ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

朝まいり 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

朝まいりの記事

  • 令和3年12月 観音朝詣りのお知らせ

    2021年12月26日

    二年ぶりにお参りの人を入れての12月1日無縁供養

    本堂にてシルバーアンサンブル演奏会。

     木材が値上がりしています。

    輸入木材の高騰が原因です。

    細かい経過は私には分かりませんが、ともかくコロナ禍の影響でアメリカを始め世界の国々で一戸建て住宅の需要が増し、木材が足らなくなったそうです。

     12月9日朝のニュースでは、日本の会社がロシアの会社を買収して、九州と同じくらいの面積のシベリヤの森林の伐採事業権を手に入れたことが報じられていました。

    シベリヤから木材が大量に輸入されることが期待されるとのことです。

     

    私は、一連の木材をめぐる動きを残念に思います。

    なぜ国産の木材が使われないのか。

     

     日本は世界有数の森林国です。

    それは歴史的に木を大切にし森を造ってきた結果です。

    その伝統は縄文時代まで遡るでしょう。

    もともと森林の形成に適した国土ですが、殆どが人工林です。

    用途に合わせた木を育て、森を造り、自然を守ってきたのです。

     

     それが、高度経済成長以来の政策では隅に押しやられ、林業は衰退の一途をたどりました。

    効率重視の経済至上主義から安価な外材を輸入し続けた結果は、林業従事者の減少を招き、国産材の伐採、運搬もままならなくなりました。

     

     現在の木材不足を機会として、政府は林業再生を計るべきです。

    日本には豊富な森林資源があり、それを育て、管理し、活用する技術も伝統も世界一なのですから。

     

     タイガと呼ばれるシベリヤの寒帯林の木は、基本的には切るべきではありません。

    シベリヤの野生動物の写真を撮り続けている友人から聞いた話ですが、タイガの木は数万年に及ぶ時を経て形成されたもので、皆伐した森の再生は同じ時間がかかるということです。

    森が無くなれば動物の住むところも無くなります。

    もしロシアに森林保護の考えがないとすれば、日本の企業が権利を手にしたのを幸いに、日本の林業技術を駆使して、伐採しながらも、森が守られ、再生されていくような森林管理をしてほしいものです。

     

     令和3年12月15日

    宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時半から行います。

  • 令和3年11月 観音朝詣り

    2021年11月21日
     12月1日には伝統の無縁供養の法要が勤められます。
    「無縁供養」という言葉から、無縁仏への供養と受け取られて、どうしてそんなことをする必要があるのかと思う人も多いと思います。
    しかし祥雲寺の歴代住職はこの行事をとても大切にしてきました。
     無縁供養は万物への感謝の供養です。
    私たちが生きてゆく一日一日が、実は意識することもできない無限の縁から生まれた恩に支えられているのだということを知って、感謝の誠を捧げる供養です。
     例えば、食べ物について考えてみればよい。
    食べ物がなければ私たちは生きていけません。
    その食べ物は他のものの命です。私たちは他のものの命を糧として自らの命を養っています。
    食べ物となるには、まず命を生み出す天地の恵みがあり、それを育て刈る人、運ぶ人、調理する人、多くの人と物との関わりがあります。
     食べ物に限らず、生きてゆく全てが他のものによって支えられていることを理解するのはたやすいでしょう。
    大切なのは、そのことを恩と思い、感謝へとつなげてゆくことです。 「恩」という漢字は、自分の利益になったことの原因を心に留めるという成り立ちだそうです。
    経典のインドの原語も同じ意味です。
    そして、その思いを慈悲の心でもってお返ししてゆくのが感謝であり供養なのです。
     報恩感謝からは、人を傷つけるような行ないは出てきません。
    他のためになる行ないをし、共に生き、共に喜ぶ行ないが生まれてくるのです。
    報恩感謝は人倫道徳の基(もとい)であり源(みなもと)なのです。
     供養について付け加えることがあります。
    供養は慈悲の心からなされるものですが、慈悲哀愍(じひあいみん)と言って、あわれみの心をともないます。
    供養の施主が、知る人に対しても、知らざる人に対しても、自分と同じくこの世を生きたことを共感するのがあわれみです。
     無縁供養塔には、明治の箒川列車転覆事故、大正の関東大震災の供養塔がそれぞれ納められ、平成25年には東日本大震災の犠牲者への供養塔も建てられました。
     令和3年11月15日
                  宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職  安藤明之
    十八日の朝詣りは午前6時半から行います。
  • 令和三年10月 観音朝詣り

    2021年10月17日

    9月 いわし雲のもと境内に祀られた西国三十三番観音様をお参りして回っています。

     

    「炎上」という言葉をたびたび目にします。

    著名人の言葉や意見が、社会通念に反していたときなどに、ネット上で批判が集中することを指しています。

    実際は匿名で行われる罵詈雑言の嵐です。

     仏教は10の悪業を挙げます。

    そのうちの4つはことばに関するものです。

    妄語(うそ)、両舌、悪口(粗暴な言葉)、綺語(うわべの言葉)です。両舌は二枚舌と訳されますが、陰口だけでなく、人を中傷することそのものも指しています。
     私と同じ年代の人たちから、自分の親が決して人の悪口を言わなかった、それだけでなく子供たちに対しても人の悪口を言ってはいけないと常々戒めていたという話を聞くことがよくあります。
     考えてみれば、これは大変立派なことです。
     人生は思い通りにはなりません。

