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令和3年7月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年7月25日正語 八正道5月に引き続き、八正道3番目の正語をテーマにします。5月の案内で八正道の説明を取り上げました。世に生きる迷い悩み苦しみを滅する事の出来る術がある、それには八つの正しい行い、道を歩みなさいというものです。私の大学時代の先生は、仏教とは業すなわち習慣の宗教と説かれていました。ある講義で、こんな交通標語で説明をされていました。「交通マナー、守るあなたが守られる」交通マナーを守ることによって、道路で起こりうる交通事故から身を守ることが出来る。守ろうとする意識や習慣が、様々な害からむしろ身を守ってくれるようになる。仏教における戒、盗まない殺さない犯さないなどの、しないことを誓うのもこれと同じです。悪いことをせず、良いことを心がけ、習慣としていく。繰り返し身に付き習慣となったそれが、自ずと善きを選び悪しきから遠ざかる自分にしてくれる。業、すなわち習慣の功徳こそ肝心と教わりました。正語、正しい言葉。正しいとは何であるのか。先月仏教における正しいとは「中道」、極端によらず適正で中正な行為を模索し歩むことと書きました。欲に流されず、さりとて無欲にこだわるのではない、物事を片側から見るのでなく、中心から、偏りのないところから見ようとする姿勢です。偏りから、こだわりから離れた、つまり二辺から遠離した道を歩むことが中道です。ではこの中道を踏まえた上で、正語正しい言葉とは何であるのか。我が曹洞宗の高祖道元禅師は著書『正法眼蔵』の中でこの言葉で正語を説かれています。「口宣掛壁」(口は壁に掛けておく)口は災いの元、等の言葉でもありますが、言葉は時に自他を縛るものとすらなるものです。ある老師の説法にありましたが、言葉は自らの意思のままに用いるのではなく、壁に掛かる風鈴のように、どんな方向からどんな風が来ようとも澄んだ音色を響かせている、自らの口も又そのように用いなさい、という説明が私には納得できるものでした。だから私は、人と話すときお坊さんらしく話そう、と心がけています。仏さまのような心に生きる道を歩む者として、仏法に生きる身として、常に「らしく」話すことが出来る様務めています。今は意識して行っていることでも、積み重なって習慣となって、何れは風鈴が涼やかな音色で聞く人を和ませてくれるように、活きた法の言葉を響かせることが出来る様に、励んでいます。偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。坐禅の時間とは、静けさに生きる時間です。我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は8月23日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。 -
令和3年7月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年6月27日正思惟 八正道5月に引き続き、八正道2番目の正思惟をテーマにします。先月の案内で八正道の説明を取り上げました。世にある迷い悩み苦しみを滅する事の出来る術がある、それには八つの正しい行い、道を歩みなさいというものです。私の大学時代の先生は、仏教とは業すなわち習慣の宗教と説かれていました。ある講義で、こんな交通標語で説明をされていました。「交通マナー、守るあなたが守られる」交通マナーを守ることによって、道路で起こりうる交通事故から身を守ることが出来る。守ろうとする意識や習慣が、様々な害からむしろ身を守ってくれるようになる。仏教における戒、盗まない殺さない犯さないなどの、しないことを誓うのもこれと同じです。悪いことをせず、良いことを心がけ、習慣としていく。繰り返し身に付き習慣となったそれが、自ずと善きを選び悪しきから遠ざかる自分にしてくれる。業、すなわち習慣の功徳こそ肝心と教わりました。正思惟、正しい考え方。正しいとは何であるのか。先月仏教における正しいとは「中道」、極端によらず適正で中正な行為を模索し歩むことと書きました。道の人、道を学ぶ者が実践してはならない二つの極端がある。その二つとは何か。一つはもろもろの欲望のままに快楽にふけり、下劣、野卑で、愚かな行いであり、高尚でなく、為にならないものである。他は自ら身体を苛むことに耽り、苦しみであり、高尚でなく、為にならないものである。