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令和4年7月 観音朝詣りのお知らせ
2022年7月17日安貞元年(1227年)南宋から帰国した道元禅師は、最初京都で禅宗を布教しました。聞法者の中には女性もいました。
禅師の教えを受けた女性の中に「明智」という法名を受けた人がいました。もしかすると最初の女性信者であったかも知れません。この人には愛娘がいましたが娘18歳の時に、明智は突然姿をくらましてしまいました。
娘は行方知れずの母親を捜し続け、七、八年過ぎた時、清水寺の観音様に七日間の願掛け詣りをしました。六日目の道すがら十一面観世音菩薩の頭を見つけました。娘は「母を尋ねて観音様に祈願する途次にこの御頭を得たのは何かの因縁です。もし願いが叶うならば、御身を作り継いで御像とし、一生頂戴のご本尊とします。」との願掛けをしました。はたして七日目の参拝の往来で母親に巡り会ったのです。願いかなって、彼女は仏師の処に行き、御像を完成させました。
この女性こそ、大本山総持寺開山瑩山禅師の母親です。
彼女は生涯かけて観世音菩薩への深い信仰を持ち続けました。越前の国(福井県)の名族瓜生氏に嫁ぎ、身籠もった彼女がよき子を授かれと祈り、行生(ぎょうしょう)と名付けられた赤児が生まれたのも観音堂だったと伝わります。
行生は幼い頃から仏縁深く、成長するにつれて出家を志しました。最初は反対であった母親もその意思が堅いことを知ってこれを許しました。11歳の時、祖母明智に案内されて永平寺に上山し、得度して名を紹瑾(じょうきん)と改めました。瑩山紹瑾禅師です。
瑩山禅師は、祖母、母親への孝養の心あつく、後に能登国酒井に永光寺という一大修行道場を開いた時、境内に母親の念持仏の十一面観音像を本尊とする円通院という塔頭を建立しました。そして禅師が祖母明智の再来と言って称えた弟子祖忍尼にこの塔頭の護持を委託したのです。
瑩山禅師は、女人救済を弘法の誓願とされました。禅師に関わる女性たちへの深い思いやりが根底にあったと思います。 再来年は瑩山禅師700回の大遠忌になります。
令和4年7月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
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令和四年6月 観音朝詣りのお知らせ
2022年6月22日愛語能く廻天の力あることを学すべきなり
道元禅師
ご法事で読む曹洞宗聖典「修証義」第22節の最後にある道元禅師の言葉です。
22節を現代語訳します。
愛語というのは世の人々に対して慈しみの心を持って、愛情のこもった言葉をかけていくことである。母親が赤子に対して抱くような思いで言葉をかけていくのである。素晴らしい点があれば心から褒め称えてやり、欠点があれば蔑むことなく思いやりの言葉をかけてあげなさい。生きていく中でどうしても生まれてしまう憎しみや対立の感情も愛情のこもった言葉によって解くことが出来る。直接に聞けば顔は自然にほころび心は楽しくなるであろうし、間接であっても人の心に、魂に、響いていくものである。愛情ある言葉は天をもめぐらす力があるのだということをよくよく体得しなさい。
もともと経典にある、菩薩が衆生を救うための四つの知恵の二番目にあげられているものですが、道元禅師はたいへん分かりやすい言葉で述べられています。
この文章が昔、中学生の国語の教科書に載っていました。昭和30年代のことです。中学3年だった私は、普段に読んでいる修証義の経文が教科書に載っているのに驚きました。もちろん鎌倉時代の、それも仏教用語が入ったものですから現代語に訳され、丁寧な説明がされたものだったのですが。
時代背景を考えてみれば、当時中学を卒業する生徒の3分の1は就職しました。中学3年生は社会への入り口に立っていました。コミュニケーションの手段である言葉は、社会生活に欠かせないものです。教科書編集者の考えを忖度(そんたく)すれば、言葉がどんなに大切で力があるものなのかを知ってもらいたいという思いがあり、さらには、そのことについて深い思考をめぐらせたすぐれた先人がいることも知ってもらおうという思いもあったと思います。
令和4年6月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
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令和4年五月 観音朝詣り
2022年5月22日5月2日の朝の天気は素晴らしいものでした。
前日は冬のような寒い日で冷たい雨が降りました。
朝にはすっかり上がって潤いを含んだ空気のなかに青空が広がりました。
しずくを載せた木々の葉が朝日に照らされてキラキラと光ります。
萌え出でたばかりの若葉もあれば、既に緑を濃くした葉もあって景色に深みが増していました。
ウグイスが鳴き、地にはコジュケイやヒヨドリの群れも見えました。
昭和62年夏、先代住職の本葬を済ませた後、新住職としての祥雲寺の運営方針を総代会に提出しました。
そこに、祥雲寺は宇都宮市の中心部にありながら広い山林を持っているのでこれを大切にし、自然と一体となった境内を作っていきたいと記しました。豊かな自然環境は祥雲寺の財産であり、これを大切にして、檀家のみならず市民にも開いてゆくのは使命であると思ったのです。
