ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

観音朝詣り 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

観音朝詣り

  • 令和三年8月 観音朝詣り

    2021年8月18日
     

    ミソハギの花。お盆の供養花として知られていますが、今年は咲くのが早かったです。

     お釈迦様の涅槃を伝えるのが涅槃経です。
     最後の旅に出られたお釈迦様が、付き従ったアーナンダに
    「(私の入滅の後は)法を灯とし、自らを灯として生きよ」と諭(さと)されたことは「法灯明、自灯明」と言われて伝えられました。
    この言葉は仏教の本質を表した重要なものです。
     お釈迦様は紀元前5世紀から4世紀にかけて北インドにおわした方です。その方を仏教徒は、悟られた方、仏陀と信じ、その教えを、悟りの世界からの導き、「法(ダルマ)」として頂いているのです。
    これが法灯明です。
     法はどのような時代にも、環境にも、変わらない普遍的な真理です。
    しかしこの法を全ての人が間違いなく知ることができるのでしょうか。
     教えを受け取る側の問題があります。
    どのような人間も、時代・環境に制約されています。
    生まれも違う。言葉も違う。
    物事を考える筋道も違う。
    いかに普遍的な教えでも、それが説かれる時代、環境に沿うものでなければ人の心に届きません。
    お釈迦様が言葉にされた教えも、それが人々を救おうとして発せられたものである以上、時代、環境の制約を受けているのです。
     お釈迦様はこれについて
    「私の教え()があなたたちを縛るものであるなら、我が法を捨てよ」とおっしゃられました(筏イカダのたとえ)。
    自らの教えを相対化することであり、一般的な宗教ではあり得ない言葉です。
     法が捨てられたらどうなるか。
    信者、修行者が自ら道を求めるしかありません
    時代も環境も言葉も違っているのですから、それに適って腑に落ちていく仏さまの教えを創造していくしかありません。
    これが自らを灯とする自灯明です。
     大本がなければ迷いの道に入ってしまいますから、常に法に問いかけ、照らし合わせて、仏道に精進するのが仏教徒のあり方です。
     私は法灯明は信仰を、自灯明は修行を示すと思っています。
     
    令和3年8月15
    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職  安藤明之
  • 令和三年7月 観音朝詣り

    2021年7月17日
     仏陀は神様より偉いのか。
     お釈迦様は菩提樹の下で悟られた後もそのまま禅定に入られたままでした。
    それを見ていた大梵天は、せっかく悟られたのに説法をして下さらなければ私の作ったこの世界は滅びてしまうと危惧し、お釈迦様に説法、すなわち悟りの世界からの教えを説いて下さるよう懇願しました。
    お釈迦様はその願いを受け容れて、ベナレスの町に行き、最初の説法(初転法輪)をされました。(増一阿含経第十勧請品)
     梵天勧請といわれるこの話は、非常に深い意味を持っています。
     大梵天はインドでは、私たちの住むこの世界、娑婆世界を作った神様です。
    ほかの宗教なら、天地創造の絶対神であり、教えを請うてひれ伏すなどありえません。
    どうしてそうなるのか。
     
     それは、大梵天が主(あるじ)なのは「この世界」だけで、実際には三千世界と言われる無数の世界があるからです。
    これらの世界を普通の人間は見ることはできません。それは、仮に世界と名付けるだけで、物質でできているかどうかも分からない、人知を越えたものであるからです。
    これを仏教では「不思議」という言葉で言い表します。
     
     言い換えれば、人間の知力には限界があるということを示しているのです。人間が、持って生まれた肉体で物事をとらえ、組み立て、判断していることから来る限界です。
     お釈迦様は、この三千世界を貫く真理(ダルマ)を悟られた方、仏陀なのです。悟りは「知る」ではありません。人間的な知を越えたもので仮に如来智と名付けます。
     悟りの前では、我々の前にある全ての事象が相対化します。それは神さえも例外ではありません。仏陀が神より偉いのではなく、どちらが偉いのかという考えが否定されるのです。
     三千世界も、人知を越えた悟りがあることも、お釈迦様が悟りを得たことも、私たちには証明することができません。ですからこれは信仰です。その教えが、ひとつひとつ我が身に照らして納得でき、救いとなるとき仏教徒となります。
     仏教はお釈迦様が仏陀であることを信じる宗教です。
     
     令和3年7月15
    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職  安藤明之
    十八日の朝詣りは午前6時から行います。
  • 令和三年6月 観音朝詣り

    2021年6月20日

    7月7日はべんてん祭り。去年は出来ませんでしたが今年は行えるよう準備を始めています。

    今年は感染の懸念が無いよう対処して行いたいです。ご興味の方はお電話ください。

     

     NHKの「チコちゃんに叱られる」で面白い話がありました。
    にぎり寿司一人前はだいたい10個(10)と決まっているそうで、どうしてそうなのかという話でした。
     戦後まだ統制経済だった時、寿司屋さんは営業が出来ませんでした。
    配給制で営業用の米がないのですからどうしょうもありません。
    その時、東京都内の老舗寿司屋さんたちが、お米を一合持ってきてくれば、10個のにぎり寿司にしてお出ししますという、法律で禁じられていない食品加工の方式を考え出したのだそうです。
     それでも、店を開けるのには知事の認可が必要で、魚も統制されていたので許可されなかったのですが、野菜を代わりに使うということでようやく開店できたとのことです。
    カッパ巻きがその産物だということでした。
     果たして客が来てくれるか不安だった開店の日、お米を持って次から次と人が来て嬉しかった思い出を、老舗の老体が語っていました。
     今も昔も寿司は贅沢品ですが、無理をしてでも美味しいものを食べたいという人間の本性は変わらないということでしょう。
    おかげで江戸前寿司の伝統が守られたという結論でした。
     この話を聞き、私は工夫という言葉を思い出しました。
    工夫は、手間暇をかけて物作りの思案をするというのが元々の意味です。
    たとえば、なにか物を作っているときに起きた問題を、培われた技術と発想を変えた考えで解決し、目的を達成したり、新しいものを作り出したりすることです。
     寿司屋さんには修業を積んだ技術があります。
    美味しいものを作って人の喜ぶ姿を見たいという意欲もあります。
    ただ肝心の食材がないという大困難を、お米を持ってきてもらうという発想の転換で解決したのです。
    商売が続けられるか?
    江戸前の伝統が自分たちで終わってしまわないか?。
    切羽詰まったからこそ生まれた解決法だったのでしょう。
     禅も工夫を大切にします。
    自己を見つめ、切羽詰まったときに、自己を捨てるという大転換がなされ、無心に坐禅に精進することを禅宗では工夫というのです。
     令和3年6月15
    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職  安藤明之
    十八日の朝詣りは午前6時から行います。
  • 令和3年四月 観音朝詣り

    2021年4月14日

    宇都宮仏教会の花まつり法要を四月六日祥雲寺にて行いました。 例年なら大通りでパレードをし、文化センターで法要公演となるのですが、コロナ禍の為縮小して行っています。

    宇都宮保育園園児による礼賛の舞い。この日の為に一生懸命練習してお披露目しています。

     

     先代住職裕之は「曹洞土民」とよく言っていました。
    また弊師と同年代以上の宗門の老僧方もよく「曹洞土民じゃから」という言い方をしていました。
     いつの時代からか分かりませんが「臨済殿様、曹洞土民」という言葉が使われました。
    これは、同じ禅宗でも、臨済宗は将軍家や守護などの大大名が建立し、大伽藍とそれを維持する広い領地をもっていた寺院が多いのに対し、曹洞宗は百姓に支えられた田舎寺が大部分だったことからきたのだと思います。
    そしておそらくは曹洞宗を蔑む言葉だったのでしょう。土民も農民を蔑む言葉です。
     しかし私の聞いた限り、裕之や老僧方は卑下してこの言葉を使ったようには思えません。
    そうではなく、曹洞宗は民衆と共にあるのだという自負を感じました。
     「土」は、農耕社会では生産の基(もとい)です。
    生命の母であり、死ねば等しく帰って行くところとされました
     「百姓」も、近年では農民に対する差別語としてのみ使われるようになりました。
    かつて檀家の農家の親父さんたちが「俺は百姓だから」と言うとき、土に塗(まみ)れて耕し、命の基(もとい)を生産している者としての誇りを感じたものです。
    権力を握る側からは差別語であったかも知れないが、民衆には民衆の誇りがあったのです。
    それは労働する者の誇りです。
     情報化社会と言われて久しい現在では、汚れる仕事、肉体的にきつい仕事は嫌われるだけでなく価値もおかれなくなりました。
    コンピュータを駆使する仕事の方がはるかに高い労働生産性を持ち、従って給与もよい。
    いわゆる3Kに分類される仕事に進んで就こうとする人は少なくなり、外国人に頼る状況です。
    将来はロボットに任せるという話もあります。
    果たしてそれでよいのでしょうか。
      人間は本来、額に汗して働き技術や知識を身につけてゆく、そんな労働に喜びと幸せを感じる生き物です。
    肉体的な労働から解放されることが、実は人間の喜びを奪ってゆく。
    現代文明は人間の幸せと反対の方向に向かっている。
    そうでなければいいのですが。
     令和3年4月15日
                  宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職  安藤明之
    十八日の朝詣りは午前6時から行います。
  • 令和3年三月 観音朝詣り

    2021年3月16日

     

     

    3月頭の梅林。

    3月頭は紅梅、蝋梅、白梅が一斉に見ることが出来ました。

    5日スタートのテラヨガ

    楽しく一時間頑張りました。毎月第一第三金曜日10時半開催。

    今年初めてのご詠歌。本堂でご本尊に一緒にお唱えから始めました。

    3月11日は東日本大震災から10年。慰霊碑の前で来られた方とお経をあげて手を合わせました。

      2月21日の朝、NHKで「新日本紀行『南栃木』」という番組がありました。

    昭和44年の映像の再放送です。

     

     渡良瀬川の渡し守りから始まって、足利の機織りと友禅流し、出流山の行者、葛生の砕石場、蔵の町の伝統を守ろうとする栃木、工業化し若者のあふれる小山、最後は足尾鉱毒事件で廃村になった谷中村跡の様子でした。

    経済高度成長期のまっただ中、変わりゆく日本が捉えられ、身近な地域の映像だけに感慨深いものがありました。

     NHKは質の高い番組を作ってきたと思います。

    それは、ドキュメントに限らず、科学番組や政治経済番組、さらには娯楽番組までにもいえることです。

     ところが、現在NHKへの風あたりはとても強いのです。

    政権に近い保守派からは、報道が政策批判に偏向していると非難され、国営放送として「粛々と」事実のみを伝えればよいと言われます。

    実はその事実とは為政者に都合のよい事実を指すのですが。

     一方では、NHKが政府の意向を忖度して事実を伝えていないとの批判も多くなされています。

      両方向からの批判にさらされるのは、国民から受信料を取って、独立採算制で運営しているからです。

    税金を財源としないので国営放送ではなく公共放送です。

    公共放送というのは、電波は国民の共有財産であるという考えに基づいています。

    国民のものとして、事業・予算と経営委員の任命は国会の承認に依り、間接的に国民が運営に関わるという建前です。

     

     お金を出していれば、口を出したくなるのは世の常です。

    放送内容や運営について物言いがたくさんなされるのはよいことだと思います。

    しかし、それが受信料の否定につながるのはよいこととは思えません。

     受信料を国民が負担し、それ故に国民の監視を受けなければならないという建前になっているからこそ、よい番組を作り続けてきたのだと思います。

     学術、文化に関わるものは基本的に政治、権力から干渉されないようにすべきです。その意味で、現在の公共放送のあり方は維持していくべきだと思います。

     令和3年3月15日

    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

祥雲寺行事案内

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