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令和4年6月 月例朝坐禅会「指月の会」案内(7月は25日になります)
2022年6月26日無常を観ずる時、吾我(自我)の心生ぜず、名利(名誉や富)の念起こらず。
『学道用心集』
先月に続いて「我」というべき処についてのお話をします。
5月、本山へのお参りで福井県の大本山永平寺、石川県の能登半島総持寺祖院へお参りをしてきました。
ご本山は懐かしく、20年近く経ってもかつての修行の日々を思い起こさせてくれます。
また祖院は曹洞宗の僧侶にとって意義深い場所であり、少人数ながら修行道場として一心に運営されていることが見受けられ、心ばえの力を強く見せてくれました。
修行とは何なのでしょう。
古くから仏教とは何か、という問には
「悪いことをしない、良いことを行う、自らの心を清めていく、これが仏教だ」(七佛通戒偈)
と言われてきました。
日本で曹洞宗を開かれた道元禅師の信仰は
歴代仏祖の生き方を学びまねることと駒澤大学小川先生は解説されていました。
曹洞宗の修行とは
仏の生き方を身につける事、と私は教わりました。
その修行の大きな要素として、我を小さく少ないものとしていくところが在るのでしょう。
私はお寺で生まれ育ちましたが、永平寺での修行は辛く、坐禅の時間は苦痛以外の何物でもありませんでした。
しかし九ヶ月経った冬の坐禅の時、修行仲間との諍いで頭がいっぱい疲労困憊で坐禅に臨んでいたら
「皆が私に優しくしてくれないのは、私が皆に優しくしていないからだ」
と思いがひっくり返って腹落ちして、身も心も軽くなって坐ることが出来ました。
修行というのは座禅というのは、理屈ばかり形ばかりのものではないのだと初めて実感できた経験でした。
今にして思えば、私は「なんで俺が」という想いにしがみついて不平不満ばかりをため込んで修行をやり過ごそうとしていたのでしょう。
しかししがみついていた想いをこだわりを手放してみれば、なんともかろやかな心身で修行の生活に望めるようになっていて、我を張らないというのはこんなにも楽なのだと気付くことが出来ました。
道元禅師は「放てば手にみてり」という言葉でお諭しになられています。
握りしめてしまっている抱え込んでしまっているあれこれの事物を思い切って手放してご覧なさい、放してみても案外大丈夫で、実は放した手に既に十分な何かがあることに気付くことも出来るのですよ
私はそんな風にこの言葉を説明しています。
私にとって修行とは、あれこれのおもいを手放させてくれる道、かろやかな生き方を教えてもらった、そんな時間でした。
永平寺にお参りする度、私の人生の転換点を繰り返し思い出させてくれます。
永平寺は、心のチリを払う道場、私の仏道歩む道を示してくれた場所。
読んで字の如く、有り難いところです。
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は7月25日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和4年5月 朝坐禅会「指月の会」案内(5月23日開催)
2022年5月22日無常を観ずる時、吾我(自我)の心生ぜず、名利(名誉や富)の念起こらず。
『学道用心集』
皆さんはゴールデンウィークを如何お過ごしでしたでしょうか。
各々様々予定を立てていたようで、坐禅会に参加されているある女性は、兵庫の安泰寺という禅寺に坐禅に行くと言われていました。
この安泰寺、ネルケ無方というドイツ出身のお坊さんが住職をしていたお寺で、私はネルケ師の講演を二回お聞きしたことがあります。
曰く
高校生のころ学校の坐禅サークルで坐禅を経験して、初めて自分の頭の下に体があることが分かった。
仏教を学びたいと思って大学の時に宇都宮に寄宿して修行できる寺を探し、兵庫の安泰寺に行き着いた。
いざ修行に入ろうと言うときには住職から「おまえが安泰寺を作るのだ」と激励された。
しかし入ってみると掃除炊事洗濯と、修行とは思えないことばかりやらされる。
こんなはずは無かった、自分は修行をしたくて来たのだと住職に詰め寄ると
「おまえのことなんか知るか」と言われてしまった。
気落ちしたが、後日これこそが師の指導、叱咤激励であるとわかった。
仏道の修行とは何であるか?
