、と説きました。

    お殿様はあっと言って刀を収めごめんなさいと謝りました。

    禅僧は、ここが極楽じゃ、その心持こそが極楽なのじゃ、と説きました。

    少し内容がずれますが同じことです。

    嘘をつくことが良くないことだとはだれもが知るところです。

    その後ろめたさ、斬鬼の念は必ず心を、行動を、生き方をゆがめ曇らせていきます。

    嘘は一時の利を運んでも、自身の心を極楽へは運んでくれないのです。

    それよりは真実の言葉に、行動に生きることを選ぶほうがよほど良いはずです。

    嘘をつかないことを選ぶなら、それは自身を汚すことなく、真実に沿うことの明るさや落ち着きに結びつきます。

    それを常としたならば、その積み重ねが習慣となって自身を守ってくれるようになります。

    地獄に落ちることのない自分へ育ててくれるのです。

    上記の言葉は、嘘のない生き方、本当の世界に生きる功徳を讃えた言葉なのです。

    番組の締めの本当のことを言ったことを褒められた体験は、きっと嘘をついてしまうことから遠ざかる助けとなるでしょう。

     

                       祥雲寺副住職 安藤淳之

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    次回開催は2月27日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和4年12月 朝坐禅会指「指月の会」案内(12月の開催は26日となります)

    2022年12月25日

    2018年永平寺参拝記念写真

     

    吾我を離るるには、観無常是れ第一の用心なり」   (正法眼蔵随聞記)

     

    今年も年の瀬となり、来年に向けての大掃除が先日終わりました。

    来年の算段も諸々考え動き出しています。

    地元の仲間が、来年から大本山永平寺で役寮という運営指導役のご指名を受けました。

    栃木と福井を行き来して役に付くのは大変でしょうがどうか頑張っていただきたいです。

     

    その際には修行僧らで挫折する人が出ないようよく見てあげてほしいと切望します。

    私自身上山して2,3週間後が一番きつくて折れそうになりました。

    あの時仲間に支えてもらっていなかったら全く違う人生を歩んでいたでしょう。

    では修行では何が大変なのか、どうして挫折するのかと考えてみると、

    上記の「吾我を離れる」という部分に躓くのではないかと思いました。

     

    先日ドイツ人の禅僧ネルケ無方師に宇都宮仏教会の仏教文化講演会でお話を頂戴しました。

    内容はご自身の発心修行菩提涅槃、なぜ出家しどう修行して何に気づいたかです。

    少し端折って要約するならば

    「坐禅を体験して自身の視点が変わり興味を持った。

     出家しお寺で修行を始めたが修行らしいことは出来ず雑用ばかりで不満を持った。

     不満を訴えたらお前のことなど知らん、と言われて失望した。

     しかしそれこそが師の叱咤激励であったのだと気づくことができた。

     修行は集団生活で、皆で支えあうのだから裏方も当然せねばならない。

     そうしたとき我が強く自身を優先していては場が成り立たない。

     むしろ迷い悩みの根源となる我を手放していくことが修行であり精進なのであるのに

     いったい何にこだわっているのだ」と。

     

    この自意識の問題、我を離れるというのがなかなか難しいのです。

    私も修行の中、我執を離れるとは如何なる事かを感じるきっかけがあって少しは理解できました。

    禅の修行は、自身で迷いから離れ気づく、体験をするという所を重視してきました。

    他人から教え諭されるのではなく、自身で気づき見つけることでそれが自身の宝となる。

    永平寺での修業がやり方を教わるばかりで

    これが何なのか何故そうするのかに言及されないのはそういうことです。

     

    現代のお坊さんは家がお寺だからと修行に臨む人が多いです。

    動機がそこであっても出家修業とは間違いなく尊い得難い機会です。

    この稀なるご縁を損なうことのない様フォローがなされてほしいと願うばかりです。

     

                     祥雲寺副住職 安藤淳之

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    1月は23日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 12月上旬 特別行事の案内(1日無縁供養、7日蝋八摂心坐禅会)

    2022年11月25日

    12月1日は祥雲寺年末の大行事、無縁供養の日です。

    詳しくはこちらをご覧ください。

    https://www.sho-un.jp/blog/event/576/

    2017年の開催記録になります。

    9時  羅漢の会(石彫の会)羅漢開眼式

    10時  無縁供養法要(庫裡裏の無縁供養塔にて)

    11時  音楽会(本堂二階)

    当日参加も大丈夫です。どうぞいらしてください。

     

     

    12月7日は特別坐禅会、蝋八摂心坐禅会を行います。

     

    12月8日はお釈迦様が悟りを開かれた日です。

    仏典では、1日から菩提樹の下で1週間坐禅を続け、8日目の朝明けの明星と共に成道   

    されたと伝えられています。

    禅寺ではこれにならい、この時期に摂心という特別な坐禅を行ってきました。

    この度、1日のみですが夜に坐禅会を修行します。

    興味を持たれた方はどうぞお問い合わせください。

     

    時間:12月7日(水)18時から20時半まで

              夜6時 開場(坐禅指導は15分より)

               6時30分 ~  7時10分 坐禅

               7時20分 ~  7時40分 法話

               7時50分 ~  8時30分 坐禅

    場所:祥雲寺 本堂二階

    申込:電話(028-622-5719)もしくは祥雲寺庫裡にて 

    費用:参加料一千円(当日受付にてお支払いください)

    準備物もあるため出来るだけ事前にお申し込みください。

祥雲寺行事案内

祥雲寺で行ってる月例行事や年間行事、その他法要・祭りなどについてのご案内です。 行事カレンダーもご確認ください。