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令和7年4月 朝坐禅会「指月の会」案内(4月28日朝6時半より)
2025年4月26日この坐禅会も始まって十年となります。
当初は東京の研修会で聞きつけた「朝活」というものを
市街地隣接の祥雲寺なら坐禅会として行えるのでは、
また修業時代の朝に坐禅する習慣を維持するためにも大勢で行じるならば
無精な私でも楽に、楽しくも出来るはず、と続けてきました。
初心を思い返し、最初の文章を今年も再掲します。
お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。
誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、
誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、
という思いを抱いてはいないか。
その思いがすでに怨みであると知りなさい。
怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。
いっさいの怨みを棄てよ。
今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。
棄てれば、必ず軽くなる。
棄てて、かろやかに生きなさい。
― 『スッタニパータ』第一章 ―
静かな所で何をするでもなく落ち着いて瞑想をすることで心身の調子が整う、という事は昔から広く知られ、行われてきました。
近年では科学的分析により血圧が下がる、海馬の機能が促進され脳内の情報整理がされる、精神安定に重要な働きをするセロトニンの生成が促される、等の効果が確認されているそうです。
しかし坐禅は、これらの効果を内包しながらも、何も求めないで只ひたすらに坐る事こそ最上のものである、と伝えられてきました。
私はそれは、「軽くなる」からだと思います。
人間生きていれば百人百様、様々な想いやしがらみを背負っているはずです。
古人は人生を「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と形容したそうですが、時には荷を下ろし、わが身を見つめ直す時間こそ忙しい現代人に必要な物だと思います。
一人で行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝座禅会はそのような場となる様発起しました。
皆さんと行うこの坐禅の一時が、「軽やかな」時間となることを願います。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は本山参拝旅行の予定があるため第三週月曜日の5月19日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和七年三月 朝坐禅会「指月の会」案内(3月17日朝6時半より)
2025年3月16日諸行無常 「四法印」
月の頭から大分暖かくなって、でも翌週には雪マークが着くくらいに気温が下がって、三寒四温といっても大分極端な気温変化が続いています。
しかしこの寒さからの暖かさ、私は実はちょっと前に熱い地域に行っていたので少し身に覚えが残っているのです。
私は先月下旬、タイに行ってきました。
栃木の曹洞宗青年会、お寺の若手の集まりで、会長職に就いていた人のお疲れ様旅行に久しぶりに海外に出ようと盛り上がり、二泊三日の弾丸スケジュールでバンコク研修旅行をしてきました。
タイは東南アジアの中でも指折りの仏教国で、眺めた観光ガイドでは国民の九割以上が仏教徒の国だそうです。
バンコクでも礼拝のための仏様をお祀りしたお堂がそこかしこにあって、道行く車のフロントには小さな仏様が備えられていたりもしました。
日本と違って石造りの寺院や仏像が多いのは、産出され加工しやすい以上に地震が少ないからなのでしょう。
いつもお墓を新しくする石塔開眼の際にお話ししているのですが、私は石造りの墓や仏像というのは、何年経っても変わることのない石の不変性、長い時を超える永遠性に願いや祈りを託したいという想いから産まれるものだと思っています。
お墓であるなら石の変わり様の無さに故人の存在やご縁を託すことが出来る様に、仏像であるなら尊い方の姿や教えの素晴らしさ有り難さが表され、遠い未来までも変わりなく伝わるように、といった想いから文化や人種の違いなく世界共通に人々が行っていることなのでしょう。
石のような鉱物に対して私達は、あっという間に変化していく有機物の、肉の体に生きています。
私たちは皆、何某かの縁によって結ばれ連なり、生まれ育って、やがて老い枯れ朽ちていきます。
全ては変化していく、留まることはない、ならばそんな変わりゆき捉えることの出来ないものに心縛られ囚われる必要なんて何処にも無い、無いんだ。
仏教ではこれを諸行無常と呼んでいます。
私には、この諸行無常を違う視点で教えてくれた、ある小説を今もはっきりと憶えています。
学生時代の頃に読んだ作家村上龍の小説の中で、ウィルスの猛威に無力を感じる人に老生物学者が静かに語ります。
「我々の体を構成する分子は脆くて壊れやすい繋がり方で繋がっている。
だから化学反応が可能で、全体として信じられないような生体のシステムが生まれた。
強い結合で結ばれれば鉱物になってしまう、鉱物は何億年経っても殆ど変化がない。
人間は柔らかい生き物だ、その柔らかさ、脆さ、危うさが人間を人間たらしめている。」
私たちは変化するからこそ何事かを成すことが出来る。
変わるものと変わらないものの違い。
変わらないものには成し得ないことを私たちは成せる、無常という道理はこんな受け取り方も出来るのかと、多面的な捉え方や受け取り方の大切さを今でも考えさせてくれます。
今祥雲寺ではまさに石造りの仏様方である五百羅漢が彫り上げられ、今年五百体完成が目されているところです。
良い形で未来へ伝えてゆけるように年末の完成開眼法要に向けて準備をしていきたいと思います。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は4月28日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和7年2月 朝坐禅会「指月の会」案内(2月24日朝6時半より)
2025年2月23日おんみら知るべし。求むるところ少なきものは心安らぎて
うれいおそるることなく、事にふれて足らざることなきを。
もし悩み苦しみをのがれんには、足るを知るにしくはなく、
さとりの安楽を求めんには、ひとり静かに慮(おも)うべし。
『宇都宮仏教会伝道部訳 遺教経・小欲知足』
二月十五日はお釈迦様の命日であり、涅槃会と呼ばれています。
仏伝には、お釈迦様は御年80歳の旅の中、クシナガラという地の2本の沙羅の木、沙羅双樹の元に身を横たえられ、満月の夜に沢山のお弟子達に囲まれて涅槃に入られたと書かれています。
この場面を描いた仏画を涅槃図といって、多くのお寺が二月十五日に掲げてお勤めを行います。
またこの亡くなられる時、お釈迦様はご自身の教えが弟子達に間違いなく伝えられ、自分の死後も惑うことがないようにと、これまでご自身の説かれてきた教えを纏めて説いて示されました。
この時説かれた教えは遺言の教えのお経、遺教経という名前で残されて、お葬式で読まれたり涅槃会の際に読誦されています。
ただこのお経、ゆっくり読むと小一時間ほどもかかる少し長い経典になります。
この遺教経を一般の方にも手に取りやすくしようと、私の祖父にあたる安藤裕之和尚と、宇都宮駅すぐ南の林松寺先々代阿部住職が共同で略訳を行い、宇都宮仏教会伝道部訳・略訳遺教経として同仏教会や市内寺院で用いられています。
略訳遺教経は完訳版から要点を抜き出して作られたお経です。
教えを道しるべとする持戒、心を定める禅定、精進や智慧等を説いていますが、上記は仏教の言葉として一際有名な「小欲知足」を主に説いている箇所です。
意外に思われる方も居るでしょうが、仏教では無欲、欲を無くせとは説いてはいません。
元来欲は生存に必要なものを満たすために求めるはたらきであり、肉体的な欲、心的な欲がありますが、ただそれだけでは特に悪いものではありません。
しかしこの欲が、求めたものに過剰に愛着し妄執したら、それが煩いを生み出すから愛着するべきではない、と説いているのです。
欲が過剰になれば自身を束縛する煩い即ち煩悩となる、だからこその小欲知足、欲少なく足ることを知る、ということが大切になってくるのです。
仏教とは欲望を自制し、自身でコントロールできるようにしていく道を説いている教えなのです。
欲が少なく出来る様にしていく為に必要となるのが足るを知る、事です。
完訳版の遺教経にはこのようにも説かれています。
足ることを知っている者は地べたに寝るような生活であっても心穏やかにある。しかし足ることを知らない者は天の宮殿のような所に住んでいても満足することはできない。足ることを知らない者はどれだけ裕福であっても心は貧しい。足るを知るのに必要なのは、見定めることです。
それが自分に必要なのか、過ぎたものでないのか、実は足りている、十分持っているのではないのか、身を落ち着け静かな心持ちでよく見定めることが必要です。
小欲知足で何が成されるのか、さとりの安楽と表現されているように、欲や自意識といった重く煩わしい煩悩から離れ解放されて、囚われがなくなります。
坐禅における三昧の境地、私はそれを仏心と呼んでいます。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は第二回西国巡礼と第四月曜日が重なってしまう為1週間繰り上がり3月17日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和7年1月 朝坐禅会「指月の会」案内(1月27日朝6時半より)
2025年1月26日衆生の迷い、根本は我見なり
一月も半ばを過ぎ、静かで穏やかだった正月の頃から打って変わって世の中も大分慌ただしくなってきました。
アメリカではトランプ大統領の就任式となり、下旬はその話題でメディアは持ちきりでした。
そんな中で映画『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』封切りの広告に目を引かれました。
月末までに時間を作って見に行きたいと思っています。
宣伝文句曰く
気弱で繊細な20代のトランプ青年は、父親の会社が傾いた事をきっかけに悪名高い伝説の弁護士から〈勝つための三つのルール〉を伝授される。
<ルール1:攻撃>、<ルール2・非を絶対に認めるな>、<ルール3・勝利を主張し続けろ>
という冷酷で非情な手法を教わった青年は、やがて弁護士の想像を超えた怪物に変貌していく。
というものだそうです。
或いは昔からなのかもしれませんが、近年その場限りの虚偽を声高に訴え、自らに不利な情報を精査せずにフェイクだと言い切って取り合わない、そんな著名人が増えている印象があります。
情報社会と言われ、新旧問わずメディアに流れる膨大な情報をチェックして是非を考えるよりは、自分に興味関心が持てる受け取りやすい情報のみに聞く耳を持つ人が増えていることが、拍車をかけているのかもしれません。
しかし、嘘は良くないです。
多くのものを損ない、信用を失い、自分自身をも歪めます。
自分本位の見方考え方から抜け出せなくなって、世間とのズレが軋轢ともなり、迷い苦しみの元となります。
この嘘の生き方、自分本位自己中心主義に陥ることを「我見」という言葉で仏教は戒めています。
「衆生の迷い、根本は我見なり」と仏様は説かれています。
迷いとは、嘘の生き方、自分中心の物の見方で世界を観察することによって生じて起こるズレを言います。
だからこそ、我見という自分本位の見方を離れた無我の視点に立ってみれば、世界との摩擦は起こらず、迷いや苦しみというようなものから離れていくことが出来ます。
嘘のない生き方を心がけたいものです。
昨今の風潮で危惧してしまうのは、多くの大人が恥ずかしげも無く嘘を突き通す有様を見せ、それが通ってしまう姿を見て、次代を担う子供たちが真似てならってしまいかねないことです。
「正直者が馬鹿を見る」世の中ではなく、「正直の頭に神やどる」生き方こそが、自らの人格を正し、多くの人が生きやすい世の中と出来うるはずです。
私たちの姿勢が見られているのだという意識が必要なのかもしれません。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は2月24日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和6年12月 朝坐禅会「指月の会」案内(12月23日朝6時半より)
2024年12月21日而今
しばらく前の下野新聞に、書道展の作品が載っていました。
上記の言葉は掲載された作品の中の一つです。
中々読みにくい言葉ですが「にこん」出典によっては「じこん」とも読みます。
宇都宮の人ならば、老人介護施設の名前ということで聞き覚えがあるかもしれません。
祥雲寺のご近所さんなら、中央警察署の裏に去年出来た人気の割烹料理屋を思い浮かべもするでしょう。
作品の横に一言コメントで、作家水上勉の造語と書かれていましたが、これは古くからある禅語になります。
意味は今この瞬間に真摯に向き合う、今を真剣に生きる、といった意味で用いられます。
数年前にNHKスペシャルでストレス社会の対処法、といった番組がありました。
曰く、ストレスは強まれば脳に器質的な不可逆の損傷をもたらすこともあるので軽視し看過してはいけない。
ストレスとは二つのものが大きな部分を占める。
過去にあった痛手を思い出し反芻して現在にストレスを感じる。
未来にある嫌な事を想定して現在にストレスを感じる。
対処法としてコーピングとマインドフルネスが挙げられる。
コーピングとは自身にとって心良い、息抜きリラックス気分転換できる様々な所作を数十も用意し適時用いてケアをする方法。
マインドフルネスとは仏教で伝えられてきた修行法を一般向けに再編したもの、とのことです。
やっていることはほぼ変わりありません。
今にしっかりと心を定めることです。
私たち生き物には、常に「今」この瞬間しかありません。
過去は過ぎ去って今ここにはなく、
未来は未だ来ないので今ここにはないです。
確かにありますが、それは私たちの頭の中の記憶やイメージでしかない、強いて言うなら虚像です。
今ここに無いものに気を取られて、あまつさえ心を縛られゆがめられることはないのです。
そんな存在しないものよりも、今目の前の人や物事ににきちんと集中し焦点を合わせて向き合うことの方がよほど大切ではないでしょうか?
故に「而今」あれこれ他のことに気を向けず、今この瞬間この自分を真剣に生きる。
類義語を挙げるならば一所懸命や一期一会になるでしょうか。
心の置き方向き合い方の表現として良い言葉です。
多くの方に知っていただけたらよいなぁ、と思います。