人格を完成した人はこの両極端に近づかないで中道をはっきりさとった。それは見る眼を生じ、理解を生じ、心の安らぎ、すぐれた智慧、正しいさとり、涅槃に向かうものである。『相応部経典』欲に流されず、さりとて無欲にこだわるのではない、物事を片側から見るのでなく、中心から、偏りのないところから見ようとする姿勢です。偏りから、こだわりから離れた、つまり二辺から遠離した道を歩むことが中道です。ではこの中道を踏まえた上で、正思惟ただしい考え方とは何であるのか。我が曹洞宗の高祖道元禅師はこの古語を引用して正思惟を説かれました。「不思量をどのようにして思量する? 非思量」意訳するならば 考えるのでないことをどのように考えるか?答えは考えないことだ。頭で考えようとすると難解この上ない文ですが、坐禅をしてみるとそのまますとんと腑に落ちます。偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は7月26日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。 -
令和3年5月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年5月23日正見 『八正道』上記の「正見」は釈尊最初の教え、四諦八正道のものです。四諦とは、苦集滅道、世間に自分の思い通りにならない苦しみがある、その苦しみには原因がある(集)、その苦しみを滅する事が出来る、滅する事で苦悩を離れ安楽の境地に到るには正しい道を歩みなさい、という教えです。正しい道、というのが八つの正道則ち八正道です。・正しい見方(正見)・正しい考え方(正思惟)・正しいことば(正語)・正しい行い(正業)・正しい生活(正命)・正しい努力(正精進)・正しい念い(正念)・正しい心の統一(正定)八正道とは人間の身体と口と心との三種類の行為をすべて正しく日常の中で実践することによって苦をなくす方法です。世間は自分の思うようにならないことを自覚し、ものにとらわれ、こだわり、なずむ等の心のはたらきをなくしていくよう自分を習慣づけていく行為、と言えるのでしょう。では正見とは、正しい見方とはどのようなものであるのか。正しいを考える時、私はいつもある戦争物語のラストシーンの台詞を思い出します。「僕たちはみんな自分が正しい、正義だと思っている。その正義を互いにぶつけ合うから、争いになる。だから戦争は無くならない」正しい、正義は時代環境で変化し、時に個人や集団の欲望を肯定する道具となり争いの火種となり、とんでもない差別をも生み出します。以来私は、正しいというのは水物だ、と思っています。状況に左右されてしまうあやふやな、偽りのありえるもの、検証を要するもの、と。故に正見とは、千も万も正論があふれる中で、「最も適正で中正な行為、あるいは道」中道を見定めていく智慧を養うことに他なりません。ある老師は「正見とは則ち見解がない、ということだ。世にある知識見解は全て自己愛や存在欲、『私が』という意識から生まれるものだ。仏道はその渇愛煩悩、欲を乗り越える道なのだ。正見とは、存在欲を離れ知識見解に依って立つ必要の無くなった、見解がない境地を言うのだ」と説かれていました。極端に依らず、我見を離れ、世間と調和のとれた、バランスのとれた観察を行い、偏りがない考え方や生き方を指向していく、見定めていくことが中道です。中道の中にこそ心の平穏は実現し、そして坐禅はこの平穏の中に誰であれ安んじることのできる、安楽の法門なのです。我見を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は6月28日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。 -
令和3年4月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年4月24日この座禅会を始めて六周年となりました。大難の時であるからこそ、足下をしっかりと見定める時でもあろうかと思います。初心を思い返し、最初の文章を今年も再掲します。お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、という思いを抱いてはいないか。その思いがすでに怨みであると知りなさい。怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。いっさいの怨みを棄てよ。今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。