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令和5年3月 朝坐禅会「指月の会」案内(27日朝6時半より)
2023年3月24日花は ただ 咲く
ただ ひたすらに
ただになれない
人間のわたし
『相田みつをの言葉』
今年も早三月となり、桜咲く春の季節を迎えました。
年末から慌ただしくしていたらいつの間にか月日は流れ、早咲きで楽しませてくれる天然記念物に指定の祥雲寺しだれ桜もいつの間にか満開を迎えました。
桜は良いものです。
春の日差しの中青空と桜を見上げているだけでも、乱れ浮ついていた気持ちが落ち着いてくるようです。
祥雲寺のしだれ桜は、昔はおばけ桜と言われるほどに大きかったそうです。
江戸初期の本堂改修の記念樹として植えたそうで、昔の写真には大変立派な姿が残っています。
昭和23年にもらい火で本堂が焼け落ち、しだれ桜も共に焼けてしまいました。
そのまま枯れるかと思われましたが、樹勢が強く蘇るかもしれないからと治療を続け、枝を伸ばし花を咲かせるところまで来ました。
しかし樹皮の下に病気が入ってしまい、残った幹を切り詰めなくてはならなくなり、残念なことに現存するのは昔の土台部分の幹のみとなりました。
またその幹も、病気で悪くなった部分を切除したため、中は空洞になっています。
人間で言うならこの桜は全身やけど内蔵損失の、重篤な状態のまま生き延びているのです。
上記の言葉は、相田さんの作品です。
花は人に見られようが見られまいが、どんな環境にあっても命の働きのままに花開き美しく咲こうとする。
大自然に或るものは、ただ生命のあるがままにありなるようになるのが正しいのだと示してくれている。
そんな迷いも作為も無い美しいあり方に、成り切れないのが人間の私。
この言葉は、迷い悩みの世界から中々離れることのできない人間の弱さ悲しさを表現しているのでしょう。
正しく生きようとしてもそうできない、そんな私たちへの労りと慈しみの眼差しを感じる言葉でもあります。
弱く、脆く、儚いのが人間だと知るからこそ、皆同じ悲しみを背負っているのだと思えばこそ生まれてくる共感の心。
私はそれこそ、観音様の慈悲心だと思っています。
段々小さくなりながらも花咲かせてくれたあのしだれ桜の様に生きる事はなかなか出来ないです。
でもそんな弱い私でも、及ばなくても積み重ねていくことくらいは出来るはず。
いつの日にか小さくとも花開かせることができる様、上を向いて歩きたいです。
祥雲寺副住職 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回開催は4月24日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和5年1月 朝坐禅会「指月の会」案内(1月の開催は23日となります)
2023年1月22日第四不妄語。法輪は本より転ずれば、剰ることも無く、欠くることも無し。甘露は一潤せば、実を得、真を得るなり。『教授戒文』
先日NHKを視聴していて、ちこちゃんに叱られるを聞いていましたら、
「人はなぜ嘘をつくようになるのか」
という問いかけがありました。
回答としては「自分と他人の心の中は違うと分かるようになるから」
児童心理学の見地から、子どもが4~5歳になってくると
経験や体験から心の理論が発達していって
自分と他人の心は違うものであり、各々の気持ちや考えによって行動するものであると
理解できるようになるそうです。
意図的な嘘がつけるようになるのは成長の証でもありそれほど気にするものではない。
他人に罪を着せるような嘘はきちんとたしなめ、そして嘘をついたことを責めるよりも本当のことを言ったときに褒めてあげるようにと締めていました。
この最後のところのまとめが、上記の文章に一脈通じるかも、と思った次第です。
上記は十戒。仏教徒がしないよう注意する十種ある戒律の一つです。
よくある誤解として、戒というのは「してはならない」ではなく「しないことを誓う」ものです。
絶対しない、という枷をはめるようなものではなく、選択の際にしないと選ぶことができる自分に育て整えていこうとするものです。
第一に不殺生殺さない、第二に不偸盗盗まない、第三に不貪淫性を貪らないと続いて第四に不妄語戒と続きます。
字義そのままなら、嘘をつかないことを誓う、という意のものです。
嘘をつくのはいけないこと、それは誰でも知っていることです。
社会的には言葉の信用度を下げ周囲の信頼を失うもの、刑罰に問われかねないものとなるでしょう。
仏教的には自身の心の問題としてこの不妄語を説きます。
昔の禅僧にあるお殿様が言いました。
極楽とはどこにある?
