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3月 観音朝詣りのお知らせ
2024年3月24日歌は世に連れ人に連れ、といいます。
流行歌はその時々の庶民の心を表わしていて、振り返れば時代の貴重な証しです。
放映中のNHK朝ドラ「ブギウギ」を面白く見ています。
昭和20年代の流行歌手笠置シズ子をモデルにしたドラマですが、主演の趣里さんの歌唱と踊りがふんだんにちりばめられていて、それだけでも楽しい。
私の生まれた頃はこんな歌が流行っていたのかと思いました。
それと同時に、戦争を感じます。
ドラマ前半の戦前戦中分はもちろんですが、戦後分にも庶民の生活に戦争が色濃く影を落としています。
小学生や中学生の頃、大人から歳を聞かれて答えると、「昭和23年生まれか。少し楽になった頃だな」といわれたのを思い出します。
「リンゴの唄」と共に映し出される闇市、「星の流れに」に歌われた街娼たち、みんな戦争の傷跡を負いながら生き抜いてきました。
その時代の人にとって、ブギウギのような明るい曲はどんなにか癒やしになり、励ましになったことでしょう。
軍国主義、敗戦、民主主義、復興、大変化の時代に生きた人たち。
それは私からは親達であり、先輩である世代の人達ちですが、生まれた年によって見える景色も違っていたように思えます。
若者に限っても、小学校を卒業すると多くが生業に就くか奉公に出た世代から、義務教育化された中学校に通った世代の間にはいくらも年齢差はありません。
彼らは混沌の時代に日本の未来を託されました。ドラマでも歌われましたが「青い山脈」は、若者には新生の讃歌として迎えられたはずです。
ドラマに出てくる赤ちゃんは、まぎれもなく私の同世代です。
私たちには、戦争のない幸せな時代に生きてほしいという祈りが込められたと思います。平和な世界を造るために力を尽すのは、後期高齢者になっても私の世代の義務であると思っています。
令和6年3月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
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2月 観音朝詣りのご案内
2024年2月17日德あるは讃(ほ)むべし、德なきは憐(あは)れむべし
修證義第4章
道元禅師が、愛情のこもった言葉の大切さを説いた教えの一節です。
この言葉がある文章では、母親が赤児に対して抱くような深い愛情に裏打ちされた言葉が、天をもめぐらす力があるのだと禅師は仰っています。
ここで「あはれむ」という言葉の意味を正しく捉えることが大切になります。
この言葉には、弱い立場や逆境にある人に対して何とか救ってあげたいと思う「かわいそう」と繋がる感情が込められています。
そのことは良いのですが、私たちは弱い立場や逆境にある人に対して、自分より劣ったという差別の感情をかかえがちです。
その思いから発せられる憐れみの言葉は決して人を救う言葉とはなりません。
今年の大河ドラマの主人公紫式部が作者の源氏物語は、平安文化の結晶であり日本を代表し世界に誇る文学です。
その源氏物語の主題について、江戸時代の国学者本居宣長は「もののあはれ」であると言いました。
「あはれ」あわれ、哀れ、憐れ、という言葉はたいへん奥の深いものです。
本来、強い感動を示すときの言葉で、喜びにも、賛嘆にも使い、そしてかなしみの感情を伴います。
「あはれむ」は「あはれ」の動詞のかたちで、愛情、愛惜の思いを含む言葉です。
源氏物語は、時代を経て教理的な無常観や儒教の勧善懲悪の観点から読まれるようになりました。
それを本居宣長は王朝文学本来の読み方に戻したのです。
「もののあはれ」には、苦悩に満ちた王朝女性が折に触れて感じた、しみじみとした情趣や無常観的な哀愁が込められているといわれます。
道元禅師は、王朝文化の素養豊かな家に生まれ育たれた方です。
「德なきは憐れむべし」という言葉には、生きとし生けるものへの深い愛惜の思いがこもっていると思います。
令和6年2月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前9時から行います。
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1月観音朝詣りの案内
2024年1月21日新春が能登半島地震という大災害で明けました。
毎日伝えられる被災地の惨状に心が痛みます。
倒壊した家屋群。
家屋を押しつぶし道路を寸断する土砂崩れ。
避難所の過酷な生活環境。
一昨年の本山参拝は、平成19年の能登地震からの復興を遂げた大本山總持寺祖院に参拝し奥能登を観光しました。
その時の美しい風景と、輪島朝市などで接した地元の人たちの人情が思い起こされます。
能登は曹洞宗にとっては特別な場所です。
故郷と言ってもよい。
瑩山禅師、峨山禅師と相続された能登總持寺に全国から傑出した修行僧が集まり、曹洞教団が生まれることによって、道元禅師の教えが民衆に伝えられるものとなりました。
修行道場を支えたのは能登の人であり能登の風土です。
歴史の変転はあっても、曹洞宗の僧として私は能登に縁を感じ、特別な思いを持っています。
この度の震災への支援は、現段階では国を始めとする行政、自衛隊など専門性の高い機関が行なっています。
