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9月の行事予定
2021年8月31日9月の諸行事 ご興味の方は電話にてお問い合わせ下さい。■雀宮善應院坐禅会(第四水曜日のみお休み)宇都宮南町1番36号「善應院」にて毎週水曜日(第四以外)夜6時から行っている坐禅会です。9月1日、8日、15日、29日■月例坐禅会「指月の会」祥雲寺本堂にて毎月第四月曜朝6時半から行っている坐禅会です。9月27日■テラヨガ(ヨガ教室)この春からの新企画。阿久津先生指導の下第一第三金曜日午前10時半から行っています。(今月は第三第五)9月3日、17日新たに初心者クラスを設けました。第二第四金曜日午前10時半から行います。9月10日、24日■陶芸教室「祥陶会」駐車場下の作陶場にて毎週火、木午後1時から行っています。第三週から開催■石彫会「羅漢の会」毎週土曜午後、駐車場作事場にて石仏の彫刻を行っています。指導は松原「金野石材店」平常開催■茶道教室月二回火曜日午後2時から、裏千家鈴木宗陽先生のご指導の下行っています。9月14日、28日■写経会写経会は5月から11月、第二日曜日午後2時から行っています。9月12日午後2時 本堂一階■御詠歌祥雲寺住職、並びに栃木市豊栖院飯塚先生の指導の下月2回行っています。9月3日1時半~3時半 長岡公民館9月14日10時~12時 祥雲寺9月28日10時~12時 飯塚先生指導■フラワーアレンジメント教室南宇都宮駅前「フラワー花亀」亀井先生指導の下第四水曜日午後1時半より行っています。今月は第5週水曜日■折り紙教室カルチャースクール講師長谷川京子先生指導のもと第3水曜日午前10時よりより行っています。9月15日■クラフトペーパー教室同じくカルチャースクール講師長谷川先生指導のもと第2月曜日午前10時より行っています。9月13日■観音朝詣り境内33観音霊場を18日朝にお参りするミニ巡礼会です。開始時間は季節により前後します。今月は午前 6 時から -
令和三年8月 観音朝詣り
2021年8月18日お釈迦様の涅槃を伝えるのが涅槃経です。最後の旅に出られたお釈迦様が、付き従ったアーナンダに「(私の入滅の後は)法を灯とし、自らを灯として生きよ」と諭(さと)されたことは「法灯明、自灯明」と言われて伝えられました。この言葉は仏教の本質を表した重要なものです。お釈迦様は紀元前5世紀から4世紀にかけて北インドにおわした方です。その方を仏教徒は、悟られた方、仏陀と信じ、その教えを、悟りの世界からの導き、「法(ダルマ)」として頂いているのです。これが法灯明です。法はどのような時代にも、環境にも、変わらない普遍的な真理です。しかしこの法を全ての人が間違いなく知ることができるのでしょうか。教えを受け取る側の問題があります。どのような人間も、時代・環境に制約されています。生まれも違う。言葉も違う。物事を考える筋道も違う。いかに普遍的な教えでも、それが説かれる時代、環境に沿うものでなければ人の心に届きません。お釈迦様が言葉にされた教えも、それが人々を救おうとして発せられたものである以上、時代、環境の制約を受けているのです。お釈迦様はこれについて「私の教え(法)があなたたちを縛るものであるなら、我が法を捨てよ」とおっしゃられました(筏イカダのたとえ)。自らの教えを相対化することであり、一般的な宗教ではあり得ない言葉です。法が捨てられたらどうなるか。信者、修行者が自ら道を求めるしかありません。時代も環境も言葉も違っているのですから、それに適って腑に落ちていく仏さまの教えを創造していくしかありません。これが自らを灯とする自灯明です。大本がなければ迷いの道に入ってしまいますから、常に法に問いかけ、照らし合わせて、仏道に精進するのが仏教徒のあり方です。私は法灯明は信仰を、自灯明は修行を示すと思っています。令和3年8月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之 -
令和三年7月 観音朝詣り
2021年7月17日仏陀は神様より偉いのか。お釈迦様は菩提樹の下で悟られた後もそのまま禅定に入られたままでした。それを見ていた大梵天は、せっかく悟られたのに説法をして下さらなければ私の作ったこの世界は滅びてしまうと危惧し、お釈迦様に説法、すなわち悟りの世界からの教えを説いて下さるよう懇願しました。お釈迦様はその願いを受け容れて、ベナレスの町に行き、最初の説法(初転法輪)をされました。(増一阿含経第十勧請品)梵天勧請といわれるこの話は、非常に深い意味を持っています。大梵天はインドでは、私たちの住むこの世界、娑婆世界を作った神様です。ほかの宗教なら、天地創造の絶対神であり、教えを請うてひれ伏すなどありえません。どうしてそうなるのか。それは、大梵天が主(あるじ)なのは「この世界」だけで、実際には三千世界と言われる無数の世界があるからです。これらの世界を普通の人間は見ることはできません。それは、仮に世界と名付けるだけで、物質でできているかどうかも分からない、人知を越えたものであるからです。これを仏教では「不思議」という言葉で言い表します。言い換えれば、人間の知力には限界があるということを示しているのです。人間が、持って生まれた肉体で物事をとらえ、組み立て、判断していることから来る限界です。