禅僧は、そんなこともわからないのかこの馬鹿殿が、と罵倒しました。
お殿様は怒ってこの坊主め、たたき切ってくれるわ、と刀を抜きました。
禅僧は、ここが地獄じゃ、その心持こそが地獄なのじゃ、と説きました。
お殿様はあっと言って刀を収めごめんなさいと謝りました。
禅僧は、ここが極楽じゃ、その心持こそが極楽なのじゃ、と説きました。
少し内容がずれますが同じことです。
嘘をつくことが良くないことだとはだれもが知るところです。
その後ろめたさ、斬鬼の念は必ず心を、行動を、生き方をゆがめ曇らせていきます。
嘘は一時の利を運んでも、自身の心を極楽へは運んでくれないのです。
それよりは真実の言葉に、行動に生きることを選ぶほうがよほど良いはずです。
嘘をつかないことを選ぶなら、それは自身を汚すことなく、真実に沿うことの明るさや落ち着きに結びつきます。
それを常としたならば、その積み重ねが習慣となって自身を守ってくれるようになります。
地獄に落ちることのない自分へ育ててくれるのです。
上記の言葉は、嘘のない生き方、本当の世界に生きる功徳を讃えた言葉なのです。
番組の締めの本当のことを言ったことを褒められた体験は、きっと嘘をついてしまうことから遠ざかる助けとなるでしょう。
祥雲寺副住職 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回開催は2月27日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
1月の諸行事
2023年1月7日1月の諸行事 ご興味の方はお問い合わせ下さい。
■除夜の鐘 元朝祈祷
除夜の鐘を突いた後元旦一時よりご祈祷をしたお札を檀家に配布しています。
今年はお参りの方のみ配布し、二月旧正月に檀家郵送となります。
■雀宮善應院坐禅会(第四水曜日のみお休み)
宇都宮南町1番36号「善應院」にて毎週水曜日(第四以外)夜6時から行っている坐禅会です。
1月11日、18日
■月例坐禅会「指月の会」
祥雲寺本堂にて毎月第四月曜朝6時半から行っている坐禅会です。
1月23日
■テラヨガ(ヨガ教室)
阿久津先生指導の下第一第三金曜日10時半から。初心者クラスは第二第四金曜日10時半から
1月20日。 初心者クラスは13日、27日
■陶芸教室「祥陶会」
駐車場下の作陶場にて毎週火、木午後1時から行っています。
■石彫会「羅漢の会」
毎週土曜午後、駐車場作事場にて石仏の彫刻を行っています。指導は松原「金野石材店」
■茶道教室
月二回火曜日午後2時から、裏千家鈴木宗陽先生のご指導の下行っています。
1月17日初釜 24日普通のお稽古
■写経会
写経会は5月から11月、第二日曜日午後2時から行っています。
4月まで休止。
■御詠歌
祥雲寺住職、並びに栃木市豊栖院飯塚先生の指導の下月2回行っています。
1月20日 新年初練習(鉦おこし) 10時より
1月23日 長岡公民館初練習 午後1時半~3時半
■フラワーアレンジメント教室
南宇都宮駅前「フラワー花亀」亀井先生指導の下第四水曜日午後1時半より行っています。
1月25日
■折り紙教室
カルチャースクール講師長谷川京子先生指導のもと第3水曜日午前10時よりより行っています。
1月18日
■クラフトペーパー教室
同じくカルチャースクール講師長谷川先生指導のもと第2月曜日午前10時より行っています。
1月9日
■観音朝詣り
境内33観音霊場を18日朝にお参りするミニ巡礼会です。開始時間は季節により前後します。
今月は午前 9 時 から
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令和4年12月 朝坐禅会指「指月の会」案内(12月の開催は26日となります)
2022年12月25日吾我を離るるには、観無常是れ第一の用心なり」 (正法眼蔵随聞記)
今年も年の瀬となり、来年に向けての大掃除が先日終わりました。
来年の算段も諸々考え動き出しています。
地元の仲間が、来年から大本山永平寺で役寮という運営指導役のご指名を受けました。
栃木と福井を行き来して役に付くのは大変でしょうがどうか頑張っていただきたいです。
その際には修行僧らで挫折する人が出ないようよく見てあげてほしいと切望します。
私自身上山して2,3週間後が一番きつくて折れそうになりました。
