ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

朝まいり 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

朝まいりの記事

  • 12月観音朝詣りのお知らせ

    2022年12月20日

     

    令和4年も暮れようとしています。私は今年の11月で、父である先代住職の年齢を超えました。

     人並みの苦労や逆境、転機もありましたが、総じて、私は平穏に生きてくることができました。二十代から三十代半ばまでの歳月の半分以上の10年を、兵営、戦地、シベリヤ抑留で過ごした父親とは比ぶべくもありません。私だけでなく団塊世代は、親たちの平和への祈りを受けて育ったとも思います。

     そんな私にとって、今年ほど戦争の足音を身近に感じたことはありません。第二次世界大戦後も世界には戦争が絶えず、朝鮮戦争、ベトナム戦争は、日本の近くで起きました。中学時代のキューバ危機では核戦争の恐怖を感じました。親世代から戦争のむごさ、理不尽さを繰り返し聞かされた戦後世代にとって、反戦は共通の社会意識であったと思います。

     しかしそれでも戦争は他人事であり、反戦も観念的なものであったと思います。それは今年2月に起こったウクライナ戦争によって感じさせられたことです。

     国力、特に軍事的なバランスを欠いた時に大国は小国を支配しようとし侵略も起きる。歴史を学べば当たり前のことを現実として見せつけられた。日本は、外交はもとより、国全体として善隣友好に努めなければならないが、それでも東アジアの情勢からは日本が戦争に巻き込まれる可能性がないわけではない。

     高校生の時、非武装中立の理想を滔々とのべる私に対し、父から「おまえはお母さんや妹が殺されるかもしれない時、戦わないでいられるのか」と言われたことがあります。不殺生を禁戒の第一とし「武器を取れば僧ではない」とされる者が兵士であった。その苦衷をいまさらですが忖度(そんたく)します。

     戦争にかかわらない人生を送り、既に兵士にはなれない年齢に達した私には、国防を論ずる資格はないかも知れません。それでも、備えは戦争を避けるために必要です。

     その上で、平和のために尽くし祈ることに、僧としての覚悟を持って行きたいと思っています。

     令和4年12月15日

    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時半から行います。

  • 令和4年11月 観音朝詣りのお知らせ

    2022年11月23日

     

    ひとの生を うくるはかたく 
    やがて死すべきものの いま生命あるは ありがたし
                 法句経182 友松円諦 訳

     

     感謝の言葉「ありがとう」の語源になっている経文です。
    お釈迦様は、この世界で人間に生まれること、生まれ出でて命を保っていることがどんなに有ること難い縁に依っているものなのかを説かれています。

    別のお経では、人間に生まれることがありえないような確率であることを示す盲亀浮木というたとえ話もされています。

     ところで「感謝」という言葉について、何か私たちにためになること、利益になることをしてくれたことへのお返しの感情を表わすものと思うのが常であると思います。

    恩に報いる「報恩」という言葉がそれを表わしています。その考えは人間にとってとても大切なことなのですが、それだけではもらったものへのお返しにすぎないのではないのかという思いもぬぐいきれません。
     生きていることを当たり前と思うなかからは権利の意識は生まれても、この経文に説かれる感謝の感情は生まれません。

     

     お釈迦様は、人間が幸せに生きる道として慈悲喜捨の四無量心を説かれました。

    慈はいつくしみ、悲はおもいやりです。三番目の「喜」は、人の喜びを自分の喜びとできるような生き方をしなさいという意味です。

    そして四番目は分け隔てない心です。

     私たちはこの世界の天地万物と共に生きています。

    生きることには自分も他人も分け隔てはありません。

    そこにあるのは生きることそのものの喜びです。自分も他人も分け隔てることのない喜びを言葉で表わすとすればそれこそが「感謝」であると私は思います。

    意識できる恩を受けたということがなくても、生きている中で自然にわいてくる喜び、それをありがたい感じることが感謝の本質です。

     令和4年11月15日
    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職 安藤明之
    十八日の朝詣りは午前6時半から行います。

  • 令和4年10月 観音朝詣りのお知らせ

    2022年10月18日

    ミャンマーの寺院空間

     

     ずいぶん昔のことになります。

    当時の鳩山由紀夫首相が沖縄の基地移転問題についての公約をひるがえすに当たって「あれは方便だった」と言って国民の怒りを買いました。

    「嘘も方便」と言う言葉がよく使われるので、方便とは嘘のことというのが世間的な常識になっているからです。

    そのことに思い至らない鳩山氏はずいぶんと世間離れした人だったと思います。

     

     ただ、実は「方便」という言葉は、仏教用語であり、大切な意味を持ちます。

    「善巧方便(ぜんぎょうほうべん)」とも言い、よき手立てと訳されます。

    すなわち仏様が人間の苦しみ悲しみを癒やし、悟りの世界へと導くよき手立てを意味するのです。

     

