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令和3年4月 朝坐禅会「指月の会」案内
2021年4月24日この座禅会を始めて六周年となりました。大難の時であるからこそ、足下をしっかりと見定める時でもあろうかと思います。初心を思い返し、最初の文章を今年も再掲します。お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、という思いを抱いてはいないか。その思いがすでに怨みであると知りなさい。怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。いっさいの怨みを棄てよ。今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。棄てれば、必ず軽くなる。棄てて、かろやかに生きなさい。― 『スッタニパータ』第一章 ―静かな所で何をするでもなく落ち着いて瞑想をすることで心身の調子が整う、という事は昔から広く知られ、行われてきました。近年では科学的分析により血圧が下がる、海馬の機能が促進され脳内の情報整理がされる、精神安定に重要な働きをするセロトニンの生成が促される、等の効果が確認されているそうです。しかし坐禅は、これらの効果を内包しながらも、何も求めないで只ひたすらに坐る事こそ最上のものである、と伝えられてきました。私はそれは、「軽くなる」からだと思います。人間生きていれば百人百様、様々な想いやしがらみを背負っているはずです。古人は人生を「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と形容したそうですが、時には荷を下ろし、わが身を見つめ直す時間こそ忙しい現代人に必要な物だと思います。一人で行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝座禅会はそのような場となる様発起しました。皆さんと行うこの坐禅の一時が、「軽やかな」時間となることを願います。祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は5月24日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。 -
令和3年四月 観音朝詣り
2021年4月14日先代住職裕之は「曹洞土民」とよく言っていました。また弊師と同年代以上の宗門の老僧方もよく「曹洞土民じゃから」という言い方をしていました。いつの時代からか分かりませんが「臨済殿様、曹洞土民」という言葉が使われました。これは、同じ禅宗でも、臨済宗は将軍家や守護などの大大名が建立し、大伽藍とそれを維持する広い領地をもっていた寺院が多いのに対し、曹洞宗は百姓に支えられた田舎寺が大部分だったことからきたのだと思います。そしておそらくは曹洞宗を蔑む言葉だったのでしょう。土民も農民を蔑む言葉です。しかし私の聞いた限り、裕之や老僧方は卑下してこの言葉を使ったようには思えません。そうではなく、曹洞宗は民衆と共にあるのだという自負を感じました。「土」は、農耕社会では生産の基(もとい)です。生命の母であり、死ねば等しく帰って行くところとされました。「百姓」も、近年では農民に対する差別語としてのみ使われるようになりました。かつて檀家の農家の親父さんたちが「俺は百姓だから」と言うとき、土に塗(まみ)れて耕し、命の基(もとい)を生産している者としての誇りを感じたものです。権力を握る側からは差別語であったかも知れないが、民衆には民衆の誇りがあったのです。それは労働する者の誇りです。情報化社会と言われて久しい現在では、汚れる仕事、肉体的にきつい仕事は嫌われるだけでなく価値もおかれなくなりました。コンピュータを駆使する仕事の方がはるかに高い労働生産性を持ち、従って給与もよい。いわゆる3Kに分類される仕事に進んで就こうとする人は少なくなり、外国人に頼る状況です。将来はロボットに任せるという話もあります。果たしてそれでよいのでしょうか。人間は本来、額に汗して働き技術や知識を身につけてゆく、そんな労働に喜びと幸せを感じる生き物です。肉体的な労働から解放されることが、実は人間の喜びを奪ってゆく。現代文明は人間の幸せと反対の方向に向かっている。そうでなければいいのですが。令和3年4月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之十八日の朝詣りは午前6時から行います。 -
平成30年度本山参拝(6月5日~7日)
2018年7月8日先月に曹洞宗大本山永平寺に檀家さんと参拝旅行に行ってきました。
曹洞宗には本山が二つあります。
福井の永平寺と横浜の總持寺です。
祥雲寺では毎年交互に永平寺と總持寺への檀信徒参拝旅行を行っています。
今年は永平寺にお参りし、琵琶湖湖畔の観音様のお寺渡岸寺に行って長良川の鵜飼いを見て、名古屋の明治村を観光してきました。