あの時仲間に支えてもらっていなかったら全く違う人生を歩んでいたでしょう。
では修行では何が大変なのか、どうして挫折するのかと考えてみると、
上記の「吾我を離れる」という部分に躓くのではないかと思いました。
先日ドイツ人の禅僧ネルケ無方師に宇都宮仏教会の仏教文化講演会でお話を頂戴しました。
内容はご自身の発心修行菩提涅槃、なぜ出家しどう修行して何に気づいたかです。
少し端折って要約するならば
「坐禅を体験して自身の視点が変わり興味を持った。
出家しお寺で修行を始めたが修行らしいことは出来ず雑用ばかりで不満を持った。
不満を訴えたらお前のことなど知らん、と言われて失望した。
しかしそれこそが師の叱咤激励であったのだと気づくことができた。
修行は集団生活で、皆で支えあうのだから裏方も当然せねばならない。
そうしたとき我が強く自身を優先していては場が成り立たない。
むしろ迷い悩みの根源となる我を手放していくことが修行であり精進なのであるのに
いったい何にこだわっているのだ」と。
この自意識の問題、我を離れるというのがなかなか難しいのです。
私も修行の中、我執を離れるとは如何なる事かを感じるきっかけがあって少しは理解できました。
禅の修行は、自身で迷いから離れ気づく、体験をするという所を重視してきました。
他人から教え諭されるのではなく、自身で気づき見つけることでそれが自身の宝となる。
永平寺での修業がやり方を教わるばかりで
これが何なのか何故そうするのかに言及されないのはそういうことです。
現代のお坊さんは家がお寺だからと修行に臨む人が多いです。
動機がそこであっても出家修業とは間違いなく尊い得難い機会です。
この稀なるご縁を損なうことのない様フォローがなされてほしいと願うばかりです。
祥雲寺副住職 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。1月は23日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和4年11月 朝坐禅会「指月の会」案内(11月28日朝6時半より)
2022年11月25日拈華微笑
先日NHKでやっているチコちゃんに叱られる、という番組で国宝の定義とは?の問いかけがありました。
チコちゃんの回答は「明治政府の暴走を止めた制度」でした。
曰く、明治政府は天皇を中心とする国家神道を目指し、
その為には一部混在していた仏教が邪魔になり、分ける目的で神仏分離令を出した。
それが加熱して寺が壊され仏像が捨てられる廃仏毀釈となった。
当時日本に赴任していたフェノロサら外国人達を皮切りに有志が美術品保護運動を起こし、保存法として国宝が誕生した、という流れだそうです。
今日様々な仏教美術が国宝として保護され拝観できるのは、こうした制度による保護あってこそというお話でした。
美術品というのは其れを見ることで感動を呼び起こす、何らかの情動を起こすものだそうです。
では仏教美術とは何を引き起こすものなのでしょうか。
私はそれは、安心(あんじん)や平常心と呼ばれる、心の有り様落ち着き平穏を見て取りまた受け取れるものだと思っています。
お釈迦様は説法の際、花を拈じて微笑みと共に一番弟子に教えを伝えたと言います。
爾来禅宗では以心伝心、心を以て心に伝えようと相対する、面授を尊んできたのです。
少し話が変わりますが、昨今は技術の革新によって、機械測定によって人の感情の機微、好悪の程が測定できるそうです。
その研究によると、顔の筋肉の微細な動きや全身のわずかな挙措で人はお互いに言葉を発さずとも多くの情報をやり取りしているとのことです。
言葉を介さずとも、伝わるものは確かにある、という話です。
それならば、言葉を介さずとも注釈が無かろうとも動きが無かろうとも、物言わぬ仏像から伝わるものは確かにあるのでしょう。
そこに表されるもの、表そうとしてきたもの、其れを旨く伝えられるよう精進していきたいです。
それこそが、心を以て心に伝えようとしてきた、ほとけごころというべきものだと思っています。
祥雲寺副住職 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。12月は26日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています







