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令和三年9月 観音朝詣り
2021年9月18日希望を持つことは素晴らしいことです。人生には辛いこと、苦しいことばかりの時もあります。そんな時、希望は私たちを支えてくれます。心を奮い立たせ、現実の苦しい一日を頑張らせてくれます。30半ばにして悪性腫瘍のため亡くなられた女性がいます。料理が好きで、調理師を目指して高校の調理課に進学しました。熱意を持って勉強したのでしょう、在学中に県の料理コンテストに入賞しました。卒業して東京の一流ホテルの調理部門に就職しました。子供の時の夢は実現しようとしていました 。5、6年過ぎて体調が悪くなりました。悪性腫瘍に冒されていたのです。苦しい治療の日々を過ごさなければならなくなりました。長い入院、抗癌剤の投与。快方に向かったと思われる時には調理関係の仕事をしながら治療に努めました。しかし病魔は次第に体を蝕み10年余りの闘病を終えることになりました。余命幾ばくも無いことが明らかで、緩和ケア病棟に入ることになったときも、治って調理師の仕事に就くことを希望として抱いて、抗癌剤の治療を望んでいたということです。家族も、回復の見込みがないことを知らせることなく、彼女の夢を共に語りあいました。彼女にとって生きることは希望を持ち続けることでした。懸命に生きようとする人に、死病を現実として諦めを説くことなど何の意味も持ちません。彼女の一生は、世間的な意味での幸せな人生ではありませんでした。しかしどうすることもできない現実の中で、おのれの命を生ききった確かさがあります。悲しいけれどズシリと重みのある人生です。家族の愛情をいっぱいに受けて育った彼女には天性の明るさがありました。人生で出会う人出会う人に爽やかな印象を残したのでしょう。お葬式にはたくさんの友達が悲しみを共にしていました。令和3年9月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之 -
令和三年8月 観音朝詣り
2021年8月18日お釈迦様の涅槃を伝えるのが涅槃経です。最後の旅に出られたお釈迦様が、付き従ったアーナンダに「(私の入滅の後は)法を灯とし、自らを灯として生きよ」と諭(さと)されたことは「法灯明、自灯明」と言われて伝えられました。この言葉は仏教の本質を表した重要なものです。お釈迦様は紀元前5世紀から4世紀にかけて北インドにおわした方です。その方を仏教徒は、悟られた方、仏陀と信じ、その教えを、悟りの世界からの導き、「法(ダルマ)」として頂いているのです。これが法灯明です。法はどのような時代にも、環境にも、変わらない普遍的な真理です。しかしこの法を全ての人が間違いなく知ることができるのでしょうか。教えを受け取る側の問題があります。どのような人間も、時代・環境に制約されています。生まれも違う。言葉も違う。物事を考える筋道も違う。いかに普遍的な教えでも、それが説かれる時代、環境に沿うものでなければ人の心に届きません。お釈迦様が言葉にされた教えも、それが人々を救おうとして発せられたものである以上、時代、環境の制約を受けているのです。お釈迦様はこれについて「私の教え(法)があなたたちを縛るものであるなら、我が法を捨てよ」とおっしゃられました(筏イカダのたとえ)。自らの教えを相対化することであり、一般的な宗教ではあり得ない言葉です。法が捨てられたらどうなるか。信者、修行者が自ら道を求めるしかありません。時代も環境も言葉も違っているのですから、それに適って腑に落ちていく仏さまの教えを創造していくしかありません。これが自らを灯とする自灯明です。大本がなければ迷いの道に入ってしまいますから、常に法に問いかけ、照らし合わせて、仏道に精進するのが仏教徒のあり方です。私は法灯明は信仰を、自灯明は修行を示すと思っています。令和3年8月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之 -
令和三年7月 観音朝詣り
2021年7月17日仏陀は神様より偉いのか。お釈迦様は菩提樹の下で悟られた後もそのまま禅定に入られたままでした。それを見ていた大梵天は、せっかく悟られたのに説法をして下さらなければ私の作ったこの世界は滅びてしまうと危惧し、お釈迦様に説法、すなわち悟りの世界からの教えを説いて下さるよう懇願しました。お釈迦様はその願いを受け容れて、ベナレスの町に行き、最初の説法(初転法輪)をされました。(増一阿含経第十勧請品)梵天勧請といわれるこの話は、非常に深い意味を持っています。大梵天はインドでは、私たちの住むこの世界、娑婆世界を作った神様です。ほかの宗教なら、天地創造の絶対神であり、教えを請うてひれ伏すなどありえません。どうしてそうなるのか。それは、大梵天が主(あるじ)なのは「この世界」だけで、実際には三千世界と言われる無数の世界があるからです。これらの世界を普通の人間は見ることはできません。それは、仮に世界と名付けるだけで、物質でできているかどうかも分からない、人知を越えたものであるからです。これを仏教では「不思議」という言葉で言い表します。言い換えれば、人間の知力には限界があるということを示しているのです。人間が、持って生まれた肉体で物事をとらえ、組み立て、判断していることから来る限界です。