棄てれば、必ず軽くなる。棄てて、かろやかに生きなさい。― 『スッタニパータ』第一章 ―静かな所で何をするでもなく落ち着いて瞑想をすることで心身の調子が整う、という事は昔から広く知られ、行われてきました。近年では科学的分析により血圧が下がる、海馬の機能が促進され脳内の情報整理がされる、精神安定に重要な働きをするセロトニンの生成が促される、等の効果が確認されているそうです。しかし坐禅は、これらの効果を内包しながらも、何も求めないで只ひたすらに坐る事こそ最上のものである、と伝えられてきました。私はそれは、「軽くなる」からだと思います。人間生きていれば百人百様、様々な想いやしがらみを背負っているはずです。古人は人生を「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と形容したそうですが、時には荷を下ろし、わが身を見つめ直す時間こそ忙しい現代人に必要な物だと思います。一人で行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝座禅会はそのような場となる様発起しました。皆さんと行うこの坐禅の一時が、「軽やかな」時間となることを願います。祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は5月24日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。 -
令和3年3月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年3月21日和合の功徳はこれ僧宝なり 『教授戒文 帰依三宝』今月3月11日は東日本大震災から10年となる節目の年です。祥雲寺でも境内にある慰霊碑にて、皆さんと2時46分を黙祷し、読経して手を合わせました。10年前、私は3月末から宮城県気仙沼で2ヶ月ほどボランティア活動に参加していました。春彼岸過ぎの頃、曹洞宗と縁のあるシャンティ国際ボランティア会から、被災地で野菜不足からビタミン欠乏が危惧されるので、関東から運びやすく供給しやすい野菜ジュースを用立てて欲しいとの要望をいただきました。近隣のお檀家さんお寺さんの助力を得て集めた分を自家用車に乗せ、気仙沼まで運びそのままシャンティの方達と支援活動を行いました。気仙沼市は宮城県北端にあり、沿岸地に細長く伸びた形をしています。それだけに全域で津波の被害を受けていました。私の最初の支援活動は、立ち上がったばかりのボランティアセンターの一員として数十あった避難所を回り、支援物資を届けて現場のニーズを調査することでした。気仙沼の殆どの避難所を廻って感じたのは、市街地であるほどに避難所内の活動が鈍く、郊外であるほどに活動が活発であった点です。市中心部の避難所では掃除や炊事の人員を都合してほしいとの要望が多かったですが、市街地から離れれば離れるほど、避難所内の事は自分たちでやるから生活再建の為の助力を求められる傾向がはっきり現れていました。同時に、市街地よりも田舎の方が、避難所内の空気や雰囲気があきらかに良いことも見て取れました。私はそれは、田舎の方が支え合い助け合う繋がりが強いから、そのつながりが避難生活の場に違いをあらわにしていたのだと思います。町中も田舎も同じく被災したのですが、慰め合い助け合い支え合える繋がりが、避難所の活力、空気の明るさに大きな差を現していました。一番市街地から離れた、先日読売新聞にも載っていた及川デニム避難所などは笑い声すら聞こえる時があったほどです。とても希な、稀有なことだと思います。助け合い支え合える繋がりや絆、ご縁とでもいうものが、私には被災地に重くかかる黒雲を払い光をもたらしているようにすら感じられました。私たちが信仰の中で大切にすべき三つの宝、三宝の内に「僧宝」があります。仏と成ることを目指し法(教え)を学ぶ者は、同じ道を歩む仲間則ち僧宝(サンガ)を大切にしなさいという教えです。同じ道を歩む者だからこそ助け合い支え合える、それこそ最勝の友である、という言葉です。あの日見た人々の繋がり結びつきの素晴らしさ、それを自分の生きる宇都宮で同じように出来たならとても素晴らしいことだと思います。叶うならば、この祥雲寺がそうしたご縁の場として活用できるなら、この上ないことです。皆が敬い合い相和す、最勝の友が集う場と出来たなら、其れを願いながらこの度も坐禅会を行います。祥雲寺副住職 安藤淳之3月22日6時半より開始となります。当分の間6時半からの一座のみとなります。尚次回の朝坐禅会は4月26日となります。