    うまくいかなかった時に人へのねたみが生まれたり、ひどい仕打ちをされた人への恨みができたりすることも少なくありません。
     しかし、それを口にして中傷してみても何の解決にもならない、自分を卑しめるだけだ、という見極めがあればこその態度であり、生き方であると思うのです。

     私と同年代の人たちの親は、大正から昭和の初め生まれの人たちです。

    人生の苦労は桁違いの年代です。その人たちに言葉を慎む徳目が行き渡っていて、それを自分の子供に伝えようとしたことは尊重しなければなりません。
    非難中傷を繰り返していると、自らを省みることが自然に抜け落ちてしまいます。

    そして相手への侮蔑が膨れ上がります。
     例えば、最近よく目にする韓国や中国への非難も、侮蔑に流れた世論であっては、国を誤ることになりかねません。
     言うべきことは言わねばなりませんが、それが相手に伝わるには、他者への尊重を感じさせる慎みのある言葉が必要です。

     令和3年10月15日
    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職 安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 令和三年9月 観音朝詣り

    2021年9月18日

    写経会。1時間半ほどで般若心経を書写します。

     希望を持つことは素晴らしいことです。
     人生には辛いこと、苦しいことばかりの時もあります。そんな時、希望は私たちを支えてくれます。
    心を奮い立たせ、現実の苦しい一日を頑張らせてくれます。
      30半ばにして悪性腫瘍のため亡くなられた女性がいます。
    料理が好きで、調理師を目指して高校の調理課に進学しました。
    熱意を持って勉強したのでしょう、在学中に県の料理コンテストに入賞しました。
    卒業して東京の一流ホテルの調理部門に就職しました。
    子供の時の夢は実現しようとしていました 。
     5、6年過ぎて体調が悪くなりました。
    悪性腫瘍に冒されていたのです。
    苦しい治療の日々を過ごさなければならなくなりました。
    長い入院、抗癌剤の投与。
    快方に向かったと思われる時には調理関係の仕事をしながら治療に努めました。
    しかし病魔は次第に体を蝕み10年余りの闘病を終えることになりました。
      余命幾ばくも無いことが明らかで、緩和ケア病棟に入ることになったときも、治って調理師の仕事に就くことを希望として抱いて、抗癌剤の治療を望んでいたということです。
    家族も、回復の見込みがないことを知らせることなく、彼女の夢を共に語りあいました。
     彼女にとって生きることは希望を持ち続けることでした。
    懸命に生きようとする人に、死病を現実として諦めを説くことなど何の意味も持ちません。
     彼女の一生は、世間的な意味での幸せな人生ではありませんでした。
    しかしどうすることもできない現実の中で、おのれの命を生ききった確かさがあります。
    悲しいけれどズシリと重みのある人生です。
     家族の愛情をいっぱいに受けて育った彼女には天性の明るさがありました。
    人生で出会う人出会う人に爽やかな印象を残したのでしょう。
    お葬式にはたくさんの友達が悲しみを共にしていました。
     令和3年9月15
    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職  安藤明之
  • 令和三年8月 観音朝詣り

    2021年8月18日
     

    ミソハギの花。お盆の供養花として知られていますが、今年は咲くのが早かったです。

     お釈迦様の涅槃を伝えるのが涅槃経です。
     最後の旅に出られたお釈迦様が、付き従ったアーナンダに
    「(私の入滅の後は)法を灯とし、自らを灯として生きよ」と諭(さと)されたことは「法灯明、自灯明」と言われて伝えられました。
    この言葉は仏教の本質を表した重要なものです。
     お釈迦様は紀元前5世紀から4世紀にかけて北インドにおわした方です。その方を仏教徒は、悟られた方、仏陀と信じ、その教えを、悟りの世界からの導き、「法(ダルマ)」として頂いているのです。
    これが法灯明です。
     法はどのような時代にも、環境にも、変わらない普遍的な真理です。
    しかしこの法を全ての人が間違いなく知ることができるのでしょうか。
     教えを受け取る側の問題があります。
    どのような人間も、時代・環境に制約されています。
    生まれも違う。言葉も違う。
    物事を考える筋道も違う。
    いかに普遍的な教えでも、それが説かれる時代、環境に沿うものでなければ人の心に届きません。
    お釈迦様が言葉にされた教えも、それが人々を救おうとして発せられたものである以上、時代、環境の制約を受けているのです。
     お釈迦様はこれについて
    「私の教え()があなたたちを縛るものであるなら、我が法を捨てよ」とおっしゃられました(筏イカダのたとえ)。
    自らの教えを相対化することであり、一般的な宗教ではあり得ない言葉です。
     法が捨てられたらどうなるか。
    信者、修行者が自ら道を求めるしかありません
    時代も環境も言葉も違っているのですから、それに適って腑に落ちていく仏さまの教えを創造していくしかありません。
    これが自らを灯とする自灯明です。
     大本がなければ迷いの道に入ってしまいますから、常に法に問いかけ、照らし合わせて、仏道に精進するのが仏教徒のあり方です。
     私は法灯明は信仰を、自灯明は修行を示すと思っています。
     
    令和3年8月15
    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職  安藤明之
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