しかし、間もなく国民全体の力が必要な段階になります。
その時のために、私たち一人一人が何かの役に立っていこうという覚悟を持たねばなりません。
祥雲寺では受付に義援の募金箱を設置しました。
集まったお金は、お賽銭などと合わせてシャンティボランティア協会(SVA)に寄付します。
皆様の周りにも、募金に限らずいろいろな支援の窓口があると思います。
それぞれの立場で、ささやかでも何か行動を起こしてください。
他人事ではありません。いつか必ず来る南海トラフ地震に備えても。
日本は必ず起こる天災を助け合いで乗り越えてきた国です。
SVAは、曹洞宗から生まれた国際ボランティア団体で、カンボジア、ミャンマー等で難民支援を行なっています。
阪神大震災、東日本大震災などでは海外で培われた非常時への対応力で効果ある支援活動を行ないました。
それだけでなく非常事態を過ぎた後のお年寄り、子供達への精神的なケアを長期間行ないました。
団体の活動、実績、運営等の詳細はネットで常時公表されています。
令和6年1月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前9時から行います。
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12月観音朝詣りのお知らせ
2023年12月24日同事といふは不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり
道元禅師「正法眼蔵」
「同事」の教えは自他を区別しないことである。
仏 教には菩薩の理想的な生き方を示した四攝法という教えがあります。
布施、愛語、利行、同事という教えです。最後の「同事」は、文字からだけでは意味することの見当がつきません。
私は毎月のこのお便りで、その一つ一つについてたびたび取り上げてきました。
「同事」については、退任記念文集「守拙」に「いつもニコニコ」と言う題を付けて採り入れた一文の中で、仏教辞典にある「協同」という訳語を紹介し「信頼」と訳してもよいのではないかと記しました。
これについて足利市長林寺住職矢島道彦先生からご教示を受け、私の「同事」の教えについてのとらえ方が不十分であり誤りもあることに気づきました。
そこで、改めて私なりに説明いたします。矢島先生の著書を踏まえたものです。
「同事」の本来の意味は「同自己」とも訳するもの、即ち他人が自分と同じ存在であることを自分の心の内に認めて自他を分けへだてしないことを意味します。
そうするとどのようなことが起きるのか。
私たちは生きることを願い、死を恐れています。
楽しいことを願い、苦しみなかれと願ってもいます。
そういう自分の身に引き比べて、他人の喜び悲しみ苦しみも同じであることを認め、深く共感して共に生きていく道を歩むことになります。
このような生き方からは差別は起こりません。
力を合わせて生きとし生けるものが皆幸せである世界を作っていこうとする行ないの源となる思想です。
「同事」は、仏教の慈悲の根本を表わす教えでした。
令和5年12月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時半から行います。
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9月観音朝詣りのお知らせ
2023年9月23日インターネットは、益々国民の生活に定着してきました。
いろいろな情報を受け取るにも、年代が若くなればなるほどテレビや新聞よりもネットを利用する人が多くなっているようです。
そうした中で「炎上」という言葉を多く目にするようになりました。
ある人の発言や行動に対して、たくさんの人からネット上で非難の言葉が投げつけられる状態です。元になる発言や行動が、暴言であったり、時には破廉恥なものであったりする場合が多いのですが、発言が一理あっても社会通念と異なるものだった場合もあります。
ともかく、非難の発信者は姓名を隠しています。
それがネットの特質であるとも言えるのでしょうが、これはずいぶん不公平な意見交換のあり方です。
もっといえばおのれを隠して人を誹謗中傷するのは卑怯です。
仏教では人間の為す悪行を十挙げています。
その中で言葉に関わるものは四つ、妄語(偽り)悪口(粗暴な言葉)綺語(ざれ言)両舌(かげぐち)です。誹謗中傷は両舌に分類されます。
人に過ちがあると思えば、堂々と自分の姓名を名乗って批判すればよい。
その言葉が激しくて非難になるのは感心したことではないがまだ許せる。
それは相手から反論、非難される危険を自らに負わせているからです。
発言の責任を最低限取っていると言えます。
例外はあります。
相手が強大な力を持っていて、名を名乗ることによって発言者が危険や不利益にさらされる場合です。
政治的信条に関わることや組織の内部告発など公平な社会の実現のために匿名が許される場合もあります。
しかし「炎上」とは別のものです。
おのれの安全を確かめて人を誹謗中傷する人が、世のためになる意見を言えるとはとても思えません。
というよりも、自らの人間性をおとしめていく行為であり、特にこれからの世を造っていく若者には、是非やめてもらいたいと思います。
令和5年9月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。