-
令和8年4月 朝坐禅会「指月の会」案内(4月27日朝6時半より)
2026年4月26日この坐禅会も始まって十一年となります。
当初は東京の研修会で聞きつけた「朝活」というものを
市街地隣接の祥雲寺なら坐禅会として行えるのでは、
また修業時代の朝に坐禅する習慣を維持するためにも大勢で行じるならば
無精な私でも楽に、楽しくも出来るはず、と続けてきました。
初心を思い返し、最初の文章を今年も再掲します。
お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。
誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、
誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、
という思いを抱いてはいないか。
その思いがすでに怨みであると知りなさい。
怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。
いっさいの怨みを棄てよ。
今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。
棄てれば、必ず軽くなる。
棄てて、かろやかに生きなさい。
― 『スッタニパータ』第一章 ―
静かな所で何をするでもなく落ち着いて瞑想をすることで心身の調子が整う、という事は昔から広く知られ、行われてきました。
近年では科学的分析により血圧が下がる、海馬の機能が促進され脳内の情報整理がされる、精神安定に重要な働きをするセロトニンの生成が促される、等の効果が確認されているそうです。
しかし坐禅は、これらの効果を内包しながらも、何も求めないで只ひたすらに坐る事こそ最上のものである、と伝えられてきました。
私はそれは、「軽くなる」からだと思います。
人間生きていれば百人百様、様々な想いやしがらみを背負っているはずです。
古人は人生を「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と形容したそうですが、時には荷を下ろし、わが身を見つめ直す時間こそ忙しい現代人に必要な物だと思います。
一人で行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝座禅会はそのような場となる様発起しました。
皆さんと行うこの坐禅の一時が、「軽やかな」時間となることを願います。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は5月25日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和8年3月 朝坐禅会「指月の会」案内(3月16日朝6時半より)
2026年3月15日実相を証すれば人法無し(悟りの世界の視点から見るならば人間界の取り決めなど何もない)
『証道歌』
先月はカンボジアラオス参拝旅行に行ってきました。
アンコールワットなどの遺跡では石の仏さまが多かったですが、僧侶が修行してお参りされる寺院では金箔の本尊様が殆どでした。
東南アジアの仏教国では多くの仏さまが金色で、尊い方のお姿は輝いているものとの認識があるのでしょう。
これまでお参りした国でミャンマーなどは金の産出国ではありますが、お参りする仏塔(パゴダ)などに賽銭感覚で金箔を張り付ける習慣があり、ある寺院の仏像は金箔を張り付けられすぎて原型が解らなくなって、着膨れしたダルマさんみたいになっている所もありました。
日本でも願掛けにお像に縄をかけ、正月だかに縄を切り取る時だけお姿を顕す仏さまが先日テレビに映っていたので、方法の差こそあれ願いを託すという点では同じなのでしょう。
さて、こちら祥雲寺では毎月第四月曜日の朝にこうして朝坐禅会を行って十年になりますが、雀宮出張所善應院での毎週の坐禅会はもう二十年になります。
私が大本山での修行から帰ってすぐの頃から始め、小さい庵ながらそれなりに長く続けてこられました。
私が多少なりとも禅や仏教について説示できるのも、来られる方に時間を無駄にしたと思われないよう工夫せねばと苦心したからで、参加される方に鍛えていただいたお陰でもあります。
この善應院、10㎞南の雀宮にあるだけに常駐はできないので維持清掃には地元の参加者のご協力が欠かせず、お陰で檀務と平行しながら続けられているものです。
先週末に十年以上通われている方から電話があり、善應院の本尊の観音様を掃除していたらお顔を汚してしまったと謝罪をされてしまいました。
私にすれば謝罪されるよりも感謝が先に来るもので、お掃除頂いて助かっています、確認していませんが観音様は年月重ねた風格が出たかもしれないですね、とお返事しました。
宗教美術、事に仏像の類いは、それそのものの材質や彫刻彫像の技量、重ねた年月と由来で判断される価値や評価よりも、その姿が表現する印象、心の有り様こそが尊ばれるものであるはずです。
唐代宋代の中国の禅僧は大きな名刹に住職赴任する際の詩偈で、大きな本尊様よ貴方の教えは尊いがその大きな金ピカの姿を拝むのはまっぴらごめんです、と権威に盲従しない自由闊達な禅境を詠ったものが幾つもあります。
最近聞いたタイのお話に、仏教国で美術家を目指す若い女性がウルトラマンの姿をした仏陀の姿をアートとして発表して大きな社会的反響があったそうです。