お釈迦様は、この三千世界を貫く真理(ダルマ)を悟られた方、仏陀なのです。悟りは「知る」ではありません。人間的な知を越えたもので仮に如来智と名付けます。悟りの前では、我々の前にある全ての事象が相対化します。それは神さえも例外ではありません。仏陀が神より偉いのではなく、どちらが偉いのかという考えが否定されるのです。三千世界も、人知を越えた悟りがあることも、お釈迦様が悟りを得たことも、私たちには証明することができません。ですからこれは信仰です。その教えが、ひとつひとつ我が身に照らして納得でき、救いとなるとき仏教徒となります。仏教はお釈迦様が仏陀であることを信じる宗教です。令和3年7月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之十八日の朝詣りは午前6時から行います。 -
令和三年6月 観音朝詣り
2021年6月20日NHKの「チコちゃんに叱られる」で面白い話がありました。にぎり寿司一人前はだいたい10個(10貫)と決まっているそうで、どうしてそうなのかという話でした。戦後まだ統制経済だった時、寿司屋さんは営業が出来ませんでした。配給制で営業用の米がないのですからどうしょうもありません。その時、東京都内の老舗寿司屋さんたちが、お米を一合持ってきてくれば、10個のにぎり寿司にしてお出ししますという、法律で禁じられていない食品加工の方式を考え出したのだそうです。それでも、店を開けるのには知事の認可が必要で、魚も統制されていたので許可されなかったのですが、野菜を代わりに使うということでようやく開店できたとのことです。カッパ巻きがその産物だということでした。果たして客が来てくれるか不安だった開店の日、お米を持って次から次と人が来て嬉しかった思い出を、老舗の老体が語っていました。今も昔も寿司は贅沢品ですが、無理をしてでも美味しいものを食べたいという人間の本性は変わらないということでしょう。おかげで江戸前寿司の伝統が守られたという結論でした。この話を聞き、私は工夫という言葉を思い出しました。工夫は、手間暇をかけて物作りの思案をするというのが元々の意味です。たとえば、なにか物を作っているときに起きた問題を、培われた技術と発想を変えた考えで解決し、目的を達成したり、新しいものを作り出したりすることです。寿司屋さんには修業を積んだ技術があります。美味しいものを作って人の喜ぶ姿を見たいという意欲もあります。ただ肝心の食材がないという大困難を、お米を持ってきてもらうという発想の転換で解決したのです。商売が続けられるか?江戸前の伝統が自分たちで終わってしまわないか?。切羽詰まったからこそ生まれた解決法だったのでしょう。禅も工夫を大切にします。自己を見つめ、切羽詰まったときに、自己を捨てるという大転換がなされ、無心に坐禅に精進することを禅宗では工夫というのです。令和3年6月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之十八日の朝詣りは午前6時から行います。 -
令和3年四月 観音朝詣り
2021年4月14日先代住職裕之は「曹洞土民」とよく言っていました。また弊師と同年代以上の宗門の老僧方もよく「曹洞土民じゃから」という言い方をしていました。いつの時代からか分かりませんが「臨済殿様、曹洞土民」という言葉が使われました。これは、同じ禅宗でも、臨済宗は将軍家や守護などの大大名が建立し、大伽藍とそれを維持する広い領地をもっていた寺院が多いのに対し、曹洞宗は百姓に支えられた田舎寺が大部分だったことからきたのだと思います。そしておそらくは曹洞宗を蔑む言葉だったのでしょう。土民も農民を蔑む言葉です。しかし私の聞いた限り、裕之や老僧方は卑下してこの言葉を使ったようには思えません。そうではなく、曹洞宗は民衆と共にあるのだという自負を感じました。「土」は、農耕社会では生産の基(もとい)です。生命の母であり、死ねば等しく帰って行くところとされました。「百姓」も、近年では農民に対する差別語としてのみ使われるようになりました。かつて檀家の農家の親父さんたちが「俺は百姓だから」と言うとき、土に塗(まみ)れて耕し、命の基(もとい)を生産している者としての誇りを感じたものです。権力を握る側からは差別語であったかも知れないが、民衆には民衆の誇りがあったのです。それは労働する者の誇りです。情報化社会と言われて久しい現在では、汚れる仕事、肉体的にきつい仕事は嫌われるだけでなく価値もおかれなくなりました。コンピュータを駆使する仕事の方がはるかに高い労働生産性を持ち、従って給与もよい。いわゆる3Kに分類される仕事に進んで就こうとする人は少なくなり、外国人に頼る状況です。将来はロボットに任せるという話もあります。果たしてそれでよいのでしょうか。人間は本来、額に汗して働き技術や知識を身につけてゆく、そんな労働に喜びと幸せを感じる生き物です。肉体的な労働から解放されることが、実は人間の喜びを奪ってゆく。現代文明は人間の幸せと反対の方向に向かっている。そうでなければいいのですが。令和3年4月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之十八日の朝詣りは午前6時から行います。