     お釈迦様は真理を悟られた方です。

    真理は、人間が考える時間とか空間とかを超越したものです。

    人間は眼耳鼻舌身の五官でものをとらえ、それを統合する意識で理解し、考え、想像してこの世界を組み立てています。

    しかしそこには限界があって、本当の世界のあり方は、悟った人すなわち仏陀以外にはとらえきれないのです。

     

     目に見えず、とらえきれず、思慮を絶していることを仏教では不思議と言うのです。

    「ふしぎ」は仏教の言葉です。この世は不思議に満ちています。

     

     不思議なこの世界に生きている私たちは、迷いから逃れることは難しいし、そのあり方も千差万別です。それに応じたほとけさまの柔軟な手立てを表わすのが方便という言葉です。

     

     「無縁」も世間一般では本来の仏教用語と違った意味に使われている言葉です。「縁がない」と読めるので、関わりのないこと、自分にとってどうでもよいことという意味で使われています。

    しかし万物が縁によって生成することを説く仏教では、一切の差別を離れとらわれのない境地から縁をとらえ、無限の縁として私たちに関わっていることをいうのです。

     

     分け隔てない慈しみ、思いやりの心から、全てのものに対して感謝の思いを捧げるのが無縁供養であり、12月1日の祥雲寺の恒例行事となっています。

     令和4年10月15日

    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 令和4年9月 観音朝詣りのお知らせ

    2022年9月17日

     平成30年9月のこの葉書で、檀家と菩提寺の関係は、先亡霊位の供養を通じて、未来に渉って共にあり、共に栄えることを前提にしているのだから、檀家の将来が危ぶまれるような過分な寄付を要求する住職はいないと記しました。

     いま旧統一教会が信徒に高額の寄付を求め続けてきたことが問題になっています。

    実際、宗教団体は寄付がなければ成り立ちませんから、寺にとってもこのことは他人事ではありません。

     祥雲寺でも、本堂再建を始め諸堂の整備は檀家の寄付に依りました。

    天蓋、大磬など高額の個人寄付によって調えられたものもたくさんあります。

    寺を預る住職として感謝の極みです。

     寄付について、仏教では布施、喜捨という言葉を使います。

    これについてお釈迦様の教えがあります。

     比丘たちに対する最後の説法(遺教経)で、「多く求めて、施す人の善心を壊してはならない」と戒められました。

     比丘すなわち僧侶は、道を求めて生産の場を離れた者です。

    古代において生産の場を離れれば日々の糧も施しに依るしかありません。

    遺教経ではそのことを「その身を降してしかも乞を行う」としています。

     身を降しても行わなければならないことは、自らの善心を高め、ひいては人間の善心を呼び起こし仏道へと導くことです。

    そのためのたゆまぬ精進を怠るなかれと戒めてお釈迦様は入滅されました。

     欲を持って施しを求めるならば、世の中で最も卑しい存在となる。僧侶にとって厳しい戒めです。

    令和4年9月15日

    宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 令和4年8月 観音朝詣りのお知らせ

    2022年8月20日

     

     高校1年生の初夏、市内の書店で、原理研究の講話を聴かないかと2人の女性に誘われました。

    中学生時代から宗教、哲学に関心を持っていたので、誘われるままについて行き、自宅とおぼしき家で講義を受けました。

    キリスト教と陰陽思想が混ざった教理だったと記憶しています。奇妙奇天烈に思えたので、数日後にもう一度質問に行きました。

    私が統一教会と接点を持った最初で最後のことでした。

     

     その後、1990年代の霊感商法や合同結婚式は、カルト宗教としての統一教会を有名にしました。

    霊感商法は、人間なら誰もが持つ不安を宗教的洗脳を通して増大させ、その状態からの救いを、法外な額の献金によって期待させる。

    その証しとなるものが壺や印鑑や多宝塔であるという仕組みです。

    要は、不安や恐怖をあおって金集めをする団体です。

    その結果、膨大な数の経済破綻者や崩壊家庭が生まれました。

     

     驚くべきは、これほどの問題を起こした団体が公的な規制を受けることなく、組織は存続し、活動はむしろ拡大してきたことです。

    今、元首相の殺害を契機に、実態が明らかになってきました。

     大物保守政治家と教団教祖が反共産主義の目的で結びつき、その流れを汲む政治家たちには選挙協力、教団には社会に害悪をもたらすほど過剰な集金活動の黙認という取引関係が継続してきたのです。

     

     人間は、本人が意識しなくても宗教心を持っています。

    人類に普遍的なものであると言ってもよい。

    ユダヤ人学者ユバル・ノア・ハラリは著書「サピエンス全史」に、宗教を持つことが現人類の繁栄を生んだと記しました。

    またもちろん、政治は人間社会に必要不可欠なものです。そして人間の営みにはプラスもマイナスもあります。

    統一教会をめぐる問題は、政治と宗教の醜悪な面の現れです。

     

     多くの宗教は、教義と実践の両面において、ともいき(共生)と感謝が柱となっています。

    そうあるべきで、そうでなければ、旗色をうかがって言論する人たちの標的になります。

    私に宗教人として自戒をうながす一ヶ月来の出来事です。

     令和4年8月15日

    宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

祥雲寺行事案内

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