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令和4年12月 朝坐禅会指「指月の会」案内(12月の開催は26日となります)
2022年12月25日吾我を離るるには、観無常是れ第一の用心なり」 (正法眼蔵随聞記)
今年も年の瀬となり、来年に向けての大掃除が先日終わりました。
来年の算段も諸々考え動き出しています。
地元の仲間が、来年から大本山永平寺で役寮という運営指導役のご指名を受けました。
栃木と福井を行き来して役に付くのは大変でしょうがどうか頑張っていただきたいです。
その際には修行僧らで挫折する人が出ないようよく見てあげてほしいと切望します。
私自身上山して2,3週間後が一番きつくて折れそうになりました。
あの時仲間に支えてもらっていなかったら全く違う人生を歩んでいたでしょう。
では修行では何が大変なのか、どうして挫折するのかと考えてみると、
上記の「吾我を離れる」という部分に躓くのではないかと思いました。
先日ドイツ人の禅僧ネルケ無方師に宇都宮仏教会の仏教文化講演会でお話を頂戴しました。
内容はご自身の発心修行菩提涅槃、なぜ出家しどう修行して何に気づいたかです。
少し端折って要約するならば
「坐禅を体験して自身の視点が変わり興味を持った。
出家しお寺で修行を始めたが修行らしいことは出来ず雑用ばかりで不満を持った。
不満を訴えたらお前のことなど知らん、と言われて失望した。
しかしそれこそが師の叱咤激励であったのだと気づくことができた。
修行は集団生活で、皆で支えあうのだから裏方も当然せねばならない。
そうしたとき我が強く自身を優先していては場が成り立たない。
むしろ迷い悩みの根源となる我を手放していくことが修行であり精進なのであるのに
いったい何にこだわっているのだ」と。
この自意識の問題、我を離れるというのがなかなか難しいのです。
私も修行の中、我執を離れるとは如何なる事かを感じるきっかけがあって少しは理解できました。
禅の修行は、自身で迷いから離れ気づく、体験をするという所を重視してきました。
他人から教え諭されるのではなく、自身で気づき見つけることでそれが自身の宝となる。
永平寺での修業がやり方を教わるばかりで
これが何なのか何故そうするのかに言及されないのはそういうことです。
現代のお坊さんは家がお寺だからと修行に臨む人が多いです。
動機がそこであっても出家修業とは間違いなく尊い得難い機会です。
この稀なるご縁を損なうことのない様フォローがなされてほしいと願うばかりです。
祥雲寺副住職 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。1月は23日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和4年11月 観音朝詣りのお知らせ
2022年11月23日ひとの生を うくるはかたく
やがて死すべきものの いま生命あるは ありがたし
法句経182 友松円諦 訳感謝の言葉「ありがとう」の語源になっている経文です。
お釈迦様は、この世界で人間に生まれること、生まれ出でて命を保っていることがどんなに有ること難い縁に依っているものなのかを説かれています。別のお経では、人間に生まれることがありえないような確率であることを示す盲亀浮木というたとえ話もされています。
ところで「感謝」という言葉について、何か私たちにためになること、利益になることをしてくれたことへのお返しの感情を表わすものと思うのが常であると思います。
恩に報いる「報恩」という言葉がそれを表わしています。その考えは人間にとってとても大切なことなのですが、それだけではもらったものへのお返しにすぎないのではないのかという思いもぬぐいきれません。
生きていることを当たり前と思うなかからは権利の意識は生まれても、この経文に説かれる感謝の感情は生まれません。お釈迦様は、人間が幸せに生きる道として慈悲喜捨の四無量心を説かれました。
慈はいつくしみ、悲はおもいやりです。三番目の「喜」は、人の喜びを自分の喜びとできるような生き方をしなさいという意味です。
そして四番目は分け隔てない心です。
私たちはこの世界の天地万物と共に生きています。
生きることには自分も他人も分け隔てはありません。
そこにあるのは生きることそのものの喜びです。自分も他人も分け隔てることのない喜びを言葉で表わすとすればそれこそが「感謝」であると私は思います。
意識できる恩を受けたということがなくても、生きている中で自然にわいてくる喜び、それをありがたい感じることが感謝の本質です。
令和4年11月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時半から行います。 -
11月の諸行事 ご興味の方はお問い合わせ下さい
2022年11月2日■雀宮善應院坐禅会(第四水曜日のみお休み)
宇都宮南町1番36号「善應院」にて毎週水曜日(第四以外)夜6時から行っている坐禅会です。
11月2日、9日、16日、30日
■月例坐禅会「指月の会」
祥雲寺本堂にて毎月第四月曜朝6時半から行っている坐禅会です。
11月28日
■テラヨガ(ヨガ教室)
