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令和3年四月 観音朝詣り
2021年4月14日先代住職裕之は「曹洞土民」とよく言っていました。また弊師と同年代以上の宗門の老僧方もよく「曹洞土民じゃから」という言い方をしていました。いつの時代からか分かりませんが「臨済殿様、曹洞土民」という言葉が使われました。これは、同じ禅宗でも、臨済宗は将軍家や守護などの大大名が建立し、大伽藍とそれを維持する広い領地をもっていた寺院が多いのに対し、曹洞宗は百姓に支えられた田舎寺が大部分だったことからきたのだと思います。そしておそらくは曹洞宗を蔑む言葉だったのでしょう。土民も農民を蔑む言葉です。しかし私の聞いた限り、裕之や老僧方は卑下してこの言葉を使ったようには思えません。そうではなく、曹洞宗は民衆と共にあるのだという自負を感じました。「土」は、農耕社会では生産の基(もとい)です。生命の母であり、死ねば等しく帰って行くところとされました。「百姓」も、近年では農民に対する差別語としてのみ使われるようになりました。かつて檀家の農家の親父さんたちが「俺は百姓だから」と言うとき、土に塗(まみ)れて耕し、命の基(もとい)を生産している者としての誇りを感じたものです。権力を握る側からは差別語であったかも知れないが、民衆には民衆の誇りがあったのです。それは労働する者の誇りです。情報化社会と言われて久しい現在では、汚れる仕事、肉体的にきつい仕事は嫌われるだけでなく価値もおかれなくなりました。コンピュータを駆使する仕事の方がはるかに高い労働生産性を持ち、従って給与もよい。いわゆる3Kに分類される仕事に進んで就こうとする人は少なくなり、外国人に頼る状況です。将来はロボットに任せるという話もあります。果たしてそれでよいのでしょうか。人間は本来、額に汗して働き技術や知識を身につけてゆく、そんな労働に喜びと幸せを感じる生き物です。肉体的な労働から解放されることが、実は人間の喜びを奪ってゆく。現代文明は人間の幸せと反対の方向に向かっている。そうでなければいいのですが。令和3年4月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之十八日の朝詣りは午前6時から行います。 -
令和3年三月 観音朝詣り
2021年3月16日2月21日の朝、NHKで「新日本紀行『南栃木』」という番組がありました。
昭和44年の映像の再放送です。
渡良瀬川の渡し守りから始まって、足利の機織りと友禅流し、出流山の行者、葛生の砕石場、蔵の町の伝統を守ろうとする栃木、工業化し若者のあふれる小山、最後は足尾鉱毒事件で廃村になった谷中村跡の様子でした。
経済高度成長期のまっただ中、変わりゆく日本が捉えられ、身近な地域の映像だけに感慨深いものがありました。
NHKは質の高い番組を作ってきたと思います。
それは、ドキュメントに限らず、科学番組や政治経済番組、さらには娯楽番組までにもいえることです。
ところが、現在NHKへの風あたりはとても強いのです。
政権に近い保守派からは、報道が政策批判に偏向していると非難され、国営放送として「粛々と」事実のみを伝えればよいと言われます。
実はその事実とは為政者に都合のよい事実を指すのですが。
一方では、NHKが政府の意向を忖度して事実を伝えていないとの批判も多くなされています。
両方向からの批判にさらされるのは、国民から受信料を取って、独立採算制で運営しているからです。
税金を財源としないので国営放送ではなく公共放送です。
公共放送というのは、電波は国民の共有財産であるという考えに基づいています。
国民のものとして、事業・予算と経営委員の任命は国会の承認に依り、間接的に国民が運営に関わるという建前です。
お金を出していれば、口を出したくなるのは世の常です。
放送内容や運営について物言いがたくさんなされるのはよいことだと思います。
しかし、それが受信料の否定につながるのはよいこととは思えません。
受信料を国民が負担し、それ故に国民の監視を受けなければならないという建前になっているからこそ、よい番組を作り続けてきたのだと思います。
学術、文化に関わるものは基本的に政治、権力から干渉されないようにすべきです。その意味で、現在の公共放送のあり方は維持していくべきだと思います。
令和3年3月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
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令和3年二月 観音朝詣り
2021年2月17日古(いにしえ)より民(たみ)を駆(か)るは信誠にあり王安石の詩「商鞅」より<意味> 昔から人を動かすのは言葉をたがえないことにあるアメリカ大統領の就任演説と管首相の所信表明演説を比べるテレビ番組のコメントや新聞雑誌の記事がたくさんありました。日本の首相を褒めたものは見聞きしませんでした。聞くものの心に訴えてくるものがないというのです。演説は人の心を揺り動かして演説者の思うところを人に納得させ、さらには行動を促すためにするものです。ヨーロッパではギリシャ・ローマ時代から人の上に立とうとする者にとって必須の素養とされました。チャーチルは少年時代、勉強嫌いの落ちこぼれ生徒でしたが、国語(英語)だけは好きで、特に人の心に訴えかける修辞法を熱心に勉強しました。彼の演説は、英国民を奮い立たせ第2次世界大戦を勝利に導きました。確かに政治家にとって演説は大事なものですが、文化の違いを考えないで、演説の善し悪しを比較するのはいかがなものでしょうか。日本の政治家は概して演説は下手ですから、その中身を丁寧に伝えるのが報道機関にとって何より大切だと思うのです。私は管総理の政治姿勢や手法には大きな問題があると思っていますが、それはさておいて、演説の技巧に目を向けすぎると、薄っぺらな報道になってしまいます。また、相手を言い負かして自己主張するだけの無責任な論調も蔓延しているように思えます。仮に内容に問題のある演説を無批判に持ち上げるようなことがあれば、それは国の将来を誤ります。チャーチル以上の演説の名手はヒトラーでした。王安石は、中国の北宋時代に国の改革を成功させた政治家です。彼は言葉は信頼にあると考え、冒頭の言葉に続いて「一言を重しとなし百金軽し」と言い切っています。言葉に責任を持つことを信(まこと)と言うのです。令和3年2月15日宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之寒さ厳しい時ですので十八日の朝詣りは午前9時から行います。