ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

お知らせ 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

お知らせの記事

  • 平成30年8月 観音朝詣りのお知らせ

    2018年8月12日

    近所の育成会の子たちと蓮池にて

    育成会の子たちの坐禅会にて、まずは合掌の作法から

    15分ほどですががんばっていました

     

    いただきます ごちそうさま(でした)

     

     昭和になってから広く使われるようになったのだそうですが、ともかく素晴らしい言葉です。

     曹洞宗の修行道場では、食事の前に五観の偈を唱えます。

    意味を要約しますと

    1、この食べ物がここに来るまでの、天地の恵み、人々の労苦に思いをいたします。〈天地人の恵みへの感謝〉

    2、私がこの食べ物を戴くだけの行いをしているかを省みます。(自らの行いへの内省)

    3、正しい心を保つ修行として、食べ物へのむさぼりやすき嫌いをいたしません。(食事も修行とする表明)

    4、この食べ物は、私の命を保つための貴重な薬であるとの思いをいたします。(食物の貴さの自覚)

    5、仏さまの説かれた道を成し遂げるために、この食べ物をいただきます(最高の高みに向かう志の表明)

     食事を終えて最後に次の言葉を唱えます。

    願わくはこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、

     我らと衆生とみな共に仏道を成(じょう)ぜんことを

     

     仏道修行の志を持って食事するならば、それは功徳を積む行となります。

    自分の積んだ功徳をおのれのものとしないで、世の中すべてのものにめぐらし向けて、すべての幸せを祈る。

    この言葉は普回向文といって、仏教徒共通の祈りの言葉です。

    「いただきます」、「ごちそうさま(でした)」の心をひもといて行くと、この五観の偈の言葉と通じ合うと思います。

    「いただきます」は、人間を超えた大いなるものとこの世に共に生きる人たちへの感謝を、敬意を持って端的に表しています。

     

     「ごちそうさま」は、食事を調えるために馳せ、走りまわった人へのねぎらいと感謝の言葉です。

    普段、何気なく使っている言葉の意味を考えてみることも大切です。

    それによって言葉に魂がこもりますから。

     また逆に、深い意味を持つことを簡単な言葉にすることの素晴らしさも感じることができます。

     

     平成30年8月15日

                            祥雲寺住職 安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 平成30年7月 観音朝詣りのお知らせ

    2018年7月16日

    庭の草むしりは当たり前のことですが雑草を取り除く作業です。草をのび放題にしていてはせっかく植えた草花も雑草に負けてしまいます。しかしこれは実は人間の主観に基づいた独りよがりの行いです。人間が勝手に思い描いた美しい庭にするためにこれは有用な草、これは雑草と選別しているのです。選別される雑草にとっては迷惑このうえない。雑草もこの世に生を受け、生きているのです。

     自然のままの原生林は、非常に調和のとれた美しいものだそうです。何万年の歳月を待てば美しい自然が出来上がるのです。しかし人間はその年月を待つことは出来ない。自分の寿命にあわせて思い通りのものを実現しようとします。

     田や畑では食料を得るためには除草しなければならないし、害虫も駆除しなければならない。しかしどんな虫もバイ菌でさえもそれぞれが意味を持って生きています。それを我々人間が生きんが為に選別し排除していくのです。

     更に、人間らしく生きるためにということで、自然の中で与えられた以上のものを奪ってもいます。しかしこのような人間のあり方を否定することは人間には出来ないことです。人間は動物ではありますが裸では生きられません。

     要するに、人間は自然の中ではずいぶんと迷惑な存在、罪な存在であることを知るべきです。

     このような人間が地球の中で生きてゆくときに忘れてはならないこと……まず第一にこのような人間を生かしてくれている自然に対して深い感謝の思いを持つこと。必要以上に奪うことなく自然を大切にしていかなければなりません。……第二に生きんが為に選別するならば、せめて人間同士は決して差別しあうことがないようにすること。人間同士が差別し争うことは、人間を生かしてくれている自然の恩に背くことです。

      平成30年7月15日祥雲寺住職  安藤明之

     

    十八日は観音様の朝詣りの日です。午前六時からお詣りを始めます

  • 平成30年6月 観音朝詣りのお知らせ

    2018年6月18日

    琵琶湖畔、渡岸寺

    露に濡れる新緑の中の参拝となりました。

     

     本年の本山参拝、永平寺参拝の帰りに、滋賀県長浜市渡岸寺の十一面観世音菩薩を拝んできました。

     平安時代初期、貞観年間の頃制作されたと推測される国宝の観音像で、日本彫刻史上最高傑作であるという人もいます。

    それは、この観音様がただ美しいだけではなく、人間の持っている様々な心性に対応して仏様の世界に導く力を像の中に秘めているからです。

    頭上に戴く渋面のうち七面が、怒りをあらわす表情で、人間の悪心を滅することを表しています。

    とくに真後ろにある暴悪大笑面は、悪を笑って仏の道に入らしめるはたらきを示すものですが薄気味悪く、まるで悪魔の表情です。

     

     白洲正子さんは、名著『十一面観音巡礼』の中で、これらの表情は、この仏像の製作者が自ら体験したものから生まれたのだと想像しています。

    この時代の仏師は仏像を造ることが修行であり信仰の証しであって、仏像は、仏法という共通の目的をめざして、一人一人が造りあげた精神の結晶だというのです。

    傾聴すべき言葉と思います。

     

     芸術家によるものであれ、職人によるものであれ、才能と修練の技を持って精魂を傾けて造りあげられたものは人の心を打ちます。

    仏像がそれらの芸術品、美術品とちがうのは、それが俗世間を超越したものであるという信仰によって拝まれるものであるということです。

     

     私は、東京国立博物館で仏像の展覧会があると、必ずといっていいほど見に行きます。

    そのときにどうしても感じてしまうことがあります。

    それは、これらの仏様が、美術品鑑賞の眼にさらされるものではないということです。

    正面だけでなくあらゆる角度から見ることが出来るように展示された御像は、美術品の鑑賞としてうってつけです。

    私も鑑賞の眼になってしまいます。

    しかし、仏様は拝むものです。

     

     渡岸寺の観音像は、姉川の合戦の時には、村人によって地中に埋められて破壊を免れました。

    信仰を伝えて来た地で拝むことが出来てよかったと思います。

     

    平成30年6月15日

                                  祥雲寺住職 安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 平成30年5月 観音朝詣りのお知らせ

    2018年5月17日

     

    茶道教室のお茶会

     

    こちらは椅子席でのお点前

     

    対馬に行きました。

    朝鮮半島から直線で50キロほど、邪馬台国の時代から日本の入り口に当たる島です。

     

    由緒ある神社が多く、平安時代初めの延喜式には29座もの社の名が挙げられていて「神々の島」と云われます。

     

    お寺もたくさんあります。

    室町時代以降に開かれた曹洞宗寺院だけで51カ寺もあります。

    対馬や隣の壱岐からは、私の尊敬する高僧が何人も出ているので、それらの方々が息をした空気に触れたいという思いもありました。

     

    南北厄80キロにわたる島は、全体に山が連なり、平地はほとんどありません。

    入り江が入り組んだ複雑な海岸線と山の緑が相まって、澄み切った美しい景色を造っています。

     

    行ってみて、改めて思い起こされたことがあります。

    それはこの島が防人の島であったことです。

     

    飛鳥、奈良時代に国境警備のために東国から防人が徴発されました。

    役務は三年。

    集合地の難波津より東の行き帰りの旅は自費でしなければならなかったため、行き倒れになる人も多かったと伝えられます。

    九州から洋上130キロ余り、はるばる赴いたこの島での故郷への思いはいかばかりであったでしょう。

     

    万葉集には防人の歌が100首ほど載せられています。

     

    旅行(たびゆき)に 行くと知らずて 母父に

    言(こと)申さずて 今ぞ悔しけ  (下野の防人の歌)

     

    親に告げることもできずに旅立ち、任地に来て、明日をも知れぬ今日の身を思い、悔やんでいる兵士の歌です。

     

    唐衣(からころも) 裾(すそ)に取りつき 泣く子らを

    置きてぞ来のや 母なしにして  (信濃の防人の歌)

     

    妻を亡くし、育てていた幼き子供たちを置いて兵役に就かざるを得なかった父親の歌。

    悲痛この上ありません。

    歴史の島は、いにしえ人の息づかいを今に伝えてくれます。

     

    平成30年5月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の朝詣りは午前6時から行います。

     

  • 平成30年4月 観音朝詣りのお知らせ

    2018年4月17日

     

    坐禅堂の聖僧さま。坐禅をする文殊さまをお祀りします。

     

    私は美術品、芸術品を見るのが大好きです。

    とはいっても骨董収集の趣味はまるっきりなくて、もっぱら美術館、博物館、展覧会での鑑賞です。

     

    高校の修学旅行で出会った京都の太秦広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像。

    頬に寄せた指先から魂がすくい上げられていく思いがした感動は今も残っています。

     

    40年近く前、池袋の東武美術館で見た高麗青磁器の数々も忘れません。

    青く美しく深みのある色は、人間が作り出した宝石だと思いました。

     

    台湾の故宮博物館の中国明代の磁器も素晴らしかった。

    黄、赤、青など鮮やかな色どりで飾られた寸部の隙もない造形の壺や皿はまさに完璧と言っていいものでした。

     

    年齢を重ねるに従って惹かれてきたものもあります。

    侘(わ)び、寂(さ)という表現で表される芸術品です。

    これは、日本人が培ってきた精神風土のなかから生まれたものです。

     

    備前焼や信楽焼など、本来は日用雑貨であるものに芸術的な意味合いを見出した人達がいました。

    見方によっては、完成された美しさをもった中国の磁器と比べるとガラクタです。

    ゆがんだ形や、割れて釘止めした器にも風情を見いだしました。

     

    破袋(やぶれぶくろ)という銘の水差しを見たときにはびっくりしました。

    水入れなのに胴の表面は大きなひびが入っていて形もゆがんでいる。

    全くの失敗作のようですが、差し口は大きく重厚さに満ちている。

    まるで土が自らをこね上げて創り出したようで、まことに雄渾なおもむきです。

     

    調和のとれた美しさに心洗われるのも人間、ゆがみや破れなど調和の対極に心をゆすぶられ力づけられるのも人間。

    そして調和も不条理もこの世界、宇宙、天地万物の中にあるものであり、人間も、その精神もここから生まれたものです。

     

    この世界の持っているものと人間の精神が感応して、人間にとって意味あるものとして現れ出でたのが芸術であり、それを生み

    出すのが芸術家であるといえましょう。

     

    平成30年4月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の朝詣りは午前6時から行います。

     

祥雲寺行事案内

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