阿久津先生指導の下第一第三金曜日10時半から。初心者クラスは第二第四金曜日10時半から
11月4日、18日。初心者クラスは11日、25日
■陶芸教室「祥陶会」
駐車場下の作陶場にて毎週火、木午後1時から行っています。
■石彫会「羅漢の会」
毎週土曜午後、駐車場作事場にて石仏の彫刻を行っています。指導は松原「金野石材店」
■茶道教室
月二回火曜日午後2時から、裏千家鈴木宗陽先生のご指導の下行っています。
11月8日、22日
■写経会
写経会は5月から11月、第二日曜日午後2時から行っています。
11月13日
■御詠歌
祥雲寺住職、並びに栃木市豊栖院飯塚先生の指導の下月2回行っています。
11月1日 10時~12時 住職指導御詠歌
11月15日 10時~12時 飯塚先生指導御詠歌
11月24日 1時半~3時半 住職指導御詠歌(長岡公民館)
■フラワーアレンジメント教室
南宇都宮駅前「フラワー花亀」亀井先生指導の下第四水曜日午後1時半より行っています。
11月30日
■折り紙教室
カルチャースクール講師長谷川京子先生指導のもと第3水曜日午前10時よりより行っています。
11月16日
■クラフトペーパー教室
同じくカルチャースクール講師長谷川先生指導のもと第2月曜日午前10時より行っています。
11月14日
■観音朝詣り
境内33観音霊場を18日朝にお参りするミニ巡礼会です。開始時間は季節により前後します。
今月は午前 6 時 半 から
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10月の諸行事お知らせ
2022年10月2日10月の諸行事 ご興味の方はお問い合わせ下さい。
■雀宮善應院坐禅会(第四水曜日のみお休み)
宇都宮南町1番36号「善應院」にて毎週水曜日(第四以外)夜6時から行っている坐禅会です。
10月5日、12日、19日
■月例坐禅会「指月の会」
祥雲寺本堂にて毎月第四月曜朝6時半から行っている坐禅会です。
10月24日
■テラヨガ(ヨガ教室)
阿久津先生指導の下第一第三金曜日10時半から。初心者クラスは第二第四金曜日10時半から
10月7日、21日。初心者クラスは14日、28日
■陶芸教室「祥陶会」
駐車場下の作陶場にて毎週火、木午後1時から行っています。
■石彫会「羅漢の会」
毎週土曜午後、駐車場作事場にて石仏の彫刻を行っています。指導は松原「金野石材店」
■茶道教室
月二回火曜日午後2時から、裏千家鈴木宗陽先生のご指導の下行っています。
10月11日 25日
■写経会
写経会は5月から11月、第二日曜日午後2時から行っています。
10月9日
■御詠歌
祥雲寺住職、並びに栃木市豊栖院飯塚先生の指導の下月2回行っています。
10月13日 10時~12時 住職指導練習会
10月20日 1時半~3時半 長岡公民館練習会
(10月6日 特派講習会 本部特派講師による指導 光明寺(本町)会場 9時~12時
■フラワーアレンジメント教室
南宇都宮駅前「フラワー花亀」亀井先生指導の下第四水曜日午後1時半より行っています。
10月26日
■折り紙教室
カルチャースクール講師長谷川京子先生指導のもと第3水曜日午前10時よりより行っています。
10月19日
■クラフトペーパー教室
同じくカルチャースクール講師長谷川先生指導のもと第2月曜日午前10時より行っています。
10月10日
■観音朝詣り
境内33観音霊場を18日朝にお参りするミニ巡礼会です。開始時間は季節により前後します。
今月は午前 6 時 から
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令和4年9月 観音朝詣りのお知らせ
2022年9月17日平成30年9月のこの葉書で、檀家と菩提寺の関係は、先亡霊位の供養を通じて、未来に渉って共にあり、共に栄えることを前提にしているのだから、檀家の将来が危ぶまれるような過分な寄付を要求する住職はいないと記しました。
いま旧統一教会が信徒に高額の寄付を求め続けてきたことが問題になっています。
実際、宗教団体は寄付がなければ成り立ちませんから、寺にとってもこのことは他人事ではありません。
祥雲寺でも、本堂再建を始め諸堂の整備は檀家の寄付に依りました。
天蓋、大磬など高額の個人寄付によって調えられたものもたくさんあります。
寺を預る住職として感謝の極みです。
寄付について、仏教では布施、喜捨という言葉を使います。
これについてお釈迦様の教えがあります。
比丘たちに対する最後の説法(遺教経)で、「多く求めて、施す人の善心を壊してはならない」と戒められました。
比丘すなわち僧侶は、道を求めて生産の場を離れた者です。
古代において生産の場を離れれば日々の糧も施しに依るしかありません。
遺教経ではそのことを「その身を降してしかも乞を行う」としています。
身を降しても行わなければならないことは、自らの善心を高め、ひいては人間の善心を呼び起こし仏道へと導くことです。
そのためのたゆまぬ精進を怠るなかれと戒めてお釈迦様は入滅されました。
欲を持って施しを求めるならば、世の中で最も卑しい存在となる。僧侶にとって厳しい戒めです。
令和4年9月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。