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5月の行事案内
2021年4月30日5月の諸行事 ご興味の方は電話にてお問い合わせ下さい。
■雀宮善應院坐禅会(第四水曜日のみお休み)
宇都宮南町1番36号「善應院」にて毎週水曜日夜6時から行っている坐禅会です。
5月5日、12日、19日
■月例坐禅会「指月の会」
祥雲寺本堂にて毎月第四月曜日朝6時半から行っている坐禅会です。
5月24日
■テラヨガ(ヨガ教室)
この春からの新企画。阿久津先生指導の下第一第三金曜日午前10時半から行っています。
5月7日、21日
■陶芸教室「祥陶会」
駐車場下の作陶場にて毎週火、木午後1時から行っています。
平常開催
■石彫会「羅漢の会」
毎週土曜午後、駐車場作事場にて石仏の彫刻を行っています。指導は松原「金野石材店」
平常開催
■茶道教室
月二回火曜日午後2時から、裏千家鈴木先生のご指導の下行っています。
5月11日、5月18日
■写経会
写経会は5月から11月、第二日曜日午後2時から行っています。
5月9日午後2時 本堂一階
■御詠歌
祥雲寺住職、並びに栃木市豊栖院飯塚先生の指導の下月2回行っています。
5月11日長岡会場(長岡町公民館)1時半から3時半
5月20日祥雲寺会場(飯塚)10時から12時
5月24日祥雲寺会場(住職)10時から12時
■フラワーアレンジメント教室
南宇都宮駅前「フラワー花亀」亀井先生指導の下第四水曜日午後1時半より行っています。
5月26日
■折り紙教室
カルチャースクール講師長谷川京子先生指導のもと第3水曜日午前より行っています。
5月19日
■クラフトペーパー教室
同じくカルチャースクール講師長谷川先生指導のもと第2月曜日午前より行っています。
5月10日
■観音朝詣り
境内33観音霊場を18日朝にお参りするミニ巡礼会です。開始時間は季節により前後します。
今月は午前6時から
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令和3年4月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年4月24日この座禅会を始めて六周年となりました。大難の時であるからこそ、足下をしっかりと見定める時でもあろうかと思います。初心を思い返し、最初の文章を今年も再掲します。お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、という思いを抱いてはいないか。その思いがすでに怨みであると知りなさい。怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。いっさいの怨みを棄てよ。今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。棄てれば、必ず軽くなる。棄てて、かろやかに生きなさい。― 『スッタニパータ』第一章 ―静かな所で何をするでもなく落ち着いて瞑想をすることで心身の調子が整う、という事は昔から広く知られ、行われてきました。近年では科学的分析により血圧が下がる、海馬の機能が促進され脳内の情報整理がされる、精神安定に重要な働きをするセロトニンの生成が促される、等の効果が確認されているそうです。しかし坐禅は、これらの効果を内包しながらも、何も求めないで只ひたすらに坐る事こそ最上のものである、と伝えられてきました。私はそれは、「軽くなる」からだと思います。人間生きていれば百人百様、様々な想いやしがらみを背負っているはずです。古人は人生を「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と形容したそうですが、時には荷を下ろし、わが身を見つめ直す時間こそ忙しい現代人に必要な物だと思います。一人で行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝座禅会はそのような場となる様発起しました。皆さんと行うこの坐禅の一時が、「軽やかな」時間となることを願います。祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は5月24日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。 -
令和3年3月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年3月21日和合の功徳はこれ僧宝なり 『教授戒文 帰依三宝』今月3月11日は東日本大震災から10年となる節目の年です。祥雲寺でも境内にある慰霊碑にて、皆さんと2時46分を黙祷し、読経して手を合わせました。10年前、私は3月末から宮城県気仙沼で2ヶ月ほどボランティア活動に参加していました。春彼岸過ぎの頃、曹洞宗と縁のあるシャンティ国際ボランティア会から、被災地で野菜不足からビタミン欠乏が危惧されるので、関東から運びやすく供給しやすい野菜ジュースを用立てて欲しいとの要望をいただきました。近隣のお檀家さんお寺さんの助力を得て集めた分を自家用車に乗せ、気仙沼まで運びそのままシャンティの方達と支援活動を行いました。気仙沼市は宮城県北端にあり、沿岸地に細長く伸びた形をしています。それだけに全域で津波の被害を受けていました。私の最初の支援活動は、立ち上がったばかりのボランティアセンターの一員として数十あった避難所を回り、支援物資を届けて現場のニーズを調査することでした。気仙沼の殆どの避難所を廻って感じたのは、市街地であるほどに避難所内の活動が鈍く、郊外であるほどに活動が活発であった点です。市中心部の避難所では掃除や炊事の人員を都合してほしいとの要望が多かったですが、市街地から離れれば離れるほど、避難所内の事は自分たちでやるから生活再建の為の助力を求められる傾向がはっきり現れていました。同時に、市街地よりも田舎の方が、避難所内の空気や雰囲気があきらかに良いことも見て取れました。私はそれは、田舎の方が支え合い助け合う繋がりが強いから、そのつながりが避難生活の場に違いをあらわにしていたのだと思います。町中も田舎も同じく被災したのですが、慰め合い助け合い支え合える繋がりが、避難所の活力、空気の明るさに大きな差を現していました。一番市街地から離れた、先日読売新聞にも載っていた及川デニム避難所などは笑い声すら聞こえる時があったほどです。とても希な、稀有なことだと思います。助け合い支え合える繋がりや絆、ご縁とでもいうものが、私には被災地に重くかかる黒雲を払い光をもたらしているようにすら感じられました。私たちが信仰の中で大切にすべき三つの宝、三宝の内に「僧宝」があります。仏と成ることを目指し法(教え)を学ぶ者は、同じ道を歩む仲間則ち僧宝(サンガ)を大切にしなさいという教えです。同じ道を歩む者だからこそ助け合い支え合える、それこそ最勝の友である、という言葉です。あの日見た人々の繋がり結びつきの素晴らしさ、それを自分の生きる宇都宮で同じように出来たならとても素晴らしいことだと思います。叶うならば、この祥雲寺がそうしたご縁の場として活用できるなら、この上ないことです。皆が敬い合い相和す、最勝の友が集う場と出来たなら、其れを願いながらこの度も坐禅会を行います。祥雲寺副住職 安藤淳之3月22日6時半より開始となります。当分の間6時半からの一座のみとなります。尚次回の朝坐禅会は4月26日となります。 -
令和3年2月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年2月21日小欲知足2月15日はお釈迦様の亡くなられた命日です。お寺では涅槃図という、臨終の床に着かれたお釈迦様の回りを沢山の方が見守り悲しんでいるシーンの図を掲げ、この日を偲びお経を上げます。この時に読むお経が、まさにこの臨終の場で説かれた遺言の教え、遺教経です。この遺教経の中で説かれている言葉に小欲知足があります。欲をかかず、(求めずとも)足りることを知ることは心の平穏に繋がるんだよ、というお諭しの言葉です。私がこの知足を考えるとき、出てくるのは学生時代に読んだムーミンの登場人物、スナフキンの台詞です。何でも自分のものにして持って帰ろうとすると難しいものなんだよ。ぼくは見るだけにしてるんだ。そして立ち去るときにはそれを頭の中へしまっておくのさ。そのほうがかばんをうんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからね。ムーミンは子供心には少し不思議な外国の童話でしたが、大人になってから見ると実に味わいのある物語で、殊にスナフキンの存在は異彩を放っています。旅人として一人歩むものとして、世俗に交わらず欲に惑わされることを避け、身も心も身軽であることの素晴らしさを教えてくれているように思います。洋の東西を問わず、一人歩もうとする人の言葉には共通点が出てくる物だと改めて感じました。最後に祥雲寺で檀務に用いている『略訳遺教経』の中、少欲知足を書いた章を載せて結びとします。「おんみら修行者よ、求むる処少なきものは心安らぎてうれいおそるることなく、ことにふれて足らざることなきを。もし悩み苦しみを逃れんには足るを知るにしくはなく、さとりの安楽を求めんにはひとり閑かに想うべし」祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間6時半からの一座のみとなります。 -
令和3年1月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年1月24日諸行無常今年も宜しくお願いします。栃木県も年始から緊急事態宣言が出され、様々自粛や制限の中で日々を過ごしています。このコロナ禍を思うとき、時折学生時代に読んだ小説を思い出します。村上龍の書いた『ヒュウガウィルス』という本です。この作品の舞台は、第二次世界大戦で日本が降伏せず本土決戦を行い、数十年経ってもトンネルにこもってゲリラ戦が続く世界です。九州のヒュウガ村からエボラウィルスをさらに凶悪化したような病気が都市部に蔓延し、その対応のために軍の部隊が派遣され対処に当たるストーリーです。現地に到着しウィルスの猛威を目の当たりにし、うちひしがれて人間の弱さを嘆く兵士に科学者が言った言葉が強く記憶に残っています。「われわれの体を構成する分子は脆くて壊れやすいつながり方でつながっている。だから化学反応が可能で、全体として信じられないような生体のシステムが生まれた。強い結合で結ばれれば鉱物になってしまう。鉱物は何億年経ってもほとんど変化がない。人間は柔らかい生きものだ。その柔らかさ、脆さ、危うさが人間を人間たらしめている」私の中で「無常」の理解の土台ともなっている一節です。人は脆い、変化しやすいからこそ人たり得るのだ。それを嫌ってもそうでないならそれは人間ではない。変化するからこそ何かが起こる、何かが出来る。喜ばしいことも悲しいことも変わるからこそ変われるからこそ、無常だからこそなんだ。ならばそれは良い悪いで見るものではなく、世の道理、真理として受け入れていくものなのだろう。私たちは変わるからこそ、今のような人なのだろうから。このコロナ禍で激変してしまった時代、それでも私たちは生きています。環境変化の規模は大きくても生きることは変化し続けることです。この変化の中で、それでも僧侶としての本分を見失わず、為し得ることを探して行っていく。変化を受け入れ、そして本分を忘れないことが、今私ができる最善のことなのだと信じています。祥雲寺副住職 安藤淳之明日の朝坐禅会は略した形で6時半より行います。