最終的には非難の声が強くて、作者の女性が高僧に謝罪を述べる形で幕引きとなったそうですが、当の仏さまなら柳に風と流されたのではないかなぁ、なんて思いながら聞いていました。
毀誉褒貶は世の常で、そうした世の中の物差しから離れることこそが出家であるはずで、だから仏さまの姿は清浄無為の佇まいなのでしょう。
個々の色眼鏡、世間の物差しを離れるのが仏道。前も紹介しました内山興正老師のお言葉を借りるならば、のぼせが下がって正気の沙汰になった目でものを見る。
多生煤けてしまったとて仏は仏。
そう心から思える坐禅会とお話の時間を勤められるよう励んでいきたいです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は第四週4月27日月となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。 -
令和8年2月 朝坐禅会「指月の会」案内(2月23日朝6時半より)
2026年2月22日寒い冬も終わりが近くなり、暖かい日が徐々に増えてきました。
入り口の梅林も紅白の梅が綺麗に咲いて、春の訪れを感じさせます。
縮こまっていた手足も段々動きが良くなってきて、お散歩で境内を歩く人がチラホラ見られるようになりました。
先日も良く晴れて暖かい日になったので、調子悪目で些か寝不足でしたが、気晴らしも兼ねて普段行かない場所に行ってみようと、町中にある外国の料理店に入ってみました。
宇都宮も海外の人が増えてお店も国際色豊かになってきて、面白い食事も簡単に楽しめるというものです。
少し無難に東南アジア風チキンチャーハンを頼んで待っていたら、隣の席の人に声をかけられました。
年上のスーツを着た人で、待つ時間のおしゃべり相手が来てくれた!という風です。
彼は他県の水産加工関連の方で会議のために宇都宮に来たそうで、会話の中で私がお寺のお坊さんと知り、色々質問されました。
料理が来てからも話は止まらず、段々相談というか悩みを聞いてくれという向きになってきました。
自分は氷河期世代で適正のない職種にしがみついてここまでやってきたが、下の世代にも上の世代にも様々押しつけられワリを喰うばかりで、家族と居たいのにろくに一緒に居ることも出来ない、幸せって何だろう、とテンションが大分様変わりしました。
私も食事しながら付き合っていて変化に付いていけず、さりとて折角悩みを持ちかけている人を無礙には出来ないと、寝不足と不調で回らない頭ながら何とか答えようとして、結果大分筋違いの返答をしてしまいました。
責任も何もない所ではあっても悔いがあります。
不調もありましたが、自分がお坊さんとして鈍っている事を自覚させられました。
そもそもこうした相談の時にはマニュアルという程ではないですが定型があり、まずはよくよく聞いて、早々に答えようとするべきでないのです。
東日本震災のボランティアで被災地支援をしていた時、傾聴活動もしていました。
先輩から繰り返し言われたのが、
傾聴は相手の話を良く聞く姿勢を示し、聞くまでで良い。
当人の悩みは根本的には当人にしか解決できず、余人に過ぎない我々では差し出口ともなる。
悩む人は悩みを聴いて貰うだけでも助けとなり、言語化して打ち明ける中で頭が整理されることもある。
だから聞く耳と聞く姿勢と時間こそが肝心で、拙速な回答はするべきものではない。
今改めて自分が相談にのるならば、やはり先輩の言葉に同じく、まず良く聞くところからでしょう。
もっとしっかり聞く中で、もしかしたら小欲知足とか脚下照顧といった禅語を例に、こういう受け取り方もあるのでは、と答えるかもしれません。
しかし禅僧の私としては、全国何処にでもお寺はあって必ず坐禅会は近くで出来るところがあるはずだから、一旦坐ってみては如何でしょうか、と答える道筋もあったでしょう。
抱えてしまっているあれこれを一時手放して、自分と足跡を落ち着いて見返してみる。
それこそ悩みを地力で解決する一助となり得るはずで、二度と無いかもしれませんが次回があったときに悔いが残ることのないよう私なりの道筋を整理してみました。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は第四回西国札所巡礼と日程が重なるため今回だけ第三週3月16日月となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。 -
令和8年1月 朝坐禅会「指月の会」案内(1月25日朝6時半より)
2026年1月25日門松は 冥土の旅の 一里塚
一休宗純 和尚
新年明けましておめでとうございます。
一月も下旬となりましたが、とにかく年末から寒い冬でした。
例年以上に気温の低い日が続いて、最高気温5~7度というのは近年になく冬らしい冬です。
また祥雲寺は境内東側に八幡山があるので日の出が一時間近く遅くて、今時分は7時半ころにならないと朝日が境内に差さないのです。
日が差して漸く凍り付いた屋根や境内の土が溶け始めて、息を吹き返すような心地で日の出を待ちわびる今日この頃です。
寒い日が続くと体調もそうですが気持ちも落ち込んだ調子になりやすいものです。
いつもの常套句なのかもですが、先日買い物先で会った檀家さんとの会話で
「オレまた一つ年くっちまったよ」
と言われました。
年配になると一歳年を取るごとに健康への愁いや体力の懸念等、追い立てられるような心持ちになるものなのでしょう。
上記の言葉はみんなご存じとんちの一休さんの元となった、室町時代の禅僧一休宗純和尚の言葉です。
身も蓋もない言葉で、正月の賑々しさを害するへそ曲がりに見えるものですが、人間どんなときでも時間は経過して自らは老いていくのだから、各々成すべき事を成すべく怠るな、との一休禅匠らしい警句なのでしょう。
年を取る、無常というものを感じる時でもあります。
誰しもが年を取る、時に悲しみを感じるそれは万人に平等で。
だからきっと、この事実を受け入れていく術は、自らが納得出来るよう日々を勤め励み、その納得の積み重ねの上にこそネガティブなばかりでなく蓄積や向上、レベルアップとでも受け入れられもするのでしょう。
無常というのは変わると言うことは、自らの努力によってある程度改められるということとセットなものです。
さりとてそのまま諸行無常、変化は道理なのだから受け入れなさい、受け入れられない自らの心の動きそれこそが執着なんだ苦しみの元なんだ、なんて言って聞く耳を持つ人ばかりなわけはありません。
理屈を言うより前に、塞いだ気持ちの人には同じ目線で近くに寄り添って、一人じゃないよ怖くないよと接する事が先のはずです。
だから私はこの檀家さんにはこう返しました。
「大丈夫、私も一緒に年食ってるよ。足腰痛んでやってられないですよねー」
年老いていくのは皆同じ。
「施無畏」、恐れることはないのだと教え諭し伝える慈悲の言葉とまでにはおよばずとも、ドイツの詩人の言葉にあるような、嬉しいことは二倍悲しみが半分になってくれるように、せめて一人じゃないよと思って貰えるように、一時でも言葉が届いてくれていればと願うばかりです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は2月23日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。 -
令和7年12月朝坐禅会「指月の会」案内(12月22日朝6時半より)
2025年12月21日「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
『正法眼蔵』 「現成公案」巻
今年も年末が近づいてきて、寒さも深まって感じられる所です。
しかし境内掃除で入り口の梅林の木を仰いでみれば、紅梅のつぼみが少しずつ膨らんできていて、寒い中でも春を迎える準備は進んでいるようです。
正月を迎春と呼称するのは旧暦の正月が二月であった事の名残りの様ですが、春を待ち遠しく思う身には気持ちばかりでも春を先取りして呼び込もうとする賑々しい言葉遣いに感じられます。
寒さ深まる年末ですが悪いばかりでもなく、大掃除や整理整頓が済んでくればお寺の用事も段々少なくもなってきて、時間が作りやすくなる時期でもあります。
夏以来評判になって長らく気に掛かっていた映画「国宝」を漸く見に行くことが出来ました。
大変に、良かったです。
6月以来のロングラン放映で朝一上映だから空いてるかと思いきや結構人が入っていて、客層見てると若い人やカップルもいて、これだけ評価高いと全年齢的になるようです。
余談ながら見てきた話をマダム層の多いヨガ教室でしたら皆さん一気に涌いて、私は二回見てきた私は三回よ、とリピーターが多いというのも納得できる反応でした。
「国宝」の筋立ては大まかに言うなら、昭和中期の極道の跡取りが見込まれて歌舞伎の名門に弟子入りし、そこの御曹司と切磋琢磨しながら役者として成長し、もがき苦しみながら芸道の高みへと上り詰める波瀾万丈のストーリーです。
徹頭徹尾美とは何か、「きれい」を追究し続ける軸が通っているのが見やすさの秘訣なのでしょう。
「国宝」の良かった所語りたい所は沢山あるのですが、私に強く刺さったのは先駆者として出てくる人間国宝万菊師匠の台詞です。
出奔した主人公の相方であった御曹司が戻ってきて、万菊師匠が指導しているときの言葉。
「あなた歌舞伎が憎くて憎くてしょうがないんでしょ。でもそれでいいの。それでもやるの。それでも毎日舞台に立つのがあたしたち役者なんでしょうよ」
技芸の道に錬磨した先達の目の確かさ、柔らかな肯定と飲み込めと促す発破がけ、実践してきた人間だろうからの説得力。
語りたいことの多い部分ですが、これは多くの研鑽を要する「道」に共通するものだと思うのです。
綺麗事で語れるのは初等の頃ばかりで、深まるほどに軋轢としがらみは増し、純粋純一でなくなり窮屈に重苦しくなって、いつしか最初の輝きを見失っていく。
それでも歩む、その先にあるものを信じて。
それが道、ってものなのでしょう。
上記の言葉は我が宗門の祖、道元禅師の遺された言葉でおそらく最も有名なものでしょう。
ふつつか乍ら私なりに意訳するならば
仏教を学び実践するということは自己の存在を定義することでもある。
だが仏道を歩む中でいつしか我(自分中心に物事を見て思考する世界観)は薄く小さくなっていく。
我を起点としなければ縁起の道理、お陰様に私は生きて生かされている「事実」に「証せられる」
自他の関係性の中で構築され定義される身と心から脱げ落ちていくのである。
仏道も又長い道のりを歩み、生涯をかけて取り組むものです。
多くの立派な先達のお姿を信じ、国宝主人公の激しさには及ばず乍らもこの道を歩いて行きます。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は1月26日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。