これについて、当時総代会の副会長だった黒川秀次さんが、「新住職はたいへん良いことを考えている。ぜひ皆さんに知らせておきたい」と言って、お施餓鬼の日の護持会総会で集まられた檀家さんに紹介してくれました。
今日、5月10日の朝も美しい朝です。
木々の緑はいよいよ濃くなりました。わずかな時にも天地自然の変化はやむことがありません。
そして命の息吹を感じさせてくれます。
こんなに素晴らしい祥雲寺を味わっていただくには、朝詣りが一番です。たくさんの人に参加していただきたいと思っています。
令和4年5月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
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令和4年4月 観音朝詣り
2022年4月16日ウクライナのゼレンスキー大統領が日本の国会でオンラインの演説をしました。
ロシアのウクライナへの侵攻を受けての支援要請ですが、大多数の国会議員から賞賛の声が上がり、視聴した国民にも感銘を与えました。
戦争を始めたロシアのプーチン大統領に対する非難の声は世界中でたいへんな高まりです。
ウクライナが善、ロシアが悪という色分けがはっきりしています。
しかしそのような見方、考え方でいいのでしょうか。
戦争開始直前のプーチン演説の全文を読みました。
ロシアがNATO諸国の攻勢に追い詰められていることと、ウクライナがロシアにとっていかに大切かを説き、今行動しなければならないと訴えています。
これはかつてABCD包囲陣に直面し、国の生命線とした満蒙を防衛するため戦線を拡大し、太平洋戦争に至った日本に似ているように思えます。
ロシアでも、戦争に反対する少なくない人がいますが、国民の大多数は侵攻を支持しています。
それが国の正義であると受け止められたからです。かつての日本もそうでした。
ウクライナ側は「団結しなければ殲滅させられる」という言葉に端的に表わされる必死の防衛戦争です。
国民にとって正義は我にあります。
「武器を捨てて交渉の道を取れば多くの国民の命が救われる」と言った日本人がいましたが、それは部外者のふざけた言葉にしかならないでしょう。
戦争はそれぞれにとっての正義と正義のぶつかり合いです。
そして正義のためなら非人道的な行動も許されてしまいます。
ロシア軍が使用したと非難されているナパーム弾もクラスター爆弾も、それを開発し、日本やベトナムやアフガニスタンで雨降らしたのは米国であることも忘れてはなりません。
現在は市民虐殺など、ロシアの残虐行為が非難されていますが、もしも形勢逆転したならばウクライナ在住の親露派に同じことが行われる可能性も大きいと思います。
戦争が生むものは憎しみなのですから。それが怖い。
正義を越える大いなる価値観が必要です。最低限、日本にいるロシア人を差別するようなことがあってはなりません。
令和4年4月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
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令和4年三月 観音朝詣りのお知らせ
2022年3月12日足利学校を見学しました。建物の名前と配置、庭の趣は、禅宗寺院とほとんど同じです。
学校がいつ出来たのかは諸説ありますが、室町時代、上杉憲実の力で日本最高の学府と言われるまでになったのは誰もが認めることでしょう。
上杉憲実は、政治家としても、武将としても、学者としてもたいへんすぐれた人でした。
彼は十歳で関東管領に就任しました。関東管領というのは足利幕府の関東政府の長である鎌倉公方の補佐役で、いわば総理大臣にあたる役柄です。
十歳はいかにも若すぎて、更にその補佐役がいてのことでしょうが、数年で実質的にも役目を果たすようになったといいます。
しかし彼の職務は苦難に満ちたものでした。
関東公方足利持氏は野心に満ちた人で、足利将軍の座を狙って六代将軍足利義教と対立しました。
本家の将軍と直接の君主である関東公方、二人の主君の間に立って、憲実はその調停に追われ続けたのです。そしてとうとう、関東公方持氏を自害させることになったのです。
儒学を究め実践していた憲実にとって、主君を討ったおのれの不忠義は耐えがたいことでした。
学問振興のため彼が再興した足利学校に、自ら所蔵していた膨大な典籍を収め、雲洞庵と号して越後の寺に隠棲しました。
さらには僧侶となって諸国を遍歴し、長門国の大寧寺で竹居正猷禅師に見(まみ)えたのです。
自らも儒学の大家であった竹居禅師は憲実の苦悩を見て取りました。
そしてご自身の余生を懸けてこの人物を導き悟らせようと決心しました。憲実の修行も厳しいものだったのでしょう。
竹居禅師の印可を受けた七人の僧の中に高巌長棟という憲実の僧名があります。
憲実は、大政治家、傑出した知識人と言ってよい人です。
担うもの重く、学識深く、おのれを眩(くら)ますことをよしとしない人の心の闇の深さは計り知れません。
それは仏法によってしか救うことが出来ませんでした。そのような人を導いた禅僧の力量も計り知れません。
令和4年3月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います