お釈迦様は、この三千世界を貫く真理(ダルマ)を悟られた方、仏陀なのです。悟りは「知る」ではありません。人間的な知を越えたもので仮に如来智と名付けます。悟りの前では、我々の前にある全ての事象が相対化します。それは神さえも例外ではありません。仏陀が神より偉いのではなく、どちらが偉いのかという考えが否定されるのです。三千世界も、人知を越えた悟りがあることも、お釈迦様が悟りを得たことも、私たちには証明することができません。ですからこれは信仰です。その教えが、ひとつひとつ我が身に照らして納得でき、救いとなるとき仏教徒となります。仏教はお釈迦様が仏陀であることを信じる宗教です。令和3年7月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之十八日の朝詣りは午前6時から行います。 -
令和三年6月 観音朝詣り
2021年6月20日NHKの「チコちゃんに叱られる」で面白い話がありました。にぎり寿司一人前はだいたい10個(10貫)と決まっているそうで、どうしてそうなのかという話でした。戦後まだ統制経済だった時、寿司屋さんは営業が出来ませんでした。配給制で営業用の米がないのですからどうしょうもありません。その時、東京都内の老舗寿司屋さんたちが、お米を一合持ってきてくれば、10個のにぎり寿司にしてお出ししますという、法律で禁じられていない食品加工の方式を考え出したのだそうです。それでも、店を開けるのには知事の認可が必要で、魚も統制されていたので許可されなかったのですが、野菜を代わりに使うということでようやく開店できたとのことです。カッパ巻きがその産物だということでした。果たして客が来てくれるか不安だった開店の日、お米を持って次から次と人が来て嬉しかった思い出を、老舗の老体が語っていました。今も昔も寿司は贅沢品ですが、無理をしてでも美味しいものを食べたいという人間の本性は変わらないということでしょう。おかげで江戸前寿司の伝統が守られたという結論でした。この話を聞き、私は工夫という言葉を思い出しました。工夫は、手間暇をかけて物作りの思案をするというのが元々の意味です。たとえば、なにか物を作っているときに起きた問題を、培われた技術と発想を変えた考えで解決し、目的を達成したり、新しいものを作り出したりすることです。寿司屋さんには修業を積んだ技術があります。美味しいものを作って人の喜ぶ姿を見たいという意欲もあります。ただ肝心の食材がないという大困難を、お米を持ってきてもらうという発想の転換で解決したのです。商売が続けられるか?江戸前の伝統が自分たちで終わってしまわないか?。切羽詰まったからこそ生まれた解決法だったのでしょう。禅も工夫を大切にします。自己を見つめ、切羽詰まったときに、自己を捨てるという大転換がなされ、無心に坐禅に精進することを禅宗では工夫というのです。令和3年6月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之十八日の朝詣りは午前6時から行います。 -
令和3年五月 観音朝詣り
2021年5月19日仏教学者の奈良康明先生は、人間の苦しみは結局のところ「ないものをねだり」「限りなくねだ」って、欲求不満におちいるところから生じると言われました。人間の持つ「欲」「執着」が苦しみの原因であるということです。朝詣りでお唱えする延命十句観音経に「常楽我浄」という経文があります。実は二重の意味を持つ教えです。まず、四つの誤った考え方として説かれます。すなわち、この世のすべては移ろい変わりゆく無常なるものであるのに永遠不滅なものを追い求めようとすること。(常)無常であるからすべては自分の思い通りにならない苦しみであるのに刹那の楽に溺れてしまうこと。(楽)無常であるから自己も常に変わりゆくものであるのに、永遠不滅の自己があると勘違いして自己中心になること。(我)すべてのものは腐り壊れて行くものであるのに、一時の美しさ清らかさを永遠不滅と錯覚し追い求めること。(浄)これらは自己中心の欲望と執着によって生まれた四つのひっくり返った考えであり苦しみの本になっているのだから、現実をありのままに見て正しい考えに戻さなければならないと、お釈迦様は説かれました。欲望と執着を離れるとどうなるのか。無常の世は常にすべてが新しくなります。人生は、人それぞれの行いとそれに関わる縁から生まれます。そうすると人生とは出会いです。出会いが喜びであり素晴らしいものであったら、いつまでもそれが続けと執着するのではなく、それに恵まれたことを感謝すればいい。その時、喜びは無常の理(ことわり)から放たれて、その人の人生で無上のものとなります。自分自身も常に変わってゆきます。できあがっている自己に執着するのではなく、未来に希望を持ち今を一所懸命に生きるのです。そこには自己の否定ではなく、今あることへの感謝があります。美しいもの、魂を震わせるものに出会ったら、感動に身心を任せればよい。変わりゆくもの、壊れゆくものの一番素晴らしいときに出会ったのですから。以上が延命十句観音経の「常楽我浄」の意味です。令和3年5月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之十八日の朝詣りは午前6時から行います。