それは俺が私が、という「我」の心を小さく少なくしていくことだ。
修行の道場は大勢で運営されるものだ。
大人数で生活するのだから役割分担がとても大切になる。
その中で我を張っていては分担は成り立たない。
だからこそ、法要や坐禅と言った修行らしい修行を支える掃除炊事洗濯といったこともまた大切な修行となる。
吾我の心、我を張ることを捨てるまたとない修行の機会となるのだ。
ネルケ師は6月に足利にて仏教会の講演会でお話をされるそうです。
私もまたお聞きしにうかがえればと思っています。
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は6月27日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和4年4月 朝坐禅会「指月の会」案内(4月25日朝6時半より)
2022年4月23日この座禅会を始めて七周年となりました。
大難の時であるからこそ、足下をしっかりと見定める時でもあろうかと思います。
初心を思い返し、最初の文章を今年も再掲します。
お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。
誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、
誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、
という思いを抱いてはいないか。
その思いがすでに怨みであると知りなさい。
怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。
いっさいの怨みを棄てよ。
今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。
棄てれば、必ず軽くなる。
棄てて、かろやかに生きなさい。
― 『スッタニパータ』第一章 ―
静かな所で何をするでもなく落ち着いて瞑想をすることで心身の調子が整う、という事は昔から広く知られ、行われてきました。
近年では科学的分析により血圧が下がる、海馬の機能が促進され脳内の情報整理がされる、精神安定に重要な働きをするセロトニンの生成が促される、等の効果が確認されているそうです。
しかし坐禅は、これらの効果を内包しながらも、何も求めないで只ひたすらに坐る事こそ最上のものである、と伝えられてきました。
私はそれは、「軽くなる」からだと思います。
人間生きていれば百人百様、様々な想いやしがらみを背負っているはずです。
古人は人生を「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と形容したそうですが、時には荷を下ろし、わが身を見つめ直す時間こそ忙しい現代人に必要な物だと思います。
一人で行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝座禅会はそのような場となる様発起しました。
皆さんと行うこの坐禅の一時が、「軽やかな」時間となることを願います。
祥雲寺副住職 安藤淳之
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
初めての方は15分前に来てください。
次回は5月23日となります。
また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。
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令和4年3月28日 朝坐禅会「指月の会」案内
2022年3月27日「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ、災難を逃るる妙法にて候」
知人にあてた良寛の手紙より
何年か前ですが、3月11日東日本大震災慰霊の日に合わせて、テレビで災害特集が行われ、その中でキャスターが
「私たちに豊かな恵みをもたらしてくれるはずの自然が、なぜこのような災害をもたらしたのでしょうか」
と言っていたことがありました。
日本人の自然観はここまで変化していたのか、と思いながら聞いていました。
日本は四季の彩りがはっきり現れる、惠み多く美しい国だといわれています。
それは裏を返せば気候の変化が大きく、その分苛酷に人々を苛むことがあります。
地震が多い国であることは言うまでもありません。
天変地異、災害の多い国で生きる私たち日本人は、災害を協力して生き残るべく淘汰され、「和」という精神を大切にしてきました。
そしてそんな私たちだからこそ、自然は恵みをもたらすばかりではなく災いをもたらす面もあるのだと、畏れ敬う和魂荒魂という自然崇拝としての神道が育まれたと思います。
自然は思い通りにならないもの、制御できないものと、私たちは長い時をかけて自然との付き合いを覚えてきたはずです。
自然から遠ざかった都市の内側から見る世界観は、私には些かいびつに思えます。
それは自然を征服したという人間の驕りや、自分たちのものにしたという執着から生まれてくる考えのように感じられます。
江戸時代の禅僧、良寛さんの残した言葉に上記のものがあります。
これは注意深く読み取らなくてはならない言葉です。
災害への遭遇も老病死に会うことも、殆ど不可避のもの。
それを思い煩い、危ぶみ悩み悔やんでばかりならば心が疲れてしまう。
不可避の事態なら、「そういうこともある」と腹をくくることも時として必要になる。
無手無策でいろと言うのではなく、都度あることなのだと真摯に臨む腹積もりを持つ。
腹を決めて臨むことが、結局は災難に心がとらわれない対処法なのだ。
私にはそんな風に説いているように感じます。
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?
祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は4月25日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和4年2月28日 朝坐禅会「指月の会」案内
2022年2月26日お前たちは「もう我らの師はおられない」と考えてはならない。
私の説いた法と私の定めた律こそが、私亡き後の師である。
『涅槃経』
2月はお釈迦様の亡くなられた月です。
15日が命日なので、1日から涅槃図という釈尊入滅の軸を掲げ、前日14日まで遺言のお経を読んでお勤めをしています。
上記の言葉はお釈迦様が亡くなる前の最後の旅を描いた『涅槃経』の一節になります。
多くの仏教徒に同じく、私にとっても導きとなった大切な言葉です。
私の法話の師匠に
「葬式で導師は故人を仏さまとして導く。
そして遺族に、故人を仏さまとして自らの人生の師として頂いてもらう。
それが導師のなすべきことである」
といった大意のお話を頂戴したことがあります。
叔父を亡くした時近所の近しい方を亡くした時、お二人に良くしてもらったように人に良く接して、ご縁を大切にしなくてはと、思いが切り替わった時がありました。
そうして親切にしようと努めるとき、そこかしこにお二人に良くしてもらった思い出がよみがえり、寂しさが少し薄れた経験があります。
故人を仏さまとして、自らの人生の導き手として頂くというのはこういうことなのかと思いました。
お葬式の翌日、初七日の際には私はこの話をしています。
多くの方は近しい人を亡くされた後は、それまであったネガティブな想いが薄らいで、よかった思い出ばかりが浮かんでくるようになるそうです。
対立する相手がいなくなって反発する想いが行き場を失い、見えていなかったものが見えるようになるからです。
遺族の方が知る、故人の良かった所素晴らしかった所良くしてくれた事、可能ならばそれらをどうか心がけてあげてください。
それらが行われるとき、行いの中に仏となられた故人がよみがえります。
良いことをして幸せの種をまき、善行の導き手として師として仏となった故人を自分の人生に生かす。
これが忌中の間心がけるべきこと、追善供養となるのです。
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?